『造花が笑う』

 漫画や小説であればそこからベッタベタな展開が透けて見えるような、そんな出来過ぎた舞台。いかに平々凡々な人生を辿って来た人間であれ、突然目の前でそんなセットが組み上げられる瞬間が、少なくとも数回は訪れる。

 親の帰省についていった田舎のあぜ道で。

 押し付けられた習い事の帰りに歩く夜道で。

 文化祭の準備で初めて日の落ちるまで残った、薄暮れに支配された教室で。

 ――あるいは、退屈な講義の最中で響いた、プラスチックケースの落ちる音と共に。

 思うに、そんな激動の予兆をめくるめくアドヴェンチャーに飛び込むチャンスだと捉えるか、それとも日常で培われてきた感性では対応できない非常事態のアラートであると身を強張らせるかは、人間としてわりと根源的な性質の違いを表す。

 眼の前に迫る嵐にあえて揉まれるか、後ろに変わらず佇む凪に逃げ込むか。んで俺はというと……そのどちらでもない半端者だった。


「落ちたっすよ」


 ウェーブに触れないように軽く肩を叩き、慣れない事に跳ねる心をおくびにも出さない、平坦な声を添える。好奇心から見なかったことにもできず、かといってラブロマンスの役者振る舞いがしたい訳でもない。

予想の5割増しでびくりと肩を震わせ、恐る恐る振り返って来る女の子に向かって、左手でアルレディのアルバムを差し出す。しかし俺の顔を見るなり完全に固まった彼女は、一向に手を伸ばしてこない。


「……聴かずになくすのはもったないっす。名盤なんで」


 受け取りを促すついでに付け足したそんな一言も、我ながら大いに余分で野暮ったいものに感じた。

 そもそも傍ら見れば、ただ前に座っている学生の鞄から物が落ちただけだ。それがたまたま注目していた女子で、零れたのがたまたま自分の熱中しているマイナーバンドのもの。それらは全部、俺にしかわからないファクターだ。

 目の前の彼女も含め、外野からは伺い知れない特異点……自分で思っててサブイボものだが『運命を感じさせる』ような演出たちも、口に出さず看過してしまえばそれは非日常の舞台であることを維持できず、ありふれた日常のひとコマに戻っていく。

 低空飛行で続く講義の妨げにすらならないだろう。


「あっ!……ありがとう――」


 ――と思ってたんだけどなあ。

 こちらの顔とアルバムをしばらく見比べてから、丸みを帯びた瞳を大きく開いてお礼を言ってくる彼女。そのお世辞にも小さいとは言えない声に、たちまち教授を含む講堂全ての視線がこちらに集中してしまった。


「……ございます」


 教壇から響くわざとらしい咳払いでやっと耳目を集めてしまった事に気付いた彼女の言葉尻が、しゅんと萎んでいく。こちらといえば身を縮こまらせながら、左手だけをずいと前に出し、もう一度受け取りを促す他なかった。

 やっとのことでおずおず伸ばしてケースの端を摘まんだ手をさっと引っ込め、彼女はすぐさま慌てた様子で顔を前に戻す。その後に残るのはいい事をした充足感ではなく、いたたまれない妙な雰囲気。

 だけ。


 ……やっぱりシャシャるもんじゃないなあ。

 放って置けば誰かが拾うなり、本人が気づくなりしただろうに。

 だだっ広い講堂の中、まるでここだけ空気が粘り気を増したような息苦しさを覚えて辟易する。主役気質の似合わない俺には、装飾を取り去った演壇の端すら不釣り合いだったようだ。

 集めないくてもいい注目と買わなくてもいい不興に、トータルでは損をした気さえしてくる。数少ないアルレディファンを発見した喜びと、振り向いたその顔が思いの外美人さんだったこと程度では、とてもじゃないが天秤は傾きを直さない。

 奥歯の脇で舌打ちを噛み締める。

 一瞬の中断なんぞ初めから存在しなかったとでも言いたげに、教授の平坦な声が相変わらず流れ続けている。だというのに、円滑なコミュニケーションに失敗した気恥ずかしさと居づらさは、いつまでも胸に居座っていた。

 今すぐ出ていきたいのは山々だが、そうもいかない。少なくともあと15分、一段苦行レベルの上がった心持ちのまま耐えなければ、今までの苦心は水の泡になる。出席カードというシステムが恨めしい。

 そもそも単なる自意識過剰なんだ。周りを見てみろ。他の生徒だってとっくにこっちなんぞ見ちゃいない。忘れたのか?その為に『演出』を取り払ったんだろ。そう言い聞かせながら視線だけを巡らせる。

 講堂の中を左から右へ、奥から手前へ。

 一様に前や下を向いている後頭部を見回していくたび、ざわついた心が落ち着きを取り戻していく。これならばどうにか耐えられそうだ。

 と、思っていたのだが。

 その中でひとつだけ、妙に落ち着かない様子で小刻みに動く頭があった。しかもまたもやすぐ目の前に。


 ……彼女だ。

 見れば手元に戻ったアルバムを鞄に入れ直しもせず、机の端に置いている。彼女の肩越し、ここから絶妙に見える配置のせいもあって、しばらく何の気なしにそのジャケットを眺めていたのだが、不意に彼女が首だけを回し、右目の端だけで視線を合わせて来た。

 ぎくりとしてこちらが視線を外す前に、まるで予期していたかのような速さでその首は前に向き直る。そして白々しさすら感じる背中で再び授業に聞き入っているそぶりを見せた。

 それが一度や二度なら気のせいと流すことも出来た。だがものの3分も経たないうちに、彼女は再び落ち着かない様子で頭を動かし、恐らく本人的にはさり気ないと思い込んでいる動きで首を後ろに回してくる。

 以下その繰り返しを5回ほど……あれ、わざとジャケットが俺の視界に入るようなポジショニングにしていないか?そんな考えもあながち穿ったものではないように思えてきた。


 ――ジャケットだけ見て『名盤』なんて断言すれば、そりゃファンってわかるよな。

 やはり付け足した一言は余計だったらしい。

 ならばとこちらが見ないようにしたところで、彼女の首は相変わらず定期的に動く。まさか向こうから演出を足してくる事態は想定いなかった。

 視線を合わせなければ、彼女の首はやがてゆっくりと前に戻る。だがしばらくすれば再び始まる挙動不審ムーブ。それでも勤めて無視を決め込んでいたのだが、終わる気配のない繰り返しに、段々と気の毒さが勝って来た。

 もしかしたら向こうも、周囲に話の出来るアルレディファンがいない境遇なのかもしれない。

 その寂しさは理解できる。俺だって高校から彼らを知って以来、この学校に入って一志と出会うまで、フェスやライブの会場以外で自分と同じレベルでのめり込んでいるファンなんぞお目にかかった試しがないのだから。

 しばらく考え込む間にも、彼女の目端が俺をチクチクと刺してくる。まあ、どの道まともに聴く価値もない念仏を延々耳に流し込むよりは、幾分時間が過ぎるのも早くなるか。

 意を決して頬杖を解き、机に突っ伏すように顔を前に出す。


「……ヴォーカル変わったけど、アリ派?ナシ派?」


 そうして口から出たのはギリギリまで声の色を落とした、限りなく囁きに近いものだった。しかし彼女は待ちかねていたように一瞬のラグもなく振り向き、その顔をほころばせる。


「アリです!」


 満面の笑みでそう答えた彼女が口元に手を当てると同時に、さっきよりも大きな教授の咳払いが響いた。

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