第?相

『リマインド』

 遅々として進まない時計の針に湧き上がる、幾度目かの欠伸をかみ殺して、頬杖の左右を入れ替えた。

 半地下の講堂には6月の長雨がよく響く。絶え間なく続くホワイトノイズのようなその音をバックに、これまた延々とまったく聞き入る意欲の沸いてこない講義が続いている。テストに出そうな英文と和訳だけを板書からノートに写し終えてペンを置けば、手持ち無沙汰は嫌にも増した。

 少し顎を上げ、目線だけを辺りに巡らせれば、この辟易が俺だけのものではない事は一目で分かる。延々とペンを回している奴、舟を漕いでる奴、あるいはただただ虚ろに前だけを見ている奴……高校までの教室の景色とは異なり、色から袖や裾の長さから襟のあるなしまでバラバラな連中が、皆一様に暇さ加減に耐えている。

 丸めた背中で教壇に立ち、ラクダの鳴き声みたいに抑揚のない声でテキストを読み上げているあのジジイの授業に聴く価値がないという事はもはや総意と――

 いや。

 見回す中にひとりだけ、それもすぐ前で熱心にペンを走らせている背中があった。そこまで時間の掛かる情報量ではないだろうに、あの様子ではどうでもいい端書まで書き写しているのかもしれない。しばらく眺めていると、薄いグレーのカーディガンを羽織ったその女の子は律儀に色分けでもしているのか、時折ペンを持ち換えるたび、肩に掛かる緩いウェーブが揺れていた。

 ……良かったな先生。1人でも熱心に聞いてくれる奴がいてさ。

 目線を離して皮肉めいた賞賛を心の中で送り、視線を机の木目に戻す。その観察で5分程の時間が潰れてくれたことを、ペンケースの隣に置いていた腕時計が教えてくれた。

 しかし同時に、講義がまだ半分も終わっちゃいない事も告げて来た。まだ残りの45分、退屈の檻で大人しくチャイムを待てる自信は正直言ってない。

 しかし、大学というものがここまで無為なものだとは考えていなかったな。

 さしたる目的もなく進学という選択肢を選んだこの身でも、大学というものへの一種の希望はあった。高校までの画一的なそれとは違い、思わず身を乗り出して聞き入り、次回が待ち遠しくなる講義。社会を俯瞰して見つめた学生が中心となり活発に執り行われるゼミの議論。そして成人という行動の制限がなくなって身で思い切り味わうサークルの青春……。

 しかし入学してすぐ、それまで漠然と抱いていた大学というものへの能動的なイメージと、実際に送るキャンパスライフにはかなりのズレがある事に気付かされた。そしてさしたる変化もない丸一年が過ぎて、それはズレではなく単なる期待外れであるという確信に変わっていた。

 授業はどれもこんな有様。サークルは結局飲むかヤるかのパリピだらけで、数少なく真面目に打ち込んでいる所は運動文化問わず敷居が高く近寄りがたい。聴いた話だがゼミは途中でやめられない分、初期に対人関係でやらかすと地獄らしい。

 これじゃあ、どこに希望を抱けばいいのやら。

 人によっちゃこの大学の門を潜れた事自体を自慢の種にして、講義を受けられる事を誇りとしているらしい。しかし部活に青春を捧げた訳でもなく、かといってのめり込むほどの趣味も持たないまま、ただなんとなく空いた時間を勉強に費やしていたら、それこそなんとなく受かってしまった自分に、そんな矜持が芽生えるはずもない。こちとら単に一人暮らしの許可と仕送りを受けられる条件として、両親が受験情報誌片手に半ば冗談半分に出して来たハードルを越えてやっただけの事だ。

 合格通知を突き付けた時、親父が浮かべた呆けた面だけは痛快だった。それは間違いない。

 だがいざ入ってみれば、単に高校以上の退屈な日々が待っていただけだった。専攻した経営学なんぞこれがどう飯の種になるのかわからないし、今受けている英語の授業なんぞ尚更だった。実践的な会話のひとつも教えない、下手すりゃ受験英語より簡単なライティングが、今後どこで役に立つというんだろう。

 受験勉強には合格という明確な目的がモチベーションになってはいたが、この講義のような、いわゆる先にどう活かされるかというイメージが浮かばない座学というのはただの拷問でしかない。

 ……いっそ抜け出して、一志とラーメンでも食いに行くか。

 ふとしたきっかけで出来たばかりの友人の顔を思い浮かべて、机上を片付けに掛かろうとしたが、すぐその手が止まる。

 そういやこのジジイ、後半にもう一回出席表配るんだよな……。

 全く以って聴衆の興味を惹く工夫の伺えない講義とは裏腹に、不真面目な生徒をあぶり出す事に掛けては知恵が回るらしい。そのおかげで退屈には今しばらく耐えなきゃならない。ひとまず一志にメールだけを送って、嘆息を吐きながら端末を鞄に戻そうとした。

 その時だった。


 ――かしゃん。


 突然響いた小さな音を耳が拾う。中身の詰まっていない、軽いプラスチックのケースを腰高から落としたようなその音に、俺は再び辺りを見回した。しかし誰も気が付いていないのか、もしくは気にも留めていないのか、明確に反応している奴は俺以外には誰もいない。

 ……という事は、落とした本人も気づいていないのか?

 そういえば、思い起こせば音自体は小さかったものの、近くで聞こえたような。

 そこまで思い至れば、目線はさり気なく、しかし忙しなく周りを伺い始めていた。丁度いい暇つぶしだ。このまま脳味噌にカビの生えそうな講義を聞いているふりをしているよりはマシだろう。

 この講堂には棚やロッカーと言った荷物を預ける類のものはない。そして決して派手な音じゃなかったとくれば、落ちた何かが壊れない程度の高さで床へとぶつかった、つまりは椅子か足の間にでも挟んでいる鞄から零れたのだろう。

 居眠りを疑われない程度に顎を下げ、視線を床へと走らせる。すり鉢状の講堂と同心円を描いて緩やかに湾曲する長机同士を隔てる階段、そして無数のスニーカーやらヒールやらが並ぶ足下……。

 ――ん?

 燈台なんとやらとでもいうのか、落ちていたのは近くも近く。俺の爪先から10センチもない所にあった。そして落し物が何であるかもすぐにわかった。目当てのものは思いのほか早く見つかってしまったにもかかわらず、暇はまだまだ潰れそうだった。

 落とし主、いい趣味してる。

 さっき教授に投げたものとは全く性質の異なる称賛を胸に、屈んで机の下へと手を伸ばす。

 拾い上げたそのCDケースは、未だシュリンクすら剥がされていない新品だった。これなら床に落ちた際の傷もつかずに済んだだろう。

 遠目からでも見当はついていたが、こうして手に取ると改めて確信に変わる。

 真っ白く強い陽で照らされた森を、地面からの煽りで映した生命を感じさせるジャケット。間違いない、昨日リリースされた、アルレディ初のアルバムだ。

 『インディーズアルバムはこれが最初で最後の1枚』と目されているほどに楽曲のクオリティは高いものの、一般的にはまだ決して知名度が高いとは言えないのがこのAlkaline Ladyアルカライン・レディというバンドだ。それをいち早くチェックしている奴がこの教室にいるということを、それもこんな形で知らされるとは。

 同好の志が増えれば、この大学生活も多少もマシなるかもしれない。一志と知り合った時を思い出し、僅かな期待を胸に再び視線を左右に動かす。すると右斜め前の席の下で、すらりと伸びた足先のパンプスに挟まながらだらしなく口を開けている鞄が見えた。

 角度から考えても、ここから零れ落ちたもので間違いないだろう。

 待てよ。確かこの席って……。

 数分前の記憶を手繰りながら曲げた腰を戻す。

 ――ここが講義中の講堂でなければ、思わず声を上げていたかもしれない。

 ゆっくりと上げた目線には、相変わらず熱心にノートを取る薄いグレーのカーディガンが映り込んだ。

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