86『ヒラクトビラ』

「はいはい今度は何ですー?」

 

 胸に渦巻くその予感から目を背ける様に、勤めて平静を装って振り返ると、美影さんは目を泳がせながら自分の端末を見せてきた。

 その画面にはまだ銀行のホームページが映し出されている。どうやら貸金庫の詳細を調べていたようだ。


「や、手続きのやり方なら現地で訊けば――」

「違う。ここ見て」


 俺の声を遮って彼女が見せてきたのは、ポップな字体ででかでかと躍る『万全のセキュリティ』という見出しだった。

 これが何か、と問う前に美影さんの細い人差し指がすぐ下を差す。そこにはサービスの売りとして『本人確認、複製不可の鍵、そして8桁の暗証番号』という三重の手厚い保護が謳われていた。

 ……ちょっと待て、暗証番号?


「じゃあこれだけじゃ駄目って事じゃん」


 さっきから気分の上がり下がりが忙しすぎて段々疲れてきた。げんなりする俺と同様、彼女もその表情に重苦しいものを浮かべる。


「用心深いにも程があるわよ……美恵」


 続く重たい溜息に、深く同意ここまで来て手詰まりは心に来るものがある。

 ……いや、待て。

 鍵にしろ本人確認にしろ、そのヒントは記されていた。何より俺達に託したと言っている以上、無手勝流で1億回数字を試せって事はないだろう。

 ならば。


「美影さん、ハサミとってくれます?机のペン立てに刺さってるんで」

「な、なにするの?」


 どこかに暗証番号の手掛かりもあるはずだと、わずかな望みを託して封筒を切り開いてみる。

 しかしそんな展望も虚しく、中には何も書かれていいない。となれば、美影さんに渡された手紙の文面に暗号でも隠されているのか?


「あの手紙、今日持ってきてます?」


 隠し切れなくなってきた焦りのせいで口早に訊ねる俺に、彼女は力なく首を振る。


「ごめん……さすがに家に置いてきてる……」

「マジかー……」


 万事休す。俺は項垂うなだれてハサミを戻す。

 その時だった。机の端に置かれていた開扉票がひらりと反対側へ舞い、床に落ちて裏返る。


(いけね)

 身を乗り出して拾い上げようとする俺の目に、裏地の端に残る流麗な筆跡が見えた。

 まさに灯台元暗しというべきか、開扉票の裏に、短い一文が書かれている事に気付く。


「こいつか?!」

「えっ?!」


 両手でその折り目が消える程強く掴んで覗き込む俺と、頬が触れそうほど近くに美影さんの顔が並び――

 そして同じタイミングで眉間に皺が寄った。


「My favorite number. Look at the ring……?」


 いや、そのナンバーが分かんねーんですけど?

 筆記体で書かれたその一文を読み上げる彼女の隣で、思わず美恵先輩へそんな呪詛を向けながら顔を歪めた。しかしそんな俺に対して、彼女には思い当たる節があったようだ。


「リング……無くしちゃってる」


 愕然として呟く彼女に目を向けると、俺の視線から逃げるようにその顔を伏せた。


「手紙に、美恵のアクセサリーが一緒に入ってたの。形見だと思ってずっと付けてたんだけど……」


 ……あれか!

 自らの過失を悔やむようにぽつぽつと呟く彼女と反対に、俺は自身の何気ない思い付きに感謝しながら、ハンガーに掛けたジャケットを探った。


「これっしょ!」


 駆け引きの必要もなくなった今では、俺にとって無用の長物でしかない。

 探り当てたアクセサリーを掌に乗せて得意満面に差し出すと、沈みきっていた彼女の顔はまるで奇術を目の当たりにしたように驚きを満面にした。


「どこで……」

「下水潜った時ですよ。大事なもんかと思って拾っといたんです。あー良かったー」


 はい、と促し手を出させ、美影さんの掌へと戻す。あるべき場所に戻った指輪を、彼女はゆっくりと、それはそれは大事そうに胸元で握りしめた。


「良かった」

「……」


 鬼の眼にもなんとやらですな。

 普段の俺なら頭に浮かんだそんな文句を、何の遠慮もなく口にしていたかもしれない。

 だが――。

 目じりに浮かぶ涙も吹かないまま噛みしめる様に呟き、穏やかな笑みを浮かべるその様子に、正直、少しだけ、見惚れていた。


「あー……喜んでるところ悪いけど、数字数字」


 目線を明後日の方へ外して声だけ向けると、彼女は我に返ったようにリングを摘まんで眺め始めた。


「書いてある……4、4、8、2」


(来た来た来た来た!)

 言うなればプラモの胴体に、完成した四肢をくっつけていくような達成感。

 難解な謎が紐解れていく瞬間の、心地よい疲労と交じりの喜びを覚えながら彼女の読み上げに耳を傾ける。

 ……が、いつまで経っても続きが聞こえてこない。


「え、あれ……そんだけ?」

「うん」


 何故そんな事を訊いてくるのか見当がつかないといった様子で、彼女はこちらに無垢な表情を向けてきた。


「8桁必要なんですけど」

「あっ」


 美恵先輩を演じていない彼女はどうしてこうも抜けがちになるのか。

 呆れ混じりに零した俺の声に慌ててリングを顔まで上げ直し、指の中で回して観察を再開した美影さんだったが、やがて成果なしと言わんばかりに目の前から下げた。


「ホントになんもなし?ちょっといいです?……いや取り上げたりしねえから」


 手を出して催促すると、彼女は一瞬だけ躊躇ったのち、おずおずと手に乗せてきた。下手したら数字を探していた時よりも真剣な面持ちを浮かべている。


「そんな心配せんでもすぐ返す――」


 そんな彼女に念を押そうと口にした声が、数字の前に記された『T/M』の文字を見た途端、止まる。


「ちょっと……また発作?!」


 ふらつく俺の背に手を添えながら叫ぶ美影さんを右手で制止ながら、逆の掌を額に添える。

 発作は悪寒を伴う赤だったけど。

 今度は、締めつけられるような心地と共に、まっしろ。


「大丈夫、大丈夫です……」


 天井のシーリングライトが放つ光が強さを増していくように、視界が白く染まっていく。やせ我慢に絞り出した文句と裏腹に膝が折れ、伏せた顔で目を閉じるが、それでも膨張は止まらない。

 やがて純白に埋め尽くされた瞼の裏。ダムが決壊するような記憶の濁流に、意識が押し流されていった。

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