第9相
77『時計の針先に戻って』
「仮死状態から目覚めた私に、記憶の欠損は見られなかった」
「自分で、薬を……」
「ええ」
戸惑う俺の声に事も無く肯定を返し、美影さんは等に湯気の消えたカップを傾け喉を潤す。まさしく動物実験の結果を語るかのような淡々とした口調。そこに自らの身を案じた跡は微塵も見られない。
語り終えた彼女と、目の泳ぐ自分。間に流れる沈黙の中、不意に美影さんは吐いた息は、それまで遥か遠い道のりを歩み終えたかのように深く、長いものだった。
「……負傷の回復と記憶の欠落、その間にある相関関係を見出せたのは収穫だった。貴方に起きた記憶障害が怪我ではなく、薬によるものと即断できたのだから」
「だって、未完成の、未知の薬ですよ?現にこれだけ副作用がある……」
「そうね」
そんなの俺からすれば常軌を逸した行為にしか映らない。そこに秘められていたのは美恵先輩への信頼なのか、覚悟の表れだったのか。
だが相変わらず間を置かず、ただ無機質に頷いた彼女から返ってきた答えは、そのどちらでもなかった。
「許せなかった。何もできずに、何も負わずにいる自分自身が。美恵は文字通り命を掛けたのに……最も、美恵にとっては、あの事故は単なるきっかけに過ぎなかったのかもしれないけど」
カップ一気に傾け、底に残ったココアの溜まりを飲み干してこぼす美影さんに、俺は掛けるべき言葉を失っていた。
「薬が被験者を選ぶ段になって、そこへ自分のせいであなたが死に瀕する事態が起きた。必死に自制はしていたけど、もともと社長と同じで目的の為ならば手段を選ばないところがあったから。自分の身を晒すことも例外じゃなかったということよ」
「どういう、事ですか」
ようやっと動いた口で、たどたどしく訊ねる。
ここまで話を聞く限り、その死はただ俺の身に起こった悲劇への絶望ゆえにしか思えない。
「……服まで取られなくてよかった」
呟く彼女が腰を少し浮かせ、装い上着の内ポケットから1枚の小さな封筒を取り出した。
「……すいません」
「なにが」
「今の今まで担がれたと思ってました」
恐らく今彼女が指に挟んでいる封筒は昨日家を出る前――つまるところ、攫われる前だ――に忍ばせていたものだろう。
それは彼女が、こんな不測の事態が起こらずとも、初めから俺に打ち明ける気があったという証明だった。
「借りを返さないほど不義理じゃないわよ」
口を尖らせながら差し出してきた封筒を受け取り、乾いた糊が張り付く上蓋に手を掛ける。
「読んでも?」
彼女の首が縦に動くのを見て、改めて封筒の中へと指を差し込んだ。
美影へ
まずは、このような形で別れを告げる事になった事、本当にごめんなさい。
この行いは私の研究のせいで命を落とすことになった達也への、同じ苦痛を伴う引責であると同時に、研究への重要なステップとなります。
ですが、私はこれが美影との永遠の離別とは思っていません。
そのために貴女に託す物は3つ。これらで私の死により研究が止まったと思う父を出し抜く事ができるはずです。
1・私のプライベートラボ 東京都青梅市日向和田 ラックストレージ日向店
ここには私がいなくなったとしても、研究が滞らないだけの物が揃っています。詳しい事は伯父さんに訊いてみてください。
2・現在組み立てている最も可能性の高い仮説、その最後の鍵。正確にはその場所を記します。
達也の家を訪ねてみてください。住所は端末、もしくは私の部屋にある手帳に書かれています。
貴方が彼に対して良い感情を持たない事は知っています。でも私にとって美影以外ただひとり心を開いた相手であることに変わりはありません。
誰の息も掛かっていない、信頼できるもうひとつの場所。そこに預けたものを他の誰でもないあなたが手にすることで初めて鍵は意味を持つ。
絶対的な安全性を得る為の判断です。
3・私の体そのもの。
蘇生薬並びに防止薬の実験体として活用してください。現状の段階で蘇生薬は瀕死の命を繋ぎ止めるだけならばその機能を果たせる筈です。
最後に、もしこの手紙を読んだ段階で、達也が完全に命を失っていなかったら、その時は貴方の判断に任せます。
願わくば、近い未来に貴女たちと再び笑える日を願って。
三吾 美恵
「最後に本音が出てるのよ」
文面を追う俺の目の動きを見ていたのか、丁度読み終えるタイミングで彼女は薄く笑いを浮かべた。悲痛さすら漂うその横顔に、俺はまたしても言葉を失う。
しかし最後の一文はともかく……この字面、どちらかといえば遺書というより単なる業務の引継ぎ報告に見える。
俺に対するけじめという言葉に嘘はないのだろう。だがそれ以上に彼女は自身の研究に、再び自分が目を覚ますことに疑いを持っていない。
自分は死によって俺達に置いていかれるのではない。書いた時よりも、読まれた時よりも、そして、今よりも遥かその先で待っている――。
見方によってはそんな宣言にも読み取ることが出来そうのほど、確信に満ちた筆致に思えた。
「読めば解るって言ったでしょう。ラボの存在といい、この下準備の周到さといい、どこかの段階で自分の体を捧げる事を常に考えていた」
自分の死をスケジュールに織り込む。
理解の出来ない感覚だが、手紙を握る俺はどうしても首を横には触れなかった。
心に一拍を置く為、彼女から視線を外して窓を見やる。中天に差し掛かり始めた陽が遮光カーテンの隙間から差し込み、いつの間にか部屋が随分と明るさを取り戻していた。
「……もう一度、私をひとりにすることになっても」
そのせいだろう。ぽつりと零した美影さんの口元が、僅かに震えているのが横目でもわかった。
彼女にとっては遠い過去の話でも何でもなく、今に続く始まりの話。改めて語り返すには相応の痛みが伴っていたのだろう。
淡々としたその語り口の下では、必死に込み上げるものを抑えていたんだ。
「それは違うんじゃないですかね」
そこに思い至った途端、ひとりでに俺の口は動いていた。
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