『嚆矢濫觴』

「何を、しているのかな」


 あくまで平静を装う声と共に、燃え盛る炎とその脇に並び立つ私達を交互に見る社長。だが夜空を煌々と照らす火柱を視界に収めるその瞳は、確かに動揺によって揺らいでいた。


「夕食を食いそびれて芋でも焼こうかと思ってな。何、心配することはない。辺りに燃え移るようなものはないさ」


 その煽りとも言える返しに表情こそ変えなかったものの、炎を見つめていた両の目が鋭く細まり、院長の隣に立つ私を一瞥する。貼り付けた薄笑いは崩さないままだったが、向けられた相貌に込められた明確な怒りが私を射抜いた。

 瞳とそれ以外のパーツで対極を示す社長の感情。作り出すその不均整さが言葉に表せない恐怖を生み出し、晒された体が独りでに震え出す。


「あぁそう。ところでうちの倉庫からアンブロシアものが無くなってるんだけど。それ、保管ケースだよね」


 温度を感じさせない声と共に、社長は火の脇に無造作に積まれて山を成しているもの……ではなく、最後のアンブロシアをくべ終えた私が持つ、空のケースを指さした。

 向けられるその人差し指から不可視の刃が伸び、心臓を貫く――。

 立場も力も、自分とは比べ物にならないほどの存在によって向けられる敵意を、脳内が勝手にそんな光景へと変換する。


「はっ、はっ……」


 知らず息が上がり、汗が頬を走る。

 恐ろしい。

 額を地面に擦り付けて許しを請えば、今からでもこの圧から解放されるだろうか。折れそうな私の心を感じ取ったのか、矢面を引き受けるように院長が前に立ち、視界から社長の姿を遮断してくれた。


「そうだが?適度に水気の抜けた植物があったものでな。少々失敬した」

「全部は少々とは言わないんだけど」


 こともあろうに更なる煽り文句を返す院長。同時にぱちりと炎が爆ぜ、それを合図に社長の顔から笑みが剥がれ落ちた。


「……どういうつもり?美恵のノートを見つけてくれたかと思えばこんなことしてさ。あのまま目覚めなくてもいいの?」


 もはや飾る笑顔すら捨てた、初めて目の当たりにする本気の怒り。

 間に院長の大きな背中があって本当に良かった。一片の遮りなくあの眼光に晒されていたなら、私はどこまで矜持を捨てていただろう。


「狼煙さ。意志表明と言ってもいい。私達はこれ以上、無条件にお前に従う気はない」

「……成程。ま、いつかこうなるとは思ってたけどさ」


 そんな社長に全く臆す素振りも見せず、院長は決然と言い放つ。しかし後ろ手に隠した両の拳は骨の軋む音が聞こえる程に強く握り締め、なお小刻みに震えていた。


「でも、こんな手段に出ることないじゃない?これで研究は全部おじゃんだ。可能性すら潰えた。当然君と――後ろに立つにも責任を負ってもらうけど」


 もはや私を名前で呼ぶことすらしない。

 それは彼の中で、はっきりと私を切り捨てた瞬間だった。


「いいや?研究は続くさ。私達さえいればな」


 院長は懐に手を入れ、美恵のトランクルームから一株だけ持ち出したアンブロシアを取り出す。刹那に社長の目の色が変わった。


「これがどういうことかわかるな?美恵君が目覚めるまでは蘇生薬の研究にも協力はしてやる。だが手段は選ばせてもらうぞ」

「手段?」

「今のように、リカバーも碌に用意しないまま、見境なく人に与えたりはしない」


 院長の硬い意志を込めた強い語調に、社長の目尻がピクリと上がる。


「今更だね、芳也。まぁ、君らしいと言えば君らしいけど……」

「笑わば笑え」


 短い啖呵にわざとらしい溜息を吐く社長。続いて静かに上げた人差し指を私が持つ空のケースに向ける。


「それで、こいつの独占を盾に、防止薬の研究をやらせろってかい……いささか筋違いに思えるけどね。蘇生薬はまだ2人にしか与えていないし、どの道ゆくゆくは臨床で健常者に――」


 そこまで言い掛け、何かを思い出したように私の方を一瞥する。


「ああ合点がいった。催眠の方、か。やっぱり、何か吹き込まれたね」

「……これは美恵の望みでもありますから。お母さんを死なせた薬と知って使い続ける。あなたへの抵抗」

「君にはホント、何でも喋るね。あの子は」


 小さく零した社長が、その顔をひどく歪ませたように見えた。

 それが彼を照らす炎の揺らぎによる錯覚でなければ、ほんのわずかな間だけ見えたそれは、紛れもない悲嘆だった。


「……まぁ、いいさ。美恵が目覚めるまで、っていうことは要するに完成まで手を貸してくれるってことだろ?そっからこっちのリソース食わずに防止薬を開発するのはまぁ、勝手にどーぞ」


 その表情の理由を考えている間に、彼はとっくに調子を戻していた。燃える炎をも凍てつかせるような殺気は嘘のように鳴りを潜め、普段の飄々とした雰囲気を纏い直している。


「さしあたり、美恵を助ける分の補充は早めに頼むよ」


 かと思えばそれだけ口にしてこちらの返答を待たず、社長は踵を返し光の届かない暗闇へとが消えていった。


「うまく行ったん……でしょうか」


 それからたっぷり30秒。

 体中の筋肉が弛緩していく感覚を覚えながら、地面に座り込みそうになる脚を必死に抑えて尋ねる。


「引き際があっさりとし過ぎている感はあるがな……もしかしたら啓示も薄々かんずいているのかもしれん。自分が止めていた場所こそが目覚める鍵であると」


 呟く院長が段々と弱くなってきた火を見つめ、腰をかがめて辺りに散らばるアンブロシアの灰をひとかけら摘まみ上げた。


「せっかく化石から蘇ったというのにな。悪い事をしてしまった」


 褪せた灰色にその身を染める花びらにはかつての瑞々しい姿は面影もなく、僅かな風に吹かれてあっけなくその姿がぼろりと崩れていく。


「……君にもな。巻き込んでしまって済まない。そして、それでも賛同してくれたことを、嬉しく思う」

「それこそ今更ですよ。それにお礼なんか不要です。ここにいるのはあなたの『せい』でも『ため』でもない。美恵の望みと重なっていただけですから」

「それでも、さ。信頼させてもらうよ」


 立ち上がった院長がくすぶる火種に水を掛ける。しゅっ、という短い音と共に湯気が一瞬だけ辺りに浮かび、すぐに夜空へと溶けていった。

 その向こうに死人が行く場所があるという。美恵をそんな場所に連れていかれてなるものか。

 それならば何だってなってやる。やってやる。


「それなら、ひとつお願いがあります」


 ならば、まず。

 歩き出す院長の背中に声を掛けながら、去り際に社長が口にしていた文句を思い出す。

 ゆくゆくは臨床で健常者に。

 それは美恵が意識を無くして以来、ずっと頭の片隅に置いていたひとつの考えと重なる言葉だった。

 

「なんだ」


 単なる素人の思い付きだ。

 でなければただの自己満足だ。

 その行為が意味を持つ保証がどこにある。

 幾重にも重なる冷静な制止が聞こえる。だが私は止まらず、静かな声に決意を込めて、形ばかりの問いを投げかける。


は多い方がいい、そう思いませんか」


 意味を察した院長の眼が見開かれていく。しかし有無を言わせるつもりはない。

 これから行う事は美恵を死の淵へ追いやった私に対する裁きであり、それでも彼女の意思に携わり続ける為のみそぎだからだ。

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