『詐謀偽計』
「煮詰まるあまり衝動的に破いた……というわけではなさそうだがな」
そんな私と対照的に、院長はあくまで冷静だった。促されてよく見ると、なるほど彼の言う通り破いた後が妙に直線的だ。
恐らく定規を上から当てて慎重に分断したのだろう。
「かといって、余白が気になったわけでもなし」
左のページの最後の行に記されている文章に目を向けると、終端に句読点が入る訳でもなく、いうなればひどく中途半端な位置で止まっている。続きが書かれている事は明白だった。
「……院長、恐らく――」
私への手紙に書かれていた内容に心当たりがあり、手短に説明する。
「石井達也君が快方に向かっているのは、どうやら私達にとっても幸運だったようだな」
意味深げに頷く院長の横で、表情と返す声を濁す。どうにも複雑な思いを抱かずにはいられなかった。
「――それより、こちらもノートを元に研究を継続できそうですか?」
胸に渦巻き始めた黒い感情を振り払うように話を前に進めると、彼はしばし唸った後に、お世辞にも晴れやかとは言えない表情を浮かべた。
「何とも言えん。こちらも手数勝負に持ち込むところまでは出来るだろうが……ページを破いた意味を考えると、上手く行くとは言い難いな」
「というと?」
「ストッパーだよ。恐らく彼女の閃きなしにはどこかで行き詰るようになっているんだろう」
自らの言説と覚えた予感を裏付けるかのように溜息をつく院長。
彼は自分を過小評価も買いかぶりもしない。どうやら私達が目的を達するためには、あの男の目覚めが不可欠のようだ。
――こちらの心持ちはどうあれ。
「……美恵君も期してはいなかっただろうが、このふたつの研究、それぞれ対を成しているのかもしれん」
そんな胸のうちが知らずして顔に出ていたのだろうか、院長が多少唐突とも言えるタイミングで話題を切り替えた。
「どういうことですか?」
「単純な話さ。目覚めない原因がアンブロシアに含まれるいずれかの成分によるものだ。と、するならば……全ての働きを止める事を目的としたこちらの薬は、今の美恵君にも効果があると考えられないか?」
「でも、もしそれで死人に戻ってしまったら」
ふたりが未だ体温を失わないのは、他でもないアンブロシアのおかげだ。その働きを無にするという事はつまり、そういうことではないのか。
不安を表す私の顔を見ても、彼は慌てる素振りを見せない。
「その可能性は低い。前に言っただろう。蘇生薬はあくまで細胞の非現実的といえる再生を促すものだ。アンブロシアそのものが損傷した臓器の代わりを果たすわけではない」
その答えで全く不安が消えたわけではないが、今はそれを信じるより他はない。車のドアノブに手を掛ける院長に小さく頷きながら、彼に続いて車内に乗り込む。
「確かな収穫だな。この2冊があればあの子の願いは叶うし、目覚めるための手段を講じる事も出来る」
手の内にその生家を握り締め、深く頷く院長。それを合図に車が土煙を上げて動き出し、再び景色が後方へと流れ始めた。
「社長の目に触れないところに隠す必要がありますね」
ウインドウの上から噴き出る温風が段々と体を温めていく。
トランクルームがはるか後方へ消え、幹線道路に戻った辺りで私が口を開くと、院長は一度ノートを閉じた。
「いや、蘇生薬を作る方法は啓示に見せようと思う」
「え」
驚く私を宥めながら、院長は青いノートを手に取って続ける。催眠状態を解く研究が記された方だ。
「私の持つ伝手は
続きを待たずに頷く。
あの催眠効果を現時点で最大限活用している社長に感づかれれば、現段階ではまだ可能性でしかなくても握り潰そうとしてくる恐れがある。
彼にとって防止薬は商品ではなく、まして非常に便利なツールを無力化される障害でしかないのだから。そんな彼に協力を頼むなど、言語道断も甚だしい。
「なら、私はそのまま家に送ってもらったことにして――」
「それは悪手だな」
私の言葉を遮って院長が首を振る。
「奴の事だ。私の迷いも、美影君が何かを手にしていることも見抜いているだろうさ。そこにきてこうして2人で会社を出ているんだ。それなのに何もなかった、という事になればしれが却って疑わしく映る」
そこで、だ。
院長が言葉を切り、同時に今度は赤いノートを手に取った。
「君が美恵君に手渡されたものはこの蘇生薬のノートだけという事にしてしまう。防止薬の研究は疑義を感じた私が独自に行うことにするんだ。実現の可能性があくまで素人の手探り程度のものと勘違いさせてやるのさ」
「ノートを渡した途端、切り捨てられる可能性は?」
「あり得ない、とは言い切れないな。だが私達も蘇生薬……美恵君との繋がりを断つわけにはいかない。そこでもうひとつ、アンブロシアの栽培方法を担保にする」
「方法は明かさず、私達に供給源としての利用価値を見出してもらうという事ですね」
考える事は同じか。言葉の先を引き継いだ私に向かって院長は大きく頷く。
「でも、倉庫まで用意して保管していることを考えると、すんなり乗ってくれるかは不安です……よね?」
美恵の話でしか知らないアンブロシアの倉庫、それがどれほどの大きさを誇るものなのか。想像がつかない私は弱気になる。
蘇生薬のノートには美恵抜きにしても試行の精度を保つ、つまりは無駄遣いを防ぐことが出来る。
逆に言えば彼がその情報を読み解いた結果、倉庫の貯蔵量に不安を感じなければ、取引としては成立しない。
「ああ。だからこれから」
彼の手にはいつの間に持ち出したのか、ケースに収められた一株のアンブロシアが握られていた。
「―――――」
そこから続く話は、まるで午後の軽食を決めるかのような気軽い口調で、ぽんとこちらに放られた。
「はぁ……はぁ?」
言い終えた彼が口を閉じると同時に、私の口から間抜けな声が漏れる。
断じて聞き取れなかったわけではない。内容と調子があまりにもちぐはぐ過ぎた。きっと聞き違いか、あるいはレトリックの類だろう。
……そうであってほしい。
だがそんな願いも虚しく、院長は先程よりもはっきりと、しかし相変わらず重さを感じさせない口調でもう一度口にした。
「少し法を犯そうかと思う」
補強された言葉の質感が質量までを帯び、まるでハンマーで頭を殴られた心地に上半身がのけぞる。
「君にも手伝ってもらうぞ」
追撃によって更に視界がぐらりと揺れた。
大通りに入った車は更に加速し、流れる景色と私の意識を置き去りにしていく。
「何、大したことじゃないさ……今までに比べればな」
そんな院長の声も、とても遠くで響いた気がした。
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