『積悪余殃』

 足下が、覚束おぼつかない。

 帰途の最中、まるで目に映る街並みの光全てが乱反射しているようで、いつまでたっても視点を定められずにいた。ふらつく足取りでどうにかアパートの前まで戻ったものの、今度は鍵を取り出す指の震えが止まらず、いつまでもうまく差し込めずにいた。


 これで私は人倫を踏みにじる計画の一部に組み込まれた。


 一重にその実感故だ。

 経営を学ぶ為に会社へ通えと言われた時の比ではない。副作用も分からない薬を、死にゆくものの意思と関係なしに与える。いくつもの法や良識すらも飛び越えて下した決断は、確かな重みを持って私を潰しに掛かってくる。

 だが、これで美恵が光を取り戻す。その望みがつなげるのなら。私にとってただひとつの救いを思い起こすと指の震えは小さくなって、握った鍵がシリンダーに吸い込まれていった。


「ただいまー……?」


 ドアを開ける私の耳に飛び込んできたのは、間断なく風呂場から響く水の音。


「美恵?お風呂?」


 テーブルの脇に荷物を置きながら声を上げるが、本当にシャワーを浴びているなら碌に届かないだろう。ため息をつく私の目の端に、見慣れない封筒が映り込む。不審に思い拾い上ると、底に紙とは明らかに異なる厚みと重みを感じた。裏返してみても、宛名も差出人も書いてはいない。美恵が書いたものだろうか。

 封筒を机に戻す。それより、未だに鳴りやまない水がタイルを叩く音の方が気になり始めていた。いくらなんでも景気よく水を出し過ぎではないだろうか。

 洗面所のドアを開けると、曇りガラスの向こうに美恵のものらしき人影が写っていた。美恵は帰国してから一度も風呂に入っていない。渡航先であったハイチとやらもおよそ先進国とは言い難い所だ。久々の湯浴みとあって、時間をかけているのだろうか。

 ……が、あった後で?

 すぐさま思い直し、そして同時に気付く。

 映る人影はバスタブに寄りかかったまま、ピクリとも動いていない。


「入るよ!」


 思い至ると同時に、腕は風呂場のドアを勢いよく開いていた。


「ウソでしょ……」


 目の前に広がっていた光景を現実のものと信じたくない心が体を凍らせ、場にそぐわない呆けた声を湯気の中へと浮かべさせる。

 浴びる者のいない湯をノズルから出し続けるシャワーヘッド。

 その飛沫を反射する、薄紅色の水が溢れた浴槽。

 排水溝の脇に放られ、刃を血に染めた剃刀。

 そして、淵に手を掛けうなだれて、手首から血を流す――


「美恵ッ!」


 我に返るなり風呂場に飛び込む。勢いよく出続ける湯も止めないまま抱き起した彼女の体からは温度が消え失せており、血色を失い白くなった顔と紫がかった唇の色が、今まさに彼女の命が消えていこうとしている事を嫌でも伝えてきた。


「冗談でしょ?!やめてよ!」


 いくら呼びかけても答えない。

 バスタブから引き揚げた体を横たわらせ、脱衣所から持ってきたタオルで傷口を押さえつける。


 止まれ、止まれ!止まってよ!


 しかし、縋る願いもむなしくタオルはあっという間にその身を赤く染め、なおもしみ出し続ける血が私の手まで赤い筋を作っていく。


「あ、あ……」


 無駄な抵抗と悟った頭から冷静さが消え去り、思考がぐしゃぐしゃに塗りつぶされていく。手からすり抜けたタオルが床にぶつかり、深いな音と共にフロアタイルに歪な花を咲かせていた。

 両腕が軋むほど強く押さえつける頭が、やっとの思いで救急へ電話を掛けるという発想にたどり着く。だがそれを実行に移す前に、窓の外にはもうサイレンの音が近づいてきていた。赤い光に気づくと同時に握りしめていた端末が震え、肩がびくりと跳ね上がる。


「社長っ!美恵が、美恵が……!」

「分かっている。落ち着くんだ。救急車がもう来てるだろ。君は一度どこかに身を隠せ」

「でも」

「付き添ったところで何になる。いいか、君はなんだ!」


 この期に及んで計画の破綻を気にしている――。

 その態度に怒りを覚えたが、初めて耳にする怒気を孕んだ声に気圧され、喉まで出かかった返し文句が引っ込んでいく。


「美恵が搬送されていくまでクローゼットにでも隠れていろ。後の事は追って連絡する……クソッ」


 その怒りの裏で、彼も相応の焦燥を感じているらしい。舌打ちを最後に私の返答を待たずして通話が切られ、思考を挟む間もなく部屋のドアが乱暴にノックされる。


「鍵が掛かっています!」

「窓回れ!」


 救急隊員のものであろう声と、それに続く足音ががドア越しに聞こえ、普段の戸締りが事態を悪化させていることに気付くことが出来た。身を隠す前にドアのカギを開け、私が自室に滑り込むと同時に、玄関のドアが勢いよく開かれる音が響いた。


「三吾さん?聞こえますか?!三吾さん?!」



 暗いクローゼットの中で、震える膝を抱え込む。倒れる美恵を発見した隊員の切迫したやり取りが、否応なしに耳を劈いた。その声が段々と希望の色を無くしていき、そのたびに耐えがたい心細さと恐ろしさ、何よりも悔恨が胸を覆っていく。

 だがいくら歯がゆさを募らせたところで、自分がこの局面において何もできない役立たずという事実は変わらない。

 まるで天災が過ぎ去るのをただ待つしかない被災者のように、複数の足音とエンジンの音が遠ざかるまでじっと俯いていた。


 それしか、できなかった。

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