『悖徳没倫』

 およそ3年ぶりに座るソファ―の固さは変わっておらず、慣れない研究衣と相変わらず沈みすぎる腰に苦心しながら、窓辺へと視線を保持する。


「そっか……参ったねこりゃ。芳也はともかく美恵まで使い物にならないとあっちゃ、研究の進めようがない」


 見つめる先では左手で額を押さえながら、大きな溜息と共に自らの椅子の背もたれへ体を預け、その顔を天井へと向ける社長の姿があった。


「せっかく届いたのになぁ……件の植物あれがさ」

「院長は、どうしてます?」

「あいつは昨日から病院に詰めっぱなし。今朝電話来たけど、多分寝るどころか休憩もまともに取ってないよあいつ」


 答える社長の目元にも深い隈が刻まれている。彼も院長同様、あるいはそれ以上に休みなく稼働している事は明白だった。

 この部屋に通されながら聞いた話では、昨日の事故で彼の元にも報道陣が押し寄せてきたらしい。何故この会社にまで取材が来るのかという事は、私にはわからない。親戚筋が大手企業の看板を掲げているからだろうか。理由としては弱い気がする。


「多分今日もこっちには顔を出せないだろうな……にしても悪いね。急に来てもらっちゃって」

「いいえ……」


 本心とは裏腹の言葉を吐く口が、僅かに乾いた気がした。

 美恵はあれから食事はおろか、1人ではまともにトイレも行けないほど心を亡くしてしまっている。廃人同様、といって差し支えない。本当ならば1日傍についていてやりたかったが、朝の9時を過ぎたころ、社長から緊急の呼び出しを受けた。


『院長や美恵が急に研究所に姿を見せなくなれば、現場に余計な動揺が走る』


 まして美恵は本来あの便に乗っていたのだから、無事な姿を見せない事には収まりはしない。疲れの滲む声でそう懇願された私は、ついにここでも彼女の代わりを演じる事となった。

 ――全く以って望んでいない形だが。


「セクションは全部回った?」

「はい。今朝言われた場所にはすべて顔を出しました。会話も最小限に」

「はじめっから、突っ込んだ事は聞かれないと踏んでたけどね。とはいえボロを出さずに済んで一安心ってとこか」


 そう言うと彼は口の端から軽く息を漏らし、安堵の念を表した。

 実際その言葉通り、どこを回っても現地から調達した植物が届くまで作業を止めるようにと口ぶりを真似ながら指示を飛ばすだけで、返事以外の言葉が返ってくることはなかった。

 恐らく美恵が研究を一手に握り過ぎているせいで、他の誰もが質問しようにも先ず何を訊ねていいのかすら分からない理解度でいるのだろう。

 あるいは理解しようとしても不可能だったか。


「うん、顔出しはこんなもんでいいでしょ。ご苦労さん」


 社長の一言は即ち、今日私がここで美恵を演じるべき全てのタスクを終えたことを意味していた。


「それでは」


 つまりこれ以上、ここに留まる意味はない。何よりこうしている間にも美恵の事が気掛かりで仕方がなかった。腰を上げながら切り出す私の真意を素早く汲み取った社長が、天井を見つめていた顔を私の方へと戻す。


「――それとね」


 てっきりそのまま帰宅の許可が出るものと思い込み踵を返しかけていた私は、続きを示唆するその語尾に若干の苛立ちすら抱え、渋々足を止めた。


「まだ、何か?」

「あいつが心配なのはわかるけど、そうツンケンするなって。今から話すことも君を呼び出した理由のひとつなんだからさ」


 振り向いた私の目に映る彼の相貌が知らずのうちに鋭く細まり、静かにこちらを射抜いている。

 それはあの日ここで私を試した時と同じもの。気圧されながらソファに座り直す私に、彼は指を組み替えてから口を開く。


「ここからは、さ。個人的には電話も信用してないんでね」


 肝心なところの用心深さは親子に共通している。

 そう続けながら彼は席を立ち、私の体面へと座り直した。


「実はね。石井達也君」


 また、その名前だ。

 心臓が一瞬、ひときわ高く跳ねる。


 「彼、芳也の病院に搬送されてるんだ。外傷はひどいし、意識を取り戻してはいない……けど、インカプセル処置のおかげでまだ心臓は動いている」


 思わず声を上げかけた私を、社長が口元に人差し指を当てて制する。


「それが本当なら、早く美恵に教えてあげないと」


 急ぐ気持ちを押さえながらトーンを落とし直す。しかし彼は首を縦には振らなかった。


「回復の見込みがあるならとっくにそうしているさ。芳也の見立てでは持って今日の夜までだろうって」

「そんな……」

「まぁ、当然だよね。即死を免れて他の病院に運ばれた人たちも、芳也の病院でアイツの手当てを受けた他の人も全員駄目だったんだもん」


 押し黙る私の脳裏に、ニュースが映し出した燃え盛る飛行機の姿が蘇っていた。

 確かにあの惨状を目の当たりにして、生還を望む方がおかしい。むしろ丸1日の間よく持ちこたえているとすら思えてくる。

 死んではいないと言え、単に現時点で心拍があるというだけで、一命をとりとめたという表現すら似つかわしくない状態だ。そんな情報だけを美恵に教えるのは、刹那に消える淡い期待を抱かせ、再び突き落としてしまう事と同義だった。

 持ち上げられてから落ちた心地は、より深い絶望へと誘われる。脳裏にはいつの日かの、教室で呆然と佇む自分がフラッシュバックしていた。


「なら、どうしてそのことを私に……」

「芳也が手術の同意を彼の父に取ったらしいんだ。そしたらなんて言ったと思う?勝手に出ていった息子のことなど知らん。金は払うから好きにしろ。とさ」


 質問を無視して別の話題を持ち出し、あまつさえひどい話だよねえと軽い口調で彼は嘆く。だが私はそこに苛立ちを感じはしなかった。

 彼の性格上、この話のどこかに、私への回答が隠されている。


「回復の見込みがない患者、彼の死で廃人となった美恵、そして好きにしろと答えた親。?」


 この部屋に入った時、彼は何と言ったろう。

 そう自らに問い直すまでもなく生まれたひとつの考えが、急速に輪郭を成していく。社長の意向なのかこの部屋の暖房は控えめで、肌に触れる空気は生ぬるい。だというのに額と髪の境目から一筋、妙に冷えた汗が垂れ落ちた。


「いや、仮にではないな。今君は単なる元大学生でも、美恵の身代わりでもない。一連の計画に携わる中核のひとりとしてここにいる。つまるとこ、決定権の4分の1を担っていると思えばいい。公平な多数決といこう」


 ヒントを出し過ぎるその様が、彼が期待しているものは私が答えを自ら導き出す事『ではない』と雄弁に物語っている。

 彼が見たいものは恐らく、その誘導に対する反応そのものだ。この状況に置いて、私がそこに倫理を差し挟む余地を持つ常人なのか否か。それを見極めようとしている。


「おや、芳也からだ。血圧、脳波共に危険域に入ったって。今から支度しても間に合わないかもね」


 むしろそのほうが都合いいかな。あくまで他人事のように呟く彼を睨む。

 ……嘘に決まっている。タイミングが良すぎる上、院長がそんな重要な事を文面だけで済ませるものか。普段の――あるいは今までの私ならば、そう一蹴していただろう。

 しかしそのあからさまな虚言は確かに私の背中へ最後の一押しをもたらし、私を常人という名の崖から突き落とした。



 放って置けばいずれ死ぬ。

 人で試せば大幅に完成へと近づく。

 ここで断れば計画から外されてしまうかもしれない。

 生還を美恵が望んでいる。


 そして何より相手は、石井達也。

 私から美恵の独占を奪い去った、石井達也だ。



 いくつもの要素が降り注ぎ、私の常識を塗り潰していく。

 もしそのいずれかひとつでも欠けていたならば、あるいは倫理に囚われたまま、違った答えを出していたかもしれない。

 だが現実に、全ての目は出揃っていた。


「植物が届いたと、そう仰いましたよね」


 口にした途端覚えたのはまず、身を空に躍らせたような開放感。次いで命綱なしに飛んだ、もう戻れないという諦観が胸の内へと滲むように広がった。

 まるであの日、美恵によって感じ損ねた心地を取り返すように。

 表情に色を失っていく私を見る社長は、対照的にその顔をゆっくりと歪ませていく。それは怖気を振るう程の、満面の笑みへと変わった。

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