『破鏡不照』

 時を刻む針の音だけが支配する部屋の中で、壁の時計に目をやる。この部屋に通されてからもう幾度繰り返したか分からない視線の移動も、単に絶望的なまでに引き延ばされた体感時間を確認する以上の結果をもたらす事はない。

 それが分かっていても止める事の出来ない自分とは対照的に、対面に座る社長は組んだ手指のひとつ動かさず、テーブルの一点をじっと見つめている。

 事前にフロアごと人払いを澄ませている院長室は、今も階下で起こっているであろう喧騒と、もう長い事切り離されていた。


 「処置は終わった。だが、目覚めるかどうかまでは、な」


 窓のないこの部屋でどれだけの沈黙を噛み締めただろうか。

 やがて疲労の色を一層濃くした院長が部屋に入ってくるなりソファにもたれ掛り、そのままずるずると腰を下ろしていった。


「ごくろうさま、昨日今日と寝てないんだろ」


 開いたドアによってここと階下の2点が繋がれ、社長が労いの言葉を発することによって破られた静寂を以って、時の流れも元に戻った。そんな錯覚を覚える私の横で、院長はやつれた表情をきっと引き締め、はす向かいの社長を睨み付ける。


「寝ているわけにいくか」

「……院長、美恵は」


 彼を包む倦怠感は見て取れるが、今はそんなことに構っている余裕はない。救いを求めるような口調に、院長はただ頭を振る。


「言ったとおりだ。発見と応急処置が遅すぎた。意識を取り戻す公算は低い。もし意識が戻っても、脳に障害が残るだろうな」

「「そんな」」


 私と社長の声が重なる。しかし言葉は同じでも、は異なっている。その確信があった。

 憤懣を抑えつつ、2人に気付かれない様にポケットに手を入れ、隠している封筒を握りしめる。


「あのメールも、恐らく時間が来たら自動的に送信されるようになっていたんだろうね」


 ……メール?

 虚ろな声で聞き返す私に、社長が一度頷く。


「遺書のつもりかな。僕と啓示にそれぞれ違う文面で届いた。君には来ていない?」


 私は答えずただ俯く。表情を見られれば察される恐れがあった。

 やるせなさそうに頭を振る院長とは違い、社長はいつまででも返答を待つ腹積もりだったのだろう。一度ちらり伺ったその表情はどこまでも静かにこちらへと向いていた。


「再生治療は?今の技術なら損傷したものを取り換えることだって――」


 絡めとらんとする網から逃れるため、というだけではない。以前社長から聞いた知識を思い出した私は、一縷の望みを掛けて院長に尋ねてみた。


「……だめだ。損傷した脳の機能自体は戻るだろうが、記憶そのものまで復元することは出来ない。目を覚ましてもそこにいるのはだろう」

「やっぱり、やるしかないか」


 院長の嘆きに一拍も置かずして挟まれた、諦めたような社長の横槍。

 一瞬、私はその言葉が指す所を理解できず、ただ眉根を寄せる事しか出来なかった。


「だが、まだ彼も目を覚ました訳ではないんだぞ」

「脳波は戻ってきているんだろ?それに彼みたいに全身ズタボロってわけじゃない。困るんだよ。美恵が美恵じゃなくなるのはさ。身代わりがいたって本人がいなけりゃ意味ないだろ」


 それは研究が停滞する事を厭っての文句なのか、それとも父が娘を失い事への恐れなのか。僅かに口早になった事を除き、この場においても口調と態度を崩さない彼の仕草からはどちらとも判別がつかない。


「だが、あれとて記憶の再生まで保証されているわけではないぞ」

「まるっきり新品と入れ替えるより可能性は高いさ」

「まさか」


 いや、その判断を下せなかったのは態度のせいだけではない。

 そのやりとりで社長の指す「やるしかない」という言葉の意図が分かってしまったからだ。

 平静でいられるはずがない。


「このままでは、座して死を待つだけではある、が……」

「美恵でも、蘇生薬を試すつもりですか?」


 迷いが残りながらも、その意思は明白に社長の判断に沿う方向へ向かっている。

 院長の風向きが変わった事を感じ取った途端、気付けば食って掛かっていた。


「なら君は、全くの別人を美恵と呼ぶことが出来るのか?」


 上ずった私の口調を、自らに向けられた非難と受け取ったのか。こちらを睨み返した院長は、苛立ちと噴気を混ぜながら早口に返してくる。


「ですが……」

「既にひとり実験台に立たせている。共犯に道理を問われる筋合いはない」


 あるいはその単語は、無意識のうちに口をついて出たものに過ぎなかっただろう。しかし『共犯』という言葉の選択に潜んでいるものは、それ投与が許されざる行為であるという認識の自覚と悔恨。

 歪む表情を見て、彼が奥歯を噛みしめる音が聞こえてくるようだった。物言いは決然としているものの、彼の心中では様々な葛藤や後悔が渦巻いている。

 彼は美恵の、いうなればもう一人の育ての親だ。安全が実証されていない代物を与えなければならないこの状況は忸怩じくじたるものがあるだろう。

 私とて同じだ。むろん美恵にこのまま息を引き取ってほしい訳がない。だがそれでも彼に抗弁を立てるのは、人の生死を操作する事に倫理観よりもっと根源的な抵抗が心に爪を立てているからこそだ。

 急を要し、私情にも駆られていた石井達也の時とは違う。失敗を許容できないのは当然として、回復にいかなる代償も認めることなどできない。

 私たちが、私が彼女を傷つけるなど、あってはならない。

 この場にいる3人とも、その根拠は違えど思惑は一致している。


「今連絡がきたよ。薬が届いたようだ」


 ……それなのになぜ、この男には迷いがないのだろう。

 対面に座り、いつの間にか取り出していた端末に目を落とす社長を睨む。

 懐で握りしめていた封筒が、くしゃりと音を立てていた。




 ※     ※     ※






「済まなかった」


 決めてしまえば、呆気ない程に早い処置だった。

 投与を終え、部屋に戻ってくきた院長は、開口一番そう呟き、私に頭を下げる。


「え……」


 突如向けられた謝罪に理解が追い付かず、虚ろな声を上げてしまう。

 時計は既に頂点を通り過ぎ、処置が終わると同時に社長は会社に戻っていた。ひとり残されて部屋で待つ内、緊張で忘れていた疲労感が体を覆い尽くしたせいで、思考は鈍りきっている。


「辛辣な物言いをした。自分の事を、棚に上げて」

「ああ……私は気にしていません。事実ですから」

「性急過ぎたのかもしれんな。私たちは」

「確かに社長の決断は早かった。ですが、他に美恵を救う手立てがあったかと言われれば――」


 石井達也が死に瀕したのは文字通り不慮の事故であり、それに伴って美恵が自殺を図ったのもまた不測の事態と言えた。

 仕方のない事。そう続けようとした私を、院長は振った首と視線で遮る。


「痛感したよ。人が人の死を乗り越えるというのは、やはり領分を超えている」


 それは誰に向けてのものなのかすらも分からない告解だった。

 ならば先程の「済まない」という文句も、単に私にだけ向けられたものではないだろう。

 

「罰が、下ったのだろうな」


 初めて聞く暗く沈んだ声と、伏した目がそれを物語っていた。


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