『扞格齟齬』

 あの続きを聞かなかったらならば、私は果たしてここに来ただろうか。

 読んでいた本が説明ばかりのつまらない段落に差し掛かり、つい長い事他の思考に意識を飛ばしてしまっていた。両隣に座っていた人たちはすっかり入れ替わっている事に気付き、慌てて窓口にあるモニタに目をやる。しかし私の持つ番号が呼ばれるまでは、まだしばらく掛かりそうだった。

 安堵し、もう一度視線を本に戻す前に窓の外を仰ぎ見る。最中に差し掛かった冬の陽は、もう傾き始めていた。

 震えを覚えた体を軽くさする。部屋を溜息に似た音で満たすヒーターと差し込む西日を浴びてもなお、良肩には寒気が居座っていた。

 日暮れまでには家に着き、暖かいものでも食べたい。そんなことを思いながら読書に戻ろうと動かす目が、動きの中で一瞬だけこちらを見る男の姿を捉えた。

 

「……?」


 私の周りには誰もいないし、周囲の壁は目を引くようなポスターのひとつも貼ってはいない。改めて、そして迅速に男の方へと目線を走らせると、男は慌てた様子で首を明後日の方に向ける――明らかに、こちらを伺っていた。

 反射的に体が強張る。だが、いくら記憶をたどってもその顔に覚えはない。まさかと思い写真で見せてもらった件の石井達也を思い浮かべてみても、およそ似つかなかった。


「168番、高柳一志様ー。お待たせいたしました」


 それから幾度か視線を感じたものの、こちらからうかつに反応する訳にもおかない。開いた本を口元に近づけて顔を隠し、読書に集中しているふりを続けているうちに、やがて聞こえてきた受付の間延びした飛び声を合図に彼は消えていった。

 そして、やはりその名に覚えはない。


「172番、三吾美恵様ー。お待たせいたしましたー」


 またひとつ、美恵を問い詰める案件が増えてしまった。肩の張りがもたらすものとは別の頭痛を感じながら腰を上げ、本をバッグに滑り込ませて受付へと向かった。






 ※      ※      ※






 昼食で汚れた食器を全て洗い終えると共に、脱水の終わりを告げる電子音が鳴る。同時にドラムの回る騒々しい音も止んだ。部屋着一枚で洗濯物をバスケットに詰め替えてベランダの窓を開けても、3月の終わりともなればもう身震いするほどの寒さはな。

 むしろ日の暖かさが心地よい。普段の半分しかない籠の中身を干し終えても、私は手摺に肘をついたまましばらく柔らかな陽光を浴びていた。ぼんやりと眺める道路の傍には芽吹き始めた草木がちらほらと顔を覗かせ、遠からぬ春の予感を告げてくる。冬から色を取り戻し始めた景色の中、遠くから1台、こちらに近づいてくるタクシーを目端が捉えた。

 人通りもまばらでな昼下がりの住宅街。まして車の往来は干している間一度も聞こえては来なかった。それを僅かなきっかけとした私は、空のバスケットを抱えて部屋へと戻る。

 窓を閉めても聞こえてくるほどに音は家のすぐ近くまでやってきて、そこで一度止まった。

 このアパートの住人だろうか。再び遠ざかるエンジンの音に混じって、車輪が地面を撫ぜ続ける音をベースに、革靴の立てる等間隔で硬質な足音が近づく。

 無関係と踏んでリビングに腰を下ろそうとする私の肩が跳ねた。足音の主はほかでもない内の前で止まり、インターフォンを鳴らすこともなく家のシリンダーを回す音が聞こえたからだ。


「……どうしたの?!帰ってくるのは明日じゃ……」


 慌てて玄関へと向かった私が見たのは、スーツケースを引き連れて不機嫌そうに眼を座らせる美恵の姿だった。


「心配しないで、やることはやってきたから」


 驚く私にただいまの一言も返さずぶっきらぼうに言い放つその声も、表情と同じように沈んでいる。美恵はそのままリビングを素通りして部屋へと消えていった。

 慌ててその後を追いかけるものの、閉じた彼女の部屋のドアに伸ばしかけた手が止まる。ああもへそを曲げた美恵は見たことがない。

 旅先で何かあったことは明白だ。しかし、部屋に押し入ってまで理由を尋ねるのはその地雷を踏み抜くことに思えて、どうしてもノブを回すことが出来なかった。

 結局キッチンに戻り、カモミールの茶葉をポットに入れながら彼女が出てくるのを待っていた。沸かした湯をポットに注ぎ、しぼんでいた茶葉が開き切るころ、やっと美恵がちからなくドアを開く音が聞こえてきた。


「ごめん、ただいま……」


 消え入りそうな声で謝る美恵の目元は僅かに赤い。泣いていたのだろう。


「少しは落ち着いた?」


 ラグに腰を下ろす美恵の前に湯気の立つカップを置き、私も向かいに座る。こちらが改めて理由を聞く前に、ひと口紅茶を啜った美恵がおずおずと口を開いた。


「ホテルで喧嘩しちゃって……そのまま飛び出して、丁度いい便があったから帰ってきちゃった」


 なるほど、痴話喧嘩の果ての顛末か。

 それにしても、そのまま男を置いて飛行機に乗ってしまう思い切りが、彼女らしいと言えばらしい。

 目線を美恵から外し、天井の隅を眺めながら私もひと口。

 しかし石井達也は一体何をしてここまで美恵を怒らせたのだろう。決断した後の行動は控えめに言っても常軌を逸する彼女だが、それまでの導火線は決して短いというわけではない。


「見るところはないし、飯はまずいし、つまらないって……」

「あー……」

「美影も達也の肩持つの?」


 返した相槌の調子でこちらの内面を見抜いて口を尖らせる美恵に、そういうわけじゃないけど、と取り繕う……が、正直なところ石井達也に同情の余地を感じずには居られなかった。

 研究という目的がある美恵はいざ知らず、折角の卒業旅行に例えばしゃれた欧州などではなく、見知らぬ未開の地に連れていかれた上にたっぷり1週間、下手をすれば食事かどうかも怪しいものを食べさせられる旅に付き合わされれば、それは不満のひとつも出るだろう。

 石井達也を私に置き換えてみても、最終日まで笑顔を保てるかどうかと言われれば、自信はない。


「……でもまぁ、それを美恵に言っちゃうのは、デリカシーがないかな」

「でしょ?!」


 紅茶を空にしたところで無難なところを口にすると、美恵は同意を得たりと声に勢いを乗せて身を乗り出して来た。


「あいつは前からそういう所があってさ……空気を読まないっていうか、遠慮がないっていうか」

「私に言ってもしょうがないでしょ、それは」

「う、ごめん……」

「まぁ、それは2人で解決してよ。それより首尾はどうだったの?」


 このまま聞きたくもない恋人同士の愚痴とも惚気とも取れないものが続きそうだったので、旅行本来の目的へと話の舵を切る。


「うん。見当はついたよ。日本にもある種類のナス科の植物だけど、生育条件が異なるのがキーかもって。もう現地から社長に連絡して、運び込む手筈を整えてもらってる。明後日に着くんじゃないかな」


 そこは流石というべきか、しっかり調査自体は一段落をつけてたようで、私は進歩があったことに安堵する。


「もう一方は?」


 声を潜めて尋ねるが、そちらの方は上々とはいかなかったようだ。美恵は渋い顔をしながら首を捻る。


「んー……もしかしたら、そっちは掛け合わせ云々って話じゃないのかも。あるいはもっと身近な何かを見落としているか……」

「それでも、完全に手ぶらってよりは全然いいじゃない」


 ふたたび幾分気落ちする美恵を励ましながら土産話を引き出しているうちに、その口から小さくあくびが漏れ出した。


「疲れてるね。ご飯まで一旦寝たら?時差ボケもあるだろうし」

「うーん……悪いけど、そうさせてもらおうかな」


 ゆっくりと席を立つ背中に、支度が出来たら呼ぶと声を掛けると、美恵は小さく礼を述べながら再び部屋へと戻っていった。その背中を見送りながらふと思い立つ。

そういえば、社長や院長は彼女が既に日本へ戻ってきている事を知っているのだろうか。

 念の為メールを打つと、各々呆れたり面白がったりと異なる反応の末、口ならぬ文を揃えて来春以降の予定を合わせたのか、と訊ねられた。

 なんでも4月の頭にはが会社に顔を出す段取りが整うらしい。


「……よし」


 やり取りを終えて端末を置いてから、一人頬を叩いて気合いを入れる。

 いよいよ入れ替わりが次の段階に差し掛かるという事だ。美恵が起きてきたらしっかりと話し合う必要があるだろう。

 ともあれまずはお疲れの美恵に力の出るものでも作ってやろう。夕食に必要なものを頭の中で書き出しながら、私はコートに手を伸ばした。

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