『権謀術数』

「み、美恵?」


 同じシャンプーを使っているはずなのに、その髪から漂ってくる香りはふわりと甘い。吸い込むたびにめまいにも似た心地を覚えながら真意を尋ねる。


「これは、誰にも聞かれたくない話だから」


 こちらを覗く見る彼女の目は、どこまでも真剣だった。

 その声は小さく、しかしこちらを見るまなざし同様に、強さを宿している。


「……院長や社長に、っていうこと?」


 返事の代わりに小さく首を縦に振る。


「私ね、小さいころお母さんを亡くしているんだ」

「……その事なら、ごめん。もう聞いているんだ。院長に」


 ――彼の評判を落とすかもしれない。

 院長の顔が過り一瞬迷ったが、結局正直に答えた。

 という事実を社長にも院長にも知られたくない。それは暗にこれから打ち明けられる事が計画と同じくらい、ともすればそれ以上に重要だという事だ。彼には悪いが、そんな美恵の前で空とぼける事はできなかった。


「そっか」


 沈んだ口調で告白する私を、意外な程あっさりと受け入れる美恵。その声色には驚きも非難もない。


「死因については、何か言っていた?」


 あくまで確認をするだけといった、熱のこもらない問いかけに首を振る。

 ……つまり美恵にとって母が既に鬼籍に入っている事も、打ち明けたいことの前段階に過ぎないらしい。


「お母さんね、自殺したの。マンションのベランダから飛び降りて」


 自殺。

 胸の奥底がずくんと痛み、頭の中に屋上で眺めた柵の向こうの空を思い出す。


「美影?」

「ううん、大丈夫。理由、聞いてもいい?」

「お父さんとは大学の研究室で出会ってそのまま結婚。お母さんの方がべた惚れだったみたい。あの性格がむしろ好きになった理由のひとつだって」


 ――本当、細かいところまで受け継ぐよね。

 美恵は自嘲気味に笑い、それが酷く空虚に満ちたものに映った。


「同じ畑の出身だから仕事の忙しさに対する理解も当然あった。それどころかアンブロシアの再生プロジェクトは率先して手伝っていたみたい。お父さんが言っていた偶然の発見。あれ、お母さんアンブロシアを落としたのがきっかけ」

「じゃあ、発見の第一人者じゃない」

「まぁ、本当に偶然落としただけらしいけど……時々すこんと抜ける事がある人だったから」


 僅かに笑いながら話す美恵は、どこか遠くに視線をやっている。植物を落とした話そのものではなく、それよりもはるか昔を遡って、自らと母の間にあった出来事を述懐しているようだった。


「飛び降りる前の日も、2人ともすごく楽しそうに研究のことを話してた。だから次の日の昼、いきなり伯父さんから電話が来たときは、何を言っているのかわからなった」


 あの時は。

 突然温度を失った声とと共に表情を戻す美恵。その相貌は笑う前よりも細く、その奥から僅かに覗く瞳には静かな、しかし確かな怒りが見て取れる。


「今は、分かるってこと?」

「……アンブロシアにはもうひとつ、それ単体で発揮する効果があるの」


 突然違う話題を切り出す美恵に、言葉に表すことのできない嫌な予感が湧き上がってくる。


「強烈な催眠効果。成分が体内に残留する限り、投与した後最初に聞いた声に無条件に従う」

「まさか――」

「そうじゃなきゃ説明が付かないよ」


 母親が死んだのはその効果のせいだというのか。そう問う前に美恵は断言した。その声はともすれば叫びそうになる自分を必死に抑えているように、歪な震えを伴っている。


「ちょっと待って……じゃあ、誰かが美恵のお母さんに死ねって言ったってことになるよね」


 話が核心に近づいている。そう感じ取る胸の内はどうしようもなくざわついてくる。


「……経口摂取、皮内注射どちらの場合でも、成分が体に残るのは約48時間。自殺までの2日間でお母さんとプライベートな会話をしているのは2人しかいない。ひとりは私。もうひとりは」


 お父さん。

 その5文字が出るまでには、僅かだが重い沈黙が挟まった。


「美恵は、社長が殺したって言いたいの?」


 こちらもその一言を口から絞り出すだけで、相当量の気力を振り絞る。だが返ってきた反応はすぐさま首を振るという意外なものだった。


「お父さんの軽口癖は美影も知っているでしょ。普段の2人の仲からして、本心からそう言ったとは私も思っていないよ。成分の残留時間も、お母さんが死んだ後の研究で分かった事だもの」


 語る口にはわだかまりも戸惑いもない。社長に母親を殺す意思はなかったという事を明白に肯定している。だが聞かされた私にはどこか飲み下せないものが残った。

 当時彼女と社長の間にどの様なやり取りがあったかを窺い知ることは出来ない。だが如何に過失であろうと、母親を突然失った悲しみや、嫌疑をかけている父への恨みは消えないだろう。

 ――ならばなぜ今も、

 美恵が母親を喪ったのは小学生の頃だ。それからどの時点で経緯を推理したかは解らない。故意では無かったことを認めているならば社長のとの間に赦しを、それでも抑えきれない怒りならば決別を、そのどちらかを現在までの十数年で済ませているはずだ。

 だが目の前の美恵は怒りを絶やすことなく、かといって感情を爆発させるでもなく……社長に対して一歩引いたような感情を保ち続けている。

 一体何のために、そんな器用な真似をする必要がある?

 胸に渦巻く不透明さをうまく口にできず、思わず目を伏せる。美恵はそんな私を一瞥しただけで、内面を察したようだった。


「……私があの人を許せないのは、お母さんを死に追いやったその効果を、自分の利の為に今も改良して使っている事。不思議に思ったことはない?あの人が自分の意のままに動く便利な人間を何人も抱えられることに」

「そっか。だから在庫をあんなに」


 そこに確たる証拠がある訳ではない。だが、頭の中で行動と事実を線で結んでいけば、首を縦に振るしかなかった。

 現状、対外的には単体では何の役に立たないとされているアンブロシアを、専用の倉庫をしつらえるほど大量に保存する理由はそれしかない。

 頷いた美恵は再び立ち上がり、鞄から表紙の色が異なる2冊のノートを取り出した。そのうち薄いピンク色の方に手を置く。


「きっとお母さんの死も、発見のきっかけくらいにしか思ってない。だからあの人に内緒でもうひとつ、研究を走らせる事にした」

「それって――」

「アンブロシアの催眠効果を阻害するための薬の製法。入れ替わりが多くなったのは、達也に会うためだけじゃないんだよ」

「じゃあ、こっちは?」


 もう片方、表紙が水色で塗られたノートを指さしながら、半ば無意識に問いかけていた。

 ここに来て続々と明かされる情報によって理解が追い付かなくなり始めた頭が、ひとつでも疑問を潰しておけと急かしているのかもしれない。


「そっちは


 ……交渉?

 これまた見当がつかずそのまま返すと、美恵はこともなげに答えた。


「蘇生薬の製法を纏めたノート。誰が見ても……って訳にはいかないけど、院長レベルの医学知識があれば読み解けるよ。っていっても現状までだけどね」

「え?前は全然纏めていないって――」


 言いかけ、慌てて口を噤む。

 欺く手口を標的の前でひけらかすものがどこにいる。美恵は粛々と布石を打っていたのだ。


「完成したらこれを社長に渡す代わりに、アンブロシアの悪用を止めてもらう」


 美恵の決意は倫理的にも、人道的にもきっと正しい。

 それでも私は背中に走る僅かな寒気を拭いきれなかった。

 私も院長も、あるいは石井達也の存在すらも。

 すべては彼女のうちに灯る、冷たい炎の中にくべられる為に供された、薪の一把に過ぎないのかも知れない。

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