『不惜身命』
「で、結局朝まで起きてこなかった、と」
「すいません……」
「美影君が謝る事じゃないさ」
正座のまま頭を下げる私に、院長は苦笑交じりに眉根を下げる。
「おいーっす。……ってあれ、もう終わっちゃった?」
「啓示か。珍しいな」
私より先に振り返った院長が声の主の名を呼ぶ。そこに立っていたのはスーツを着崩した出で立ちで現れた社長だった。
「一度超高校級のウデっての拝見したくて、車飛ばして来たんだけどね。残念」
ガンラックの傍で話している私達を見て、既に練習を終えた事を察したのだろう。軽く上げていた腕を下ろし、社長は瞼を落とし軽く首を振る。
「今日はハンドガンだったが、変わらずの見応えだったぞ」
「すみません」
「いいっていいって。今度はもっと早く来るよ。会社抜けて」
非がある訳でもないのに反射的に謝る私に、本気とも冗談ともつかない返事を返す社長。苦笑を漏らしながら頭を下げた頭を戻すと、彼の肩に小さな黒い塊が乗っていることに気付いた。
「可愛いでしょ。見物のお礼にちょっと面白いものを見せてあげようと思って連れてきたんだけどね」
私の視線が一点で止まっていることに気付いた社長が目線をその塊にやり、得意げに鼻を鳴らす。
それは黒い子猫だった。彼が動くたびに揺れる肩にも動じることなく、後ろ足の間に伸ばした前足を挟み込み、ぴんと張った背筋のまま佇んでいる。それが犬であるならば見慣れた『お座り』の姿勢だが……猫のこんな様子は初めて目にする。
「ほら、お姉さんにご挨拶」
続く社長の声が私にさらなる驚きを運んでくる。猫はそれを聞くなり私に目線を合わせ、一度高い声で鳴いて顎を下げた。
「よく……しつけられていますね」
「だろ?」
思わず呆けた声で賛辞を私を、猫は相変わらず真っ直ぐに見つめてくる。それは犬の従順さではなく、機械の無機質さに近かった。
猫という分類そのものが持つ奔放なイメージとは真逆の、まるで次の指示を待っているかのような不動ぶりに、私は可愛らしさよりもある種の気色悪さを覚える。
「なるほど、ある程度の知能があれば人じゃなくてもいいのか」
院長が一人得心し漏らした言葉に、私はすぐさま仕掛けに見当がついた。それと同時に素早く、そしてさり気なく顎を下げ表情を隠す。
――私が知っていることを、悟られてはならない。特に社長には。
「あっ、種バラすなよ芳也」
「無駄を嫌うお前があれだけ在庫を抱え込むんだ。何かあるとは思っていたよ」
「……よしノワ。あのいかつい顔したおっさんにまとわりついてやれ」
ノワというのは子猫の名前だろう。命じられるなりするりと体を降りて、せわしなく院長の足元を走り始めた。
躾の賜物でないことを分かっているから、その動きの不気味さもひとしおと言ったところか。
「で、用事はそれだけか?」
時折体を登ってくる子猫を気に留める事もなく、院長はレンジの照明を落としたり、ガンラックを施錠したりと施設を閉じる支度を進める。まぁいいか、と小さくため息をついた社長が向き直った先は、彼ではなく私だった。
「美影さん……が演じている美恵も、休みが明ければ4年だろ?もう出席必須の授業も数えるほどしかないよね」
「ええ、学校へは週に2度行けばいいはずですが」
履修計画は入学の際、卒業まで見据えたものを既に立て終えている。即答する私に社長は大きく頷きを返した。
「うん、それならばそろそろ実際にうちの会社を知ってもらう段階かなって」
「それって」
「ちょっと早いインターンみたいなもんさ。出来る限り早い段階で経営サイドに回ってもらう訳だけど、それにしたって入った後、他の新入社員と大差ないような出来じゃ、結局身内人事って
その一助として早めに現場の空気を知ってもらいたい。彼の言うことを要約すると詰まる所そんな感じだった。
「勿論、美恵とは顔を出すタイミングをずらしてもらうけど……会社はともかくプライベートまでは君の方が動向を掴みやすいだろ?だからアイツが帰ったらその辺を話し合ってくれないかい?男にかまけてまた突飛な事をされても困るし」
なるほど確かにそうだ。
私としてもこの生活を続けている限り達者になるのはせいぜいが家事と銃の腕前だけだろう。家で無為な時間を過ごすことが減る分、その提案は有難かった。
「分かりました。しっかり学ばせていただきます」
「そんな気を張る事でもないさ。研究所はともかく、営業のほうでアイツを昔から知っている奴はいないからね。大学での素振りと同じ感覚で演じてくれればいい」
自分でも声と肩に力が籠っていたのか、社長は脱力を促すようにへらりと笑う。
「さて、いまいち効果もないみたいだし……ノワ、戻っておいで」
社長が僅かに顎を上げて呼びかけると、丁度部屋の対角線上で未だ飽きもせず院長の足元を走り回っていた子猫がぴんと耳を立てた。そのまま一直線に社長に向かって掛けてきて、ここへ来た時と同じように肩に収まる。
「それじゃ、来てもらう日は改めて伝えるから、美恵とのスケジュールのすり合わせ、よろしくね」
院長の戻りを待たずに去っていく背中に一礼しながら、私は自分のうちにやる気がみなぎっていく高揚感に包まれていた。
「全く、いつ踏みつぶさないか冷や冷やしたな……美影君?」
私の元へと戻ってきた院長の声も碌に耳に届かない。手を見据え、握った拳に力を籠める。
これまで単なる身代わりとして、どこかプロジェクトの半歩外にいた自分が、美恵の名に恥じない経営者へと成長するという名分を以って、いよいよその中に全身を置ける――やっと、美恵の力になることが出来る。
こここそが、『私』の人生において全霊で打ち込むべきたったひとつの箇所だ。それを成し遂げた時、初めて私は何の背徳もなく彼女の傍に並び立てるのだろう。
「全力で、やります」
そんな意識を纏めた言葉を静かに呟く。
――なら、それを成した後は?
そんな自分にどこかで問いかける声が聞こえた気がした。
そして、その質問が意味を成すことは、永遠になかった。
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