73『キッドナップ・ゲットバック』
「あそこ、か」
バイクを止めてヘルメットのバイザーを上げ、サイドスタンドを脚で下ろす。辺りに耳が痛くなるほどの静けさが戻ってきた。手摺から身を乗り出し、陸橋から指定された場所である倉庫街を見降ろす。
(期待してはいなかったけど、やっぱり碌に明りがないな)
それでも一応ボディバッグから双眼鏡を取り出して覗いてみるが、レンズの先に映る光源といえば、広い間隔で点々と灯されている街灯くらい。並び立つ無数のコンテナの輪郭を掴むのがやっとというほどに闇に閉ざされていた。
『どうだ?』
ヘルメットに通したインカムから院長の声が聞こえてくる。
「橋の上から見てみてますけど、駄目ですね。こう暗い上にコンテナが積みあがって死角だらけとあっちゃ、何人潜んでてもわかりゃしないや」
分かってはいたことだが、どうしても出たとこ勝負になる。慣れ始めた夜目で出来る限り全体の
これ以上近づけば橋の下にもエンジン音が響く。ここに置いた方が賢明だろう。
(キーはこのままでいいか)
橋の脇から下に降りて、まず入口を探す。積み下ろしの為のトラックが往来する為か、敷地を取り囲んで張り巡らされているフェンスは身長のゆうに3倍はあろうかという程高い。
その切れ目はたった一か所。どうやら入口はここだけみたいだ。指定された場所を確認しようと端末に掛け――ようとして、指が止まった。
「……」
見えない針を無数に付き付けられているような、素肌の表面がちり付く感覚。暴れ出した被験者が俺に拳を突き出そうと機会を伺っている時と同じだ。
目視したわけではない、物音が聞こえたわけでもない。それでも確かに俺の頭は何かが動いたことを悟っていた。
背中側に一層強く感じているという事は、見張りは俺が思ったよりも広範囲に配置されているのかもしれない。
そう踏んだ俺の心は、少しだけ余裕を得る。むしろそれなら逆に都合がいい。
「誰か……いるのか?」
怯えた風を装って声を絞り出す。逃走経路であるバイクまでの距離は短いに越したことはない。自然と立ち止まる理由を向うから与えてくれた。
「約束通り、ひとりで来たみたいだな」
案の定。気配を感じた方向とは間反対、正面の街灯が照らす範囲の更に奥から声が返ってきた。
「データは?」
聞こえてきた方向は同じだが全く違う声色が続く。これで前方に2人、後ろも少なくとも2人以上。
「その前に三吾さ……令嬢の姿を見せてください。交換は同時に行うという約束のはずです」
……演技が過ぎたか、正面から伝わる空気が一層張り詰めた気がした。
「彼女は無事だよ。最も、大人しくデータを寄越してくれればの話だけどね」
威圧をもくろむ余裕を匂わせながら、僅かにディレイの掛かった人分の足跡が近づいてくる。
「この目で無事が確認できるまではデータは渡すなと社長に厳命を受けています」
それが相手にとって予想しえなかった反応なのか、舌打ちと共に足音が止まった。ついで苛立ち交じりに革靴のヒールで砂をにじる音が聞こえてきた。
「僕はあの2人の命令に逆らうことは出来ません。唐津課長との繋がりがあるのなら、この意味がお分かりかと思いますが」
そこには明らかな苛立ちが見て取れるが、ここはまだ突っ張る。最悪なのはデータを渡した末に
「……なるほど。令嬢の命が掛かっているというのにこの聞き分けの無さ。噂通りの効果の様だな」
満足気な声と同時に、灯りの下に男がひとり、現れる。一見あまり荒事とは縁のなさそうな、線の細いシルエット。しかしその体躯が頂く顔は、なんというかテンプレ通りの下卑た笑みに歪んでいる。
「うちとしてはまず、それが手に入れば上々だ」
――なるほど、求めているのは催眠効果の方ということか。
研究途中の蘇生薬を奪うにしては大がかなりな事をすると思ってはいたが、こちらは効果が実証されている。投薬だけで相手の意思を自覚すらなく自由に操れるというだけでも充分に魅力的だろう。
「そこから先、あの若狸が何をもくろんでいるかは、改めて教えてもらればいい」
つまりはこの交渉で終わりにする気がないという事か。社長の言った通りだ。
「なら、令嬢はこちらに連れてきていないということですか?」
「そうは言っていないさ」
軽くかわすような口調と共に男が闇に顔を向け、尖った顎と上げる。すると地面を照らす光の端に、後ろ手を縛られぐったりと頭を垂れた三吾(偽)の姿が映し出された。気を失って明らかに自分で立つことのできないその体を、こちらはいかにも暴力沙汰バッチ来いといった風体の巨漢が後ろから支えている。
「三吾さん!」
「おっと今はここまでだ」
駆け寄ろうとした俺を鋭い一声が制した。先に見せるもんを見せろという事だろう。出掛かった足を舌打ちと共に止め、懐からメモリーを取り出す。
「中がダミーかブランクでしたなんてオチは笑えないんでね。この場で改めさせてもらうよ」
「……こっちも持ち逃げは認められないので、そちらの護衛を外していただけます?」
「令嬢の顔が地面を擦ることになるが」
「取り返せないよりは」
間髪入れない俺の返答に不承不承ながら男は合図を送り、三吾さんの体を支えていた巨漢がその身を離し、再び暗闇へと紛れる。
ゆったりと地面に倒れ込む彼女には申し訳ないが、ここで身のこなしを見せるわけにはいかない。ざり、と砂利がその頬に傷を付け、次いで倒れ伏す音が響いた。
俺との距離まではざっと10歩、そこから近くの暗がりまでは3歩ほど、ってころか。行けるだろう。
「これでいいだろう?」
急かす男の言葉に無言でメモリーを放り投げると、受け取った男は鞄からB6用紙サイズのタブレットを取り出し起動する。ディスプレイから真っ白な光が浮かび上がり、男がメモリーを差し込もうと身を屈めた。
――ここ!
十全に警戒している相手がこちらから視線を離す、唯一にして刹那のタイミング。
俺はあらんかぎりの力で地面を蹴っとばし、飛んだ。
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