70『記憶は脳のみにあらず』

「で……なぜにここ?」


 走り出してしばらくは体を抜ける心地よい風と四気筒の振動にすっかり高揚していた心も、迷いなくハンドルを切る一志の運転によって1時間も経たないうちに見知った景色が視界に映った頃にはすっかり消沈してしまっていた。


「いや、実家には置いてあるって言ったべ?」


 やはりというべきか、僅かに色あせた木製のラティスに囲まれた一軒家の前でエンジンの音が止まる。

 投げかけられた質問の意味が解らないのか、サイドスタンドを下ろした一志は不思議そうに訊ね返してから、きょろきょろとガレージを見回した。


「ほらあった」


 どこか得意気に一志が指さした先には、反射を抑えた鈍い銀色のカバーが掛けられた1台のバイクが置かれていた。下から覗くチェーンロックの柄も、巻かれているホイールの柄にも覚えがある。近づいて確認するまでもなく、俺のバイクだと一目で分かった。


「そうは言ったけどさぁ……」


 まさか、こんな形で再び実家の敷居を跨ぐ事になるとは。全く予期していなかった帰省に、心の準備などできているわけがない。

 が、それは実家も同じだったようだ。レース用マフラーのやかましいいななきと俺たちの声が響いているのにもかかわらず、そのドアは一向に開く様子はない。


「留守か?」

「みたいだね。カーテン降りてるし」


 施錠された窓を指さして呟く。ひとまずいきなりのご対面は避けられたようだ。


『みんなでご飯でも行こうよ、兄ちゃんのおごりで』


 ほっと撫で下ろす胸に、和也の一言が過る。その提案に了承はしたものの、何も知らない母さんの前で自分を演じる所を想像すると、あまりいい居心地とは思えない。何かのきっかけがない限り、俺は延々と機会を引き延ばすつもりでいた。

 ……少なくとも、さっきまでは。

 こうして家族の不在を確信した今、心には確かにあいつと母さんの顔を見れなくて残念だという気持ちが混ざり込んでいる。

 今この瞬間こそがその『きっかけ』なのかもしれない。いよいよもってなる前に、もう一度くらいは顔を合わせるべき、か――


「どした?」

「ああ、いや。ここまで来てくれたところで悪いけど、全然弄ってないないから動かないと思うぞ」


 黙り込む俺を覗き込む一志に、慌てて適当な言葉を並べる。


「そうか?にしてはタイヤもへっこんでねぇし、カバーに埃も積もってないぜ?誰か乗っていたんじゃないか、これ」


 そう言いながら遠慮なくガレージのフェンスを開けてバイクを眺める一志。そういえば、いつぞやのメールで和也が免許を取ったって書いてあった。しかしここには俺のバイクと自家用車以外は停まっていない。

 ――あいつ、俺のバイク乗り回してたのかな?金無いって言ってたし。


「この分ならバッテリーも問題なさそうだな。走らないのにメンテだけするってこともねぇだろ」


 段々と目を輝かせ始める一志、まずい。どんどんリターンライダーになる流れが出来始めている。


「……そう!鍵!キーがないもん動かせない――」

「家の鍵出してみ」


 咄嗟に思いついたナイスな理由付けも食い気味に遮られ、言われるがままポケットに入れていた鍵を出すと……シリンダーキーの横に着いたひと回り細い鍵が揺れていた。


「な」

「なんで分かったのさ……」


 バイクのキーがないと叫んだのは単なるその場しのぎの嘘ではない。家の鍵と連なってキーホルダーで纏めていたことなど、自分でもすっかり失念していた。


「よく無くすから鍵はまとめて大きくしているって言ってたからな、お前。家族はスペアキー使ってたんだろう。それに、あんま心配することもないと思うぜ?」

「心配?」

「運転ってのは体が覚えてるもんだ。案外ハンドル握ればあっさり思い出すかもしんないぜ?もし駄目そうならそれ以上無理強いはしないからよ」


 ……これはもう、観念するより他無いようだ。

 それに恐らく、一志は俺がバイクを運転することも記憶の復活につながると信じて、初めからそうさせるつもりだったのだろう。出会い頭に口にした『ちょうどいい』という言葉の真意を今更ながら悟る。


「そこまで言うなら、やってみるよ」

「いいっすねぇ!」


 調子を良くした一志の声に押され、体を車とバイクの間に滑り込ませる。黒く光を返すボディのネイキッドバイク、マフラーを2本にし、ライトをHIDに換え、おまけにハンドルの中央にはGPSナビまで付ている辺り、当時の俺はかなりの愛着を持っていたのだろう。

 キーを差し込みハンドルロックを解いて、隣に停めてある車に触れないよう慎重にスタンドを跳ね上げる。その瞬間こそ腕にかかる荷重に体が傾いて、泡を食った一志が駆け寄ってきたものの、すぐに全身で支え直すことが出来た。

 そのまま特に苦労する事もなくスムーズに車庫からバイクを押して出る俺に、一志が感嘆の息を上げる。


「やっぱり問題ないんじゃね?400をそこまであっさり押すのは初見じゃまず無理だし」

「だといいんだけどな」


 再び一志からヘルメットを借りてまたがる。内腿に伝わるシートの反発を感じながらポジションを調整し、右の踵をゆっくりと地面につけた。

 やはり、座り慣れないといった感覚はまるでない。


「さぁて、お立会い……っと」


 意を決しセルを回すと、1度のスパークであっさりとエンジンに火が入る。やはり和也が乗ってくれていたのは間違いない。一志のバイクとは異なる、長い間隔だが重いバイブスが全身を駆け巡った。


「んー久々に聴くねぇ。やっぱ単気筒の音も悪くないな」


 ここまでくると一志の言う通り、左の腕と足は勝手に動いていた。ギアを1速に入れ、絞っていたクラッチレバーから徐々に力を抜き、アクセルを開けていく。


「出来た……」


 辺りの景色が後ろへと流れ、徐々にその速度を増していく。2速に入れてさらに加速するバイクを腿で締め付け、まるで他人事のように呟く俺がいた。

 交差点を右に曲がり、今度は少し乱雑にクラッチを繋いでみる。変速に要する一連の動作を倍以上早めても、全く問題なくギアは繋がり、エンジンの音を変えていく。


「お、おお、おおお……」


 ひとりでに緩み始める口元から、感嘆の声が漏れた。一志の後ろに乗っていた時の数倍の高揚が体を包んでいた。

 バイパスの長い直線に差し掛かる。3速からトップに入れたギアに、マフラーがさらなる咆哮を上げ――


「前の車と車の間、ちょっと空いてますよ!抜きましょう抜きましょう」

「危ないからダメ。ていうか抜く抜く言わないの女の子が」

「えー、なんでですか」



「っと!」


 突如脳裏を走った光景に気を取られ、バイクはオーバースピード気味にカーブに差し掛かっていた。減速を諦めて咄嗟とっさに体を内側に傾け、後輪を流してなんとか曲がりきる。たまらず汗を浮かべる頭にタイヤの摩擦音が不快に響いた。


(あっぶな……)


 ギアを3速に戻し、左車線に戻って跳ねる心臓を落ち着ける。危険回避の技まで思い出していて本当に良かった。あのスピードで車体から投げ出されようものなら大怪我は免れない、下手すればその場で大暴れする食人鬼の完成だ。あの3人になんて言われるか分かったもんじゃない。説教の代わりに氷針が飛んできても文句は言えない。

 ――調子に乗り過ぎた。一志も置いて行ってしまっていることだし、そろそろ戻ろう。バイパスから逸れ、再び家のある住宅街に入る道へとハンドルを切る。往来する車もいない静かな道に戻って初めて、ハンドルを力いっぱい握りしめていた手を緩めた。


(しかし……)

 余裕の戻ってきた左手がハンドルを離れ、空のタンデムシートを擦る。記憶の中で俺の腰を掴みながらはしゃいでいた美恵は、今俺と望まぬくつわを並べるあの姿とはまるで重ならない。

 むしろ記憶を取り戻すほどにイメージがかけ離れていく。造形だけ似せた贋作と見比べているような心地だった。

 ――それに。

 会社でのユートーセーぶりを思い出す。『あの』三吾美恵ならば間違っても公道レースをけしかけるなんてことはしないだろう。道交法を守れと口を尖らせる姿の方がよほど似合う。

 ……なんというか、記憶の中の美恵にある、心の遊びみたいな部分が今の彼女には見当たらない。

 やはり、あの隠された病床に横たわる彼女こそ、本物の三吾美恵なのだろう。

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