69『ホリデイツーリング』

「それでは、今週もお疲れ様でした。土日でしっかりリフレッシュして、来週もまた頑張りましょうっ」


 その一言と共に、デスクのあちこちから椅子を引く音が鳴る。今日は誰も仕事が立て込んではいないのか、俺が回った先の情報を整理し終える頃には、皆机の鍵を閉めて立ち上がっていた。

 かくいう俺も挨拶に回っただけなので、持ち帰りの案件も残務もない。皆にならって、社用の端末を引き出しに突っ込んで鍵を回す。


(そういえば、メール来てたな……)

 課長に挨拶し、エレベーターのボタンを押したところでふと思いだし、ポケットから私用の端末を取り出す。通知画面は2通のメールがボックスに溜まっている事を示していた。気づかない間に懐でもう一度震えていたのだろうか。

 中身を改めると、1通は運転中に来た一志からのものだった。明日の日中に時間が取れたから会おうという内容。そういえばいつぞやにトイレで話した最後に、改めて会う約束をしていたんだったか。

 しかし、明日か。返信のタブを開いた手を止めてしばらく考え込む。別方面から記憶の補強が出来るのは歓迎なのだが、予定が夜まで食い込んでしまうのは考え物だ。願ってもいなかった三吾の申し出を蹴る訳にはいかない。

 ひとまず回答を保留したままもう一通のメールの差出人を確認し終えて、それから20時までなら問題ないと一志に了承の返事を送信する。


(明日は、大きく動きそうだな)

 ――噂をすれな、いや、思えばか?

 終礼を終えてすぐに来たそのメールこそ、三吾が時間と場所を指定するものだった。

 端末をポケットに仕舞って歩き出す。少しだけ視界が広くなった気がした。

 


 ※     ※     ※


「くぁ……あっ、と」


 ちちち、と遠い雀の声を聴きながら、改札を出て青空の下で背伸びをひとつ。

 一志に指定された待ち合わせの場所である地元の駅に着いた俺は、羽織っていたジャケットを脱いで腕に掛け、朝飯代わりに買ったコーヒー缶のプルタブを起こした。

 秋も中頃、それもいつもの通勤電車に間に合う程の早い時間だというのに、歩いてきた体が少し汗ばむほど暖かい。売店で手に取ったこのコーヒーも無意識のうちにアイスを選んでいる。

 待ち合わせには少し早いか。腕時計を見ながらそう踏んだ俺は駅の隅にある灰皿へと向かい、煙草に火をつけてコーヒーを啜り、間の抜けた欠伸を空に放つ。

 事態が前に進むという希望に見上げる秋空の深い青も手伝って、胸のうちは久々に澄み切った気分に満たされていた。

 ジャケットのポケットへ手を突っ込み、ライターを仕舞うついでに、底で鎖に包まれるリングの感触を確かめる。 


 ――よし、ちゃんと持ってきている。

 こいつが活躍するのは夜だ。肌身離さず、いつでも咄嗟とっさに出せるようにしておかなければならない。あれだけ丹念に手入れされていたのだ。にとっても意味のあるモノに違いない。

 底意地の悪い発想だが、いざとなって口を閉ざしたとなればこいつをちらつかせてやればいい。無くしたと思い込んでいるであろう彼女の動揺くらいは誘えるだろう。


(っと、そろそろ時間か……迎えに行ってやる、って言っていたけど)

 俺にとっての最寄り駅を指定したのは、一志が今俺が暮らしているマンションを知らないからだろう。

 だとすれば、とロータリーに目をやるが、動いているものと言えば休日の外出に赴く客を拾わんとするタクシーの車列ばかりで、しばらく眺めてみてもそれらしき姿は見当たらない。


「おう、早えな達也」


 コーヒーを空にし、2本目の煙草を吸い終えたところで肩を叩かれ、全く予期していなかった方向から声がしたことに驚いて振り向く。そこにはいぶしたような茶色のライダースジャケットと黒灰色のジーンズに身を包んだ一志が手を上げていた。


「お前の事だから時間ぎりぎりに来ると思ってたんだが、待たせちゃったか?」

「いや、一服してたし大丈夫。おはよう……か、一志」


 慣れ親しんだ呼び方らしいが、記憶を失ってから初めて口にするとなるとやはり気恥ずかしさが残る。しかし一志はそんなぎこちない挨拶を全く気にも留めないようにからからと笑った。


「まだちょっと硬ぇな。まあ、丁度いいかもしれないけどよ」

 ……何がちょうどいいのか、と尋ねようとした俺の目が、彼の手を包むこの陽気に似つかわしくない厚手のグローブを捉える。


「暑くないのか?それ」

「あー?着けてないと危ないじゃんか」


 手首まですっぽりと覆い、鈍く光を返す黒皮を指指しながら怪訝な顔をするが、彼はその質問の意味が分からないといった風に首を傾げた。


「それに、迎えに来るって言ってたけど、車は?どっか停めてんの?」

「おー……本当に忘れているんだな」


 それはあくまで落胆ではなく、新たな発見の驚きを含めた口調。こちらが反応を返す前に「とりあえず行こうぜ」と歩き出す彼の背中を追うと、角を曲がったところに1台のバイクがサイドスタンドを下ろしていた。

 トリコロールカラーのスポーツレプリカ、曲線の少ない武骨なカウルが年代の古さを表している。


「そういうことか」


 ハンドルバーの中央にキーを差し込む一志を見ながら、やっと彼の服装と言葉の意味を察する。


「晴れた日の休日といえば、決まって2人で走らせてたんだよ。家は近いのか?」


 タンデム用のヘルメットを俺に手渡しながら一志が訊ねてくる。直ぐに俺のバイクが取りに行ける距離かという事を気にしているのだろう。


「いや、近いけどバイク実家なんだよ……」

「なんだ、駐輪場がないのか?」

「いや……」


 少し言いよどむ。別にマンションにだって駐輪場はある。それなのに家を出る際置いて来たのは、事故以来一度も運転をしていない俺が変わらず道路を走れるのかという疑問が残っていたからだ。

 自分がハンドルを握っているイメージが記憶の何処を辿っても見当たらない。恐らく、運転した記憶が丸々欠落してしまっているのだろう。


「んー。ま、とりあえず後ろ乗れよ。この天気だ。今日は流すだけでも気持ちいいぜ」


 一志のテンションを下げるまいと、なんとか返答を探しあぐねていたが、結局のところそれは無用な気遣いだったようだ。俺に運転への気後れがある事を読み取るなり、一志気に留める素振りすらなくタンデムシートを指差して笑う。


「良かったよ。連絡がつく唯一の友達がお前で」

「なんだそりゃ」


 しばらく2人してへへへと笑ったのち、後ろにまたがりながらテールに据え付けられたバーを握ると、徐々に人の増えてきた駅に一際大きな排気音が鳴り響いく。

 普段より少し高い景色が、尻から伝わる震動に上下するたび、俺は固く閉ざされていたドアの隙間から少しずつ漏れ出す光を眺めるような高揚を覚え始めていた。

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