68『コール?レイズ?ダウン?ブラフ?』

 フロントガラスに西日が差し込み、ハンドルを握る片手を離して顔の上に庇を作る。

 会社へと戻る道はしばらく長い直線が続く大通り。赤信号に引っかかったタイミングでサンバイザーを下ろすと、半分以上を薄い橙に塞がれていた視界は随分とマシになった。


「少し遅くなってしまいましたね」


 隣に座る小林課長が腕時計に目を落としながら呟く。


「いえ、今日は珍しく道が空いてますし、このまま流れていれば終礼には充分間に合うと思いますよ?」


 この道は俺が藤沢総合病院へ往復する時も通る道だ。経験則から確信を込めて告げると、課長はそうですか、と安心したように顔を緩め、ホルダーに置いてあるカップを手に取った。


「なら、持ったまま戻っても怒られないかな。飲むの遅いんですよ、私」


 少し茶目っ気を含めて笑いながらストローを口に持っていく課長に向き直ろうとしたが、タイミング悪く信号が変わってしまい、仕方なくアクセルを開けていく。


「すみません、俺までご馳走になってしまって」


 ハンドルの脇にあるドリンクホルダーには俺の分も収まっている。最後の客先から戻る際に課長がコンビニでおごってくれたものだ。

 礼はちゃんと目を見て言うべきなのだろうが、運転中によそ見をするわけにもいかず、どうにか声の調子だけで申し訳なさを演出する。


「同行する部下に奢るくらい普通ですよ。それに今日の健闘を称えるには安すぎるくらい」

「……そんなに頑張ったかなぁ?」


 思わず苦笑が混じる。課長の口ぶりこそ穏やかだがいささかオーバーな表現ではないだろうか。


「頑張ったなんてもんじゃない!よくあれだけ先回りして提案できるなーって……むしろ私が勉強になったくらいです」


 しかし、そんな俺の考えを真っ向から否定するように課長は語気を強める。あまりの勢いに驚いた頭がヘッドレストに食い込みそうになった。


「それは……作ってた鏑木の発注リストの中に、似たような注文のパターンがあっただけで」

「普通、頼まれて作った資料の内容なんて覚えていないものですって。しっかり経験が活きているじゃないですか」

「聞いてもないのに、これが俺の必勝パターンだー、とか、こう困っている相手にはこう勧めてみろーとか一々講釈垂れるもんだから、自然に覚えちゃっただけですって」

「もしかしたら、鏑木さんはいつ貴方が外に放り出されても困らない様に、リストの作成を手伝わせていたのかもしれませんね」


 ……さすがにそれは考えすぎですかね。と訂正しかける課長に、いや、と言葉を被せる。


「あいつ、世話焼きだったからなぁ」

「いいお友達だったんですね」


 いいお友達。過去形。

 ええ、と答えてそれきり会話の途切れた車内では、俺の懐に入れた端末のバイブレーションさえ、一際大きく聞こえた。


「失礼」


 会社はもう遠景に見えてきてはいるが、一応次の赤信号でポケットに手を突っ込む。

「やっぱり遅れてしまいましたかね」


 営業部の誰かからのものと踏んだのか、まだ土地勘のない課長が再び心配そうに声を潜める。


「いえ、こっちにメールが来ただけです」


 支給されているものとは機種の異なる端末を見せると、課長はほっと息をついた。


「いいですよ。余裕があるなら停めて見ても」

「大丈夫です。終礼が終わったら確認しますよ。もう近いですし。ほら」


 変わった信号にペダルを踏み込みながら前を指さすと、課長はそこで初めて近づいてきたビルがうちの会社であることに気付いたようだ。


「すぐ傍だったんですね」


 感心したような、少し恥じ入ったような口調で呟く課長に軽く笑いながら、ウインカーを灯らせる。


「裏から見ると分からないもんですよ」


 課長を正門の前に下ろし、地下の駐車場に車を滑り込ませる。進入口のバーが上がるのを待っている間、同じ型の社用車がもう一台、俺の後ろに着いた。

 営業の誰かが帰ってきたのだろう。視線を後ろにやると、車のハンドルを握っているのは三吾だった。


 ――ちょうどいいか。

 営業車用のスペースまで進み、左の掌でハンドルを回しながらシフトレバーをリアに入れる。一発で白線と平行になった事をサイドミラーで見て取ってペダルを離すと、後はクリープだけで綺麗に後輪を車止めにもたれ掛けた。

 深い一息を吐きながらシートベルトを外す横目に、三吾の車が隣の白線へと入ってくるのが見えた。空いているスペースは他にいくらでもあるのに隣に来るのは几帳面な性格故か、それとも俺に気付いていないのか。

 どちらにしても都合がいい。そう思って持って降りる荷物を纏めて待っていたが、彼女の車は何度もリアランプを明滅させながら、それでも角度を決めきれずに延々ともがいている。

 歯に衣着せないで言うならば、近年稀に見るド下手クソ加減。

 時計を睨む。課長はとっくにデスクに戻って、終礼の支度を始めている頃だろう。投げかけようとしている問いはイエスかノーかで答えられる単純なものだったが、このままではその時間すら無くなってしまう。

 というか、俺が質問をぶつける前に三吾が車をぶつけそうだ。


(しょうがないな……)

 車を降りて誘導を買って出ようとした矢先、ようやく――と言っても車体はまだ盛大に斜めを向いているのだが、あのまま下がっても何とか白線の中に収まる角度となった車が、のろのろとバックを始めやがてエンジンを止めた。

 ……なんだか見ているこっちの方が疲れた気がする。息を吐きながら運転席のドアを開けると、同じタイミングで彼女も降りてきた。


「お疲れ様です」


 声を掛けるが彼女はこちらに気付いた様子はなく、カバンを取り出すその横顔は焦燥と疲弊をないまぜにしたように暗く、ドアを閉めてもうつむいたまま下唇を噛んでいる。とてもじゃないが単なる運転疲れのせいだけとは思えないものだった。少なくとも、殺されかけた翌日俺よりも早く出社し、平然と客先を回る人間が浮かべる表情ではない。


「三吾、さん!」


 やがてそのまま通用口に歩き出す背中に向かって叫ぶ。慌てたせいで思わずここが会社だという事を忘れて敬称を付け損なう所だった。


「あ……」


 大声を受けてやっと俺に気付いたのか、彼女は呆けた声の後振り向いて目を見開く。


「お疲れ様です」

「……何?もう終礼が始まる頃だから、早く戻りたいんだけど」


 普段はすれ違っても用事がない限り無視を決め込む間柄だ。改めてねぎらいの文句を口にする俺と対峙する彼女は、あくまでBESANGOを演じながら、全身で警戒を表している。


「いいえ、直ぐ終わる野暮用ですから。ここで済ませた方が互いの為でしょう」


 僅かに鼓動を早める胸に落ち着けと言い聞かせながら、一応ゲートに目をやるが、他に車が入ってくる様子はない。まかり間違っても営業部に戻ってからでは『本物の三吾美恵は何故眠っている』などと訊けるわけがない。

 睨みあう互いの間に走る緊迫ごと吸い込むように、俺の呼気が大きく響く。


「アンタは――」

「ああいたいた。石井さーん」


 しかし、通用口から響いた呑気な声に吸った息が行き場を失い、それは結局大きなため息に変わって霧散した。


「課長」

「ああ、三吾さんも一緒でしたか。何かあったんですか?」


 ――完全に機を逸してしまった。たちまち緊張が徒労に変わり、疲れた肩にのしかかる。


「いいえ、彼女のバックがあまりに下手だったもんで、誘導させられてただけですよ」


 多分に苛立ちを込めた俺の声に、彼女が気色ばんで俺を睨むが、「ねぇ三吾さん?」と睨み返しながら念を押すと、彼女は渋々同意する。本当の理由を言えないのは向こうも同じだ。


「そういう言い方は良くないですよ。人には得手不得手があるのが当たり前って言ったじゃないですか」


 口を尖らせる課長に素直に頭を下げ、車のカギを手渡す。


「さ、早く終礼して帰りましょう。せっかくの週末ですしね」


 もともと本気で怒る気が無かったのだろう。すぐに口調を柔らかく直して通用口に歩き出す課長の後ろを2人して着いていく。


(ドア開けてでもとっとと聞いておけば良かった)

 悔やむ。会社がなければ強制的に顔を合わせる機会は来週明けまでなくなってしまう。俺がいる可能性がある限り病院のジムにも来はしないだろう。

 その期間が命取りだ。2日間も猶予があれば院長や社長と口裏を合わせる事も難しくない。あの2人はあくまで俺が自力で記憶を取り戻すことを望んでいる。彼女に手を貸す可能性は高い。そうなれば引き出せる情報量はずっと少なくなってしまうだろう。そして何よりの痛手は――。

 心の中で舌を打ちながら横目で三吾の顔を見やる。仮に顔ごと向けてガンを付けても気づかれなさそうな、俯き加減でどこか焦点の定まらない表情。

 普段の立ち振る舞いとはおよそ似つかわしくないが『三吾美恵という仮面を剥がされかけ、その下から覗くの焦った顔』と見方を変えれば合点がいく。何より別人である証拠をあの部屋で目の当たりにしているのだから、それは仮説や妄想ではない。文字通り動かぬ証拠をあの部屋で目にしているのだから。

 これからは彼女が別人である、という事実を軸に立ち回れるのは大きなアドバンテージ……だったのだが、三吾(偽)から情報を引き出せないまま土日を挟むとなれば、事情はむしろ悪化する。

 その間に、俺が資料室の隠し病床を発見したことを知られてしまう。これこそが最大のリスクだ。

『三吾美恵を別の人間が演じている』という可能性。いくらあの下水道で三吾(偽)が口走った言葉があるにしろ、その内容はこれまでの経緯からは全く辿り着く筋のないものだ。それだけで確信を抱けはしない。

 それを聞いた俺が錯乱した末のでまかせかと流すなり、その物証をあてどなく探すなり……言ってみれば結論を出すまでに最低ワンクッション置く時間がある、社長や院長はそう捉えているはずだ。

 ぶっ飛んだ考えだと笑うようならそれに同調し、思考を遠ざける。

 有り得るかもしれない、と勘繰るようならさりげなくその先を塞ぐ。

 ……といった形で俺の出方を見て自然と遠ざける対応をすれば、万一余計なアクションでボロを出すリスクも背負うことなく隠しおおせる。スマートな2人の考えそうなことだ。

 対してこちらは殆ど一足飛ばしのような形で物証を目にし、確信を持つに至っている。

 つまり、社長たちは俺が次にどのカードを得るかを眺めているが、俺は既にカードを手にしている上、それが鬼札である事も確認済み。その認識の差こそがさっきのように誰に邪魔される事なく石垣の崩れた本丸――つまり無対策の三吾(偽)――を攻める隙を生んでいるのだ。

 それが土日を挟み、俺が本物を見た事がバレてしまえば、社長と院長2人掛かりの入れ知恵を以って、城塞はむしろ以前より強固になってしまうだろう。

 

 (こりゃ、別の手立てを考えるべきかな……)

 そう考えていた俺に、薄暗い駐車場から照明のきらびやかなエントランスへと入る直前、三吾は前を歩く課長には届かないほどの小声で口早に告げてきた。


「……明日の夜、予定を開けて置いて、長い話になるから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る