67『当たり前の日常が、かえって』
「石井さん?」
あれから寝ずに粘ってみたものの院長が姿を現すこともなく、俺は疲れきった体を引きずって会社に来ていた。おまけに想像の遥か上を行く事実を知った頭は今も絶賛混乱中。小林課長の呼び掛けを数度にわたってスルーしてしまっても不思議ではない。
「あ、はい……すみません」
「もう、困りますよ?お客さんの所に行くのにそんな風では」
「お客さん?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる俺を見て、課長は腰に手を当てて目を鋭くした。すぐに続いた軽い溜息と降ろした肩で、それがポーズだけの怒りである事はすぐにわかったが、言っている事自体は冗談ではないらしい。
今日は院長からの注文の電話は受けていないはずだが、俺がこちらに向かう間に入ったのだろうか。頭に浮かんだ考えをそのまま問いかけるが、課長は首を振る。拍子に1本に纏まって腰まで伸びる黒髪が連動して揺れた。
「いえ、いいタイミング……と言っては不謹慎ですが、亡くなってしまった鏑木さんの分も含めて、一度担当先の再配分を行おうと思いまして……午前中はその会議だったんですよ」
今は主が不在である隣の椅子に座った課長が続けるには、役席が変わった上営業が1人減ったことで、部署では俺を遊ばせておく余裕もなくなってきたらしい。
正直に言って手掛かりの揃い始めた今、仕事を増やされるのは手痛いところではあるのだが、事情も話せないのではそんな不満を漏らすわけにもいかない。そんなこちらの心中も知らず、課長は一冊のファイルを手渡してくる。何かの名簿の様だ。
「石井さんは今のところ藤沢総合病院さんだけですよね。ですから担当先が増えるだけになります。これから幾先かアポの取れている所へ挨拶に向かいますが、同行願えますか?」
渡されたリストには客先の名前が並び、その横に営業部のメンバーそれぞれの苗字が矢印で結ばれている。担当の移り変わりを示したものだろう。こうして見ると鏑木が受け持っていた客先はかなりの量に上り、それだけ彼の損失が会社的にも痛い事が
「ええ……構いませんが、鏑木のようにうまくやれるかは……」
言葉尻を濁すが、うまく出来るはずがない事は言う俺にも聞く課長にも明白だ。ほぼ飼い殺しの格好で過ごし、数字だけを楽して得ていた俺の手腕が、配属直後から自分の腕で顧客を開拓してエースの一角に上り詰めた鏑木に叶う道理はどこにもない。目の前に立っているのが仮に唐津課長ならば、その原因を無視して俺の無能を責めるところだ。
思わず身構えてしまう俺に返ってきたのは、課長の少し困ったような笑みだった。
「そんなことは承知の上ですよ。誰だって初めから結果が出せるはずないですから」
「え」
俺と藤沢院長の間にビジネス以外の関係があることは、引き継ぎで伝わっているだろう。つまり半年たっても見知らぬ取引先とのやりとりも未経験という営業であることを課長は知っているはずだ。
今まで何をやっていたんだという叱責を少なからず覚悟していた頭が、謝罪どころか反省も要求してこない、予想外の反応に間抜けな声を出してしまう。
「私ね、ここに来る前は栃木の支社長だったんです。こことは比べ物にならないくらい小さなところ」
18時には会社を閉めてみんなで飲みに行くようなところでしたからね。そう続ける課長の眼は、どこか遠くを眺めているように見える。
「え、その年で、ですか」
「マナー違反ですよ。年の話は」
冗談めかして笑う課長に素直に驚き、横に座っているのは紛れもない才媛であるといまさら自覚する。てか、この人まだ30になったばかりじゃなかったか。俺と5つも離れていない年齢で支店長を経験するなど、例え男であっても相当な出世ペースだ。
「でも、やっぱりあんまりうまく行かなくて……。直ぐに異動になるかなとは思ってたんですが、それがいきなり本社勤務で、しかも営業にカムバックって言われちゃ、正直今も戸惑いばかりです。だから偉そうな事は言えないんですよ。石井さんがどういう経緯で営業を任せてもらえなかったのは測りかねますが、私も石井さんとじような境遇ですよ。だから、お互い出来る事から頑張って行きましょう?」
ずっとほったらかしだった俺の手をただ引くだけでなく、一緒に歩いていこうと諭すその姿勢に、俺は初めて営業というものに前向きな気持ちを抱き始めていた。
――こんなタイミングでなきゃ、なあ。
「……はい」
それでも気遣ってくれる気持ちは素直に嬉しい。小さく頷く俺を見て、課長は満足そうに首肯を返して、ついで据わっているデスクを掌で軽く撫でた。
「隣に座っているのがあの三吾さんとあってはプレッシャーもあるとは思いますが、むしろ彼女からスキルを盗むチャンスと考えて、ね」
ふとフロアの入り口に目をやるが、彼女が帰って来る気配はない。だからこそこんな言い回しが出来るのだろうが。
俺も苦笑しながらふと思い出して尋ねる。
「そういえば、その三吾さんは?」
「会議が終わってから早速引き継ぎ先へ挨拶に出ましたよ。フットワークの軽さは彼女の大きな武器ですね」
「よくやるもんだ……」
思わず感嘆を口に出してしまうが、それは営業としての技能の高さを称えるものではない。昨日あれだけ危険な目に遭って今日平然と仕事をしているメンタリティーに対してのものだ。あるいは、平時を過ごす事こそ彼女にとって安定を取り戻す手段なのかもしれない。
「彼女の場合、社長の娘という看板を背負っていますから、そのプレッシャーを力に変えているのかもしれませんね」
「プレッシャーを力に……ねぇ」
思わず眉間にしわを集めながら、昨日の顛末を反芻する。多分にテンパった挙句、怪我人を放置して走り去る彼女にこれほど似つかわしくない言葉もないと思うのだが、こうして仕事をきっちりとこなしているのもまた事実だった。
どちらが彼女の本当の顔なのだろうか。
……あるいは、どちらかが三吾美恵を演じている本人の顔、という事か?
「そんなに難しい顔しなくても、石井さんには石井さんの武器があるんだと思いますよ?」
ベッドに横たわる、瓜二つの顔が脳裏をよぎり、考え込む俺の顔を少しずれた解釈を下した課長はにこやかに笑い掛けた。
「社長は人を良く見る方ですから。そうでなければいきなり本社に配属なんてされません」
「うーん……そうですか?」
濁した返しじゃ謙遜ではない。俺がここにいるのは極めて私的な――社長にとっては会社の命運を握っているのだろうが――理由故に過ぎない事を知っているから、せいぜい苦笑を交える事しか出来なかった。
「藤沢総合病院にしたって、初めは記憶の治療を兼ねてという理由かもしれませんが、それでも1年半しっかりと数字を上げているじゃないですか。いきなり大手の既存先を任されれば、普通の人は委縮してしまうものですよ。それも一度も同行を頼まずにここまで……大したものです」
(いやそれは唐津課長が頼んでも着いてきてくれなかっただけなんですけど)
かつてはその放任を恨んだことすらなかったが、今になってずいぶんな扱いを受けていた自覚が湧いてきた。
とはいえここでその愚痴を漏らしても仕方がない。それに、碌に交流を深めたことのない部下を何とかほめてモチベーションを上げようとしてくれている課長の熱意に水を差す真似も無粋に過ぎる。
「……ありがとうございます。緊張、少しだけほぐれました」
世話を焼いてくれることに対する感謝の念、これも本物だ。デスクから立ち上がって顔に精一杯の笑いを張り付けて答えると、課長もカバンを持って小さくよしっと気合いを入れた。
「それはよかった。あとは実践あるのみ、さっそく行きましょう」
――本当、こんな時じゃなきゃなあ。
颯爽と立ち上がって鞄を取りに戻る課長の背を見ながら、短い間、目を伏せる。
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