66『邂逅』
――入口があるとすれば、中か。
意を決してドアノブを握るが、鍵の開いている公算はかなり低く思えた。いくら患者が立ち入らないエリアだとしても、最低限の用心位は……
「あ、ありゃ?」
ことのほかあっけなく開いたドアに、思わず小さく声が漏れた。情報管理の甘さに一抹の疑問を覚えながらその先にある真っ暗な空間に踏み入り、無意識に室内灯のスイッチを探そうとし――た指を慌てて制する。
窓から光が漏れてしまったら自分の動きがバレバレじゃないか。
思いとどまって伸ばした手を引っ込めたはいいものの、明りも照らさず中を探すのは効率が悪いし闇雲に動いて何かにぶつかって大きな音を立ててしまえばそれまでだ。しばらく思案した結果一度病室に戻りカバンの中から端末を取り出す。
(成程)
念の為、発光部を軽く手で覆いながら部屋の中を照らすと、さっきの疑問はあっさりと氷解した。
内部は3列の通路を成すように戸棚が等間隔で立っていた。俺の胸元あたりを境として上は観音開きのガラス戸、下は引き戸になっており、そのどちらもしっかりと施錠されている。これならば入口自体の鍵はなくとも問題はないだろう。
(っと、余計なこと考えている場合じゃないな)
改めて中を見渡せば、確かに部屋の長さが廊下と比べて明らかに短い。本当に隠し部屋がこちらにも存在するとすれば、あの診察室と同程度の広さの部屋が、この向こうにもあるってことか……?
部屋の入り口から左を向いて壁を見やると、そこにも隙間無く戸棚が敷き詰められており、一見して不自然なところは見当たらなかった。
ただ、あの冗談みたいな地下ジムを作った院長のことだ。どこかに隠し扉のスイッチのひとつやふたつあってもおかしくはない。
ひとつひとつの棚を見て、触って調べていく。
(6桁の数字は年と月、か)
棚の下半分の引き戸は中が覗けない為分からないが、どうやら上のガラス戸の向こうには何らかのファイルが年月順に収められているようだった。青い背表紙にラベリングされた数字の下2ケタが1から12までを繰り返していることに気付けば、誰だってそれくらいの想像はつく。
紙ベースに印刷したカルテだろうかと考えながら順に戸棚を覗いていく俺の目が、部屋のちょうど中央にある戸棚で止まった。
(ここから、違う種類の資料になるのかな)
中にファイルが収められていることに変わりはないが、その背表紙の色は黒く、ラベリングの文字は『A0001』といった、アルファベットと数字の組み合わせに変わっていた。刻まれている数字には今までのように右に行けば増えていく、といった法則性がなく、4桁という体を保っている以外はてんでばらばら。さっきまでの戸棚よりさらに中身の想像がつかない。
それでも一応順に見て回り、隣の戸棚に移ってすぐ『A6680』と書かれたファイルに再び視線が止まる。
(この数字、どこかで……)
――そうだ。初めて三吾とともに被験者を誘き出した時に使ったあの
と、そこまで思い出したはいいものの、それが何を意味する数字であり、そもそも何故ここにあるかの見当は全くつかないまま、再び棚に目を走らせる。
すると今度はその2列下、右端から3番目に『C3680』と書かれたファイルを見つけた。
(やっぱり、この数字には何か意味がある、のかな)
目を留めたまま考え込んでいると、不意に見つめているファイルの背表紙から、小さな赤い光が走った。驚きに思わず飛びのこうとした足元で、かしゃんと軽い音が響く。
丁度それは、簡素な鍵が回るような――
(下の戸が、開いた……?)
まさか、と思いつつも屈み込み、引き戸の取っ手に手をかけて、ゆっくりと力を込めてみる。
「……マジかよ」
何の抵抗もなく開いた扉の中に、とりあえずは光を当ててみるが、そこにはファイルのひとつも収まっていなかった。それどころか仕切りも、奥にあるはずの裏板すらない。
その代わり、本来ならば壁が見えるはずの奥からは、いくつもの電子機器が放つ光が覗き、同時に少しだけ大きくなった駆動音が響いてくる。
この引き戸に収められていたのは資料などではなく、棚の裏側へと続く抜け道だった。
ざわりと、全身を荒いブラシで撫ぜられたような心地が襲ってきて、俺は一度そこから首を引っこ抜き、資料室の入り口に目をやった。
この先には何か、決定的なものが置かれているのはもはや疑いようがなかった。その秘匿主である院長ががいつ戻ってきて、俺の行動を察知するかはわからない。
もし、この先にあるものを見ることが、彼との共同歩調が崩す結果を招いたとしたら、今度こそ活路を絶たれてしまう。
どうする。戻るか。
怖気にも似た予感のせいか、考える頭がひとりでに指を動かし、気付けば戸棚を閉めていた。
するとすぐさま再び鍵の回る音が鳴り、戸棚は元通り開かずの扉となる。
(あ、バカっ)
無意識とはいえ、リスクを恐れるあまり迂闊な行動を取った自らに侮蔑を飛ばす。そもそもなぜあのタイミングで扉が開いたかの解明がまだだった。行くか戻るか迷おうにも、もう一度ここを開く手立てを見つけなければ意味がない。
ええとなんだ。さっきはここから順番に棚を見ていって、合言葉と同じラベル見つけて……。
部屋に入ってからの行動をトレースしてみると、『A6680』のファイルを注視した時にも、ある程度の間の後、小さな電子音が鳴っていたことに気付いた。
――もしかして。
閃いた俺がそのまま『C3680』をじっと睨みつけると、やはり先ほどと同じ赤い光が走り、棚の鍵が解除される。
確認のために何度か繰り返しているうちに、更にある2つの法則を発見した。
どちらのファイルもある程度の時間見つめ続ける必要があり、更に一定以上の間隔を置いてしまうと鍵は開かないらしい。戸棚全体を流し見しても、
(……つまり、この2つの数字を知るものだけが、この先に入れる、ということか?)
それに、この先にあるものは彼がこうまでして自分の城に隠しておきたい、かといって廃棄することも出来ない何かとくれば、この計画に関わるものである公算は大きい。もしその類でなくても、中を知るということ自体が交渉の材料くらいにはなるだろう。
そして、こんな凝った仕掛けを施す彼の事だ。それ以外の――例えば、今この行動が院長に筒抜けになるような――仕掛けが知らない間に動いている、という事も考えられる。となればこのまま手ぶらで引き下がるメリットはいよいよ存在しない。
「……うしっ」
小さく気合いを入れて身を屈め、戸棚を
立ち上がったその先もやはり明りはなかったが、壁にいくつも光るLEDのおかげで、なんとか中を探る事は出来た。閉鎖された空間であるにも関わらず、空気の淀みも不快な湿気も感じられない。壁から指先に伝わってきた振動は、ここを適温に保つ空調によるものだった。
(やっぱりあの部屋と同じ……広さにして8畳ってところか?)
暗闇に慣れ始めた目が、うっすらと全体を捉え始める。壁沿いには一見しただけでは用途の見当もつかない機器がいくつも並べられていて、LEDの光はそこから放たれているようだった。
足の踏み場は狭いが、天井まで伸びる高さのものがない分息苦しさは感じない。足元に目を落とすと部屋の機械から伸びる何条ものコードが動線を妨げないように端に纏められており、奥に見えるある一点へと収束していた。
(あれは……)
奥の壁面に平行に備え付けられた、腰ほどの高さの長方形。それはこの病院で使われているものと同じ、簡素な医療用のベッドだった。唯一見慣れないところといえば、マットレスの上をアクリル製らしきカバーがすっぽりと覆っているところだけ。
(ここで殺した被験者の研究でもしているのか?)
寝台があるということは、そこには誰かが、あるいはすでに命を失った何かが寝かされているということだ。思わず生唾を飲み込む。
「……っと」
更に1歩ベッドへと近づこうとして、床の段差に躓いて足がもつれた。バランスを直そうとして手を触れた何かが、突然強い明りを放つ。
それはベッドに備え付けられたモニターのようだった。映し出されたのはテレビドラマでよく見る、等間隔に山を描き出す波形図と、僅かな範囲でその数を増減させる2ケタの数字――。
(これって、心電図だよな……)
ということは、ここに寝かされているものはまだ生きている、ということだ。
カバーを覗き込むが、慣れてきたとはいえ周囲は未だ暗闇で、目を凝らしてみてもひとが寝かされていると判別できる程度の輪郭を捉えるのが精いっぱいだった。
(やっぱり、生け捕りにした処理対象の被験者、ってとこか?)
それならこの秘匿性も頷けはする。しかし同時にどこか引っかかるものがあった。
生け捕りに成功しているならば、院長が頭部の損壊が少ない死体をあれほどまでに珍しがるだろうか?
死んでいないのならば少なくとも、三吾が持つ獲物に頭を穴だらけにされた、なんてことはないだろう。
いくら考えても埒が明かない。端末を取り出し、フラッシュを点灯させる。
ケースを覗き込む目にまず飛び込んできたのは脚だった。これだけで寝かされている人間は女性だと分かるほど細く、爪の先まで綺麗に整っている。上半身に向かって光を滑らせていくと、俺が纏っているものと同じ検査衣に包まれた体が目に入った。
(体型は、三吾とほとんど変わらないくらいか)
腰の両脇に延ばされた両腕にも、覗く胸元にも大きな外傷は見受けられない。右手首の脇に何かの痕らしき線が僅かに見られる程度だ。
そして心電図が示す通り、穏やかに、緩やかに、だが確実に、その胸は上下している……呼吸をしている。
とはいえ、今更驚くことでもない。心電図のモニターを見た時から想像はついていた。再び光を動かし、首から上を照らし――
途端に固まった俺の手から、滑り落ちた端末がケースに当たり鈍い音を立てた。
『嫌ならバックれればいいじゃん』
『でも、そんなことしたらノートが取れない……』
『理解してんだろ?』
『でも、頼まれてる』
『あんた、誰のために生きてんの?』
「こいつ……いや、じゃああいつは……誰だよ……?」
よろめきながら2歩後ずさる俺の口からは、そんな言葉が漏れていた。
端末の光が床に落ち、女の顔は再び闇に隠された。しかしその一瞬だけでいやというほど頭の中に焼き付き、思考をぐしゃぐしゃにかき乱す。
瞳孔はひとりでに大きく開かれていき、鼓動が限界まで早鐘を打っていた。伝う冷汗が目に入り、刺激に
体つきは確かに、三吾に似ていた。
(だからって――)
端末の光がベッドの淵を照らし、据え付けられたプレートの文字を映し出した。
「21〷 8・28
『三吾 美恵』」
名前と、顔まで全く同じなんて偶然が、あるわけないだろう。
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