第7相
65『オーバー・ザ・ウォール』
「んあ……」
無意識を
段々と広がっていく視界にはまず、染みのひとつもない真っ白な碁盤の目が映った。天井を同じ大きさの正方形に切り分ける線と、その中央に灯る無数のLED。
清潔な、と言うよりは生活感の全くない場所。
(って、ここは……)
――何のことはない。いつもの診察室に備え付けてあるベッドの上だ。
天井なんぞしげしげ眺める機会が無かったから気づくのに時間が掛かっただけ。ここが覚えのある場所であるという事実に少し安堵して首を横に寝かせ、腕を視界に入れたところで初めて、自分が検査衣を纏っている事に気付いた。
(なんで、こんなところで寝ているんだっけ……それもこんな格好で)
意識がまだ完全に戻っていないせいで記憶まで朧気になっている。背を起こそうとして腹に軽い痛みが走り、ぼやけていた意識が一気に引き戻される。
(そうだ。地下で標的追い詰めて、三吾さん庇って、刺されて――)
今度は傷口に負担を与えないようにそっと起き上がり、コップに注がれている水を一口含んだ。
「はぁ……」
飲み下しながら壁に掛けられている時計に目を向ける。短針は午前5時を差しているのだが、窓が無いせいでいまいち早朝であるという実感が掴めずにいる。というより、針が既に一周しているのかどうかすら見当がつかなかった。
軽い息を吐きながら痛みの元を見やると、左脇腹の下あたり等間隔に肌を走る糸が見えた。既にどこからが切り口なのか、その判別がつきがたいほどに傷口が消え始めている。
「なんだよ、これ」
薄気味悪さに思わず呟く。あの時刺さった刃はその身を3分の1以上を腹に食い込ませていたはずだ。それがこんなにもあっさりと治っていくものなんだろうか。
……いや、今の体にはそれが当たり前なのかもしれない。
慣れた、というより驚き疲れたのだろうか。自身に起こっている異常を事実として受け止めても、心がそこまで波風を立てる事は無く、ただ淡々と検査衣の紐を元に戻した。
それより、もう事は全て片付いた後だろうか。俺がこうして運ばれているという事は、状況自体は落ち着いたのだろうけど……っていうか、俺帰っていいのかな。
もしあの時計が正しいなら、あと3時間以内に身支度を済ませて会社に行かなければならない。休もうかとも考えたが体に痛みも不調も特に覚えていない今、ここ最近あまりに有給使い過ぎている事実の方が重く伸し掛かっていた。
「目が覚めたか」
などと、微妙に場にそぐわない気を揉んでいる内に、その答えを持つ人物が扉を開けながらこちらに声を掛けてきた。
「院長」
「まだあれから4時間と経っていない。もう少し横になっていたらどうだ?ちなみに、三吾君ならもう帰ったぞ」
……チャンスを逃したか。訊ねずとも次々と疑問を解消してくれる。久々に彼お得意の技を見た。
「気持ち悪いくらいに快調ですね。無理な姿勢取らなければ痛みもないし」
言いながら上半身を軽く捻って見せた後、ベッドに座り直し彼の方を向く。
「そうか。だが気を付けたまえ。前にも言ったと思うが代謝の促進は――」
「わかっていますよ。でもあの時、飛び込まなきゃ三吾さん、やられていましたから。多分」
手をひらひらと振って説教を遮る俺に、院長はもう一度そうか。と頷き、それ以上の追及はしてこなかった。
「快調、といえば……腹の空き具合も収まっているんですけど、寝てる間に?」
「ああ、粉砕したものを投与させてもらった。治癒力の向上の為な」
話しているうちにふと湧いた疑問はすぐさま氷解し、同時に死体をその場で切り取って食べるという行為をスキップできたことに僅かな安堵を感じる。
――いつかは、やらなきゃいけないんだろうけど。
「……今日はどうする?足も含め行動に支障が無い程度には治癒しているはずだが、主治医としては大事を取って休むことを勧めたいが」
沈んだ気持ちが顔に出ていたか、院長が話題を変える。
怪我と言うよりは抜けきっていない疲労があるので休みたいのは山々だが、無駄に社長に借りを作ると、今後何を対価に求められるか分からない。
「なら、午前中はこちらに直行したことにして、会社には午後から行けばいい。どちらにしろこの時間だと家に戻るのも一苦労だろう」
その申し出は素直に受ける事にする。これならば名目上は半休どころか遅刻にもならない。社長に恩義を感じる必要もないだろう。
「ありがとうございます」
「なに、個人的な礼も兼ねている」
「礼……?俺、何かしましたっけ」
首を傾げる俺に、院長は頷く。
「まず、予定外の事があったとはいえ、貴重なサンプルが手に入った。頭部が破壊されきっていないステージⅢの遺体だ」
「え?」
防止薬の研究を進めていると語っているのだから、それくらいのものは既に手に入れていると思っていた。が、三吾の持つ獲物の特性、そして彼女の戦術を思い出すと疑問は氷解する。
とどめの一撃は頭に、彼女はそう言っていた。
「今までも摘出自体は行ってはいたのだが、損傷が著しく
そこからしばらく専門用語をふんだんに交えた説明が続いたが残念ながら理解するには俺の知能はいささか不足している。ただ、あのアクシデントが思わずプラスに働いたことだけは理解できた。
「まぁ、それは俺の為にもなるし……」
言いかけて背中を丸める。落ち着いた頭が再び、胃の奥に重石を抱えるような感覚を思い出していた。
「やっぱり、殺してしまったんですね。俺が」
その正体は時間差で襲ってきた、罪の意識。
他人に口から言われて初めて突き付けられた、とうとう自分の意思で人を手に掛けてしまったという事実。
掠れる声で言質を取ろうとする俺に、院長は首を振った。
「いや、違う。確かに君の一撃は対象の内臓をいくつも破壊したが、処理隊が到着した時点で息はまだあった」
その説明を意味の無い慰めにしか受け取れず、淀んだ目で自分を見返す俺に向かって、院長は続ける。
「ステージⅢの遺体が手に入った、と言ったろう?つまり、君たちが下水を去ってから処理隊が到着するまでにステージの移行が行われ、奴は一度死の淵から蘇った。いわば君の蹴りはそのきっかけに過ぎなかったという事さ」
「詭弁ですよ」
「だが、事実さ」
どのみちその後直ぐに処理隊とやらが止めを刺したのだから、死に追いやったという点では変わらないだろう。そんな考えはすぐに頭に浮かんできたが、彼の気遣いを無駄にする気は毛頭ない。
――違う。それを口にして、改めて認める勇気がないだけだ。
布団の端を握り口を一文字に結ぶ俺に、院長は小さく息を吐いて話を改めた。
「もうひとつは、三吾君を助けてくれたことだ。君の決死の行動が無ければ、彼女は恐らく――」
なおも礼を重ねようとする院長の態度に、俺は少しの違和を覚えた。普段鉄面皮を地でいく人物にしては――言ってはなんだが――一部下の窮地を救っただけの事に対しての返礼にしては随分と大仰に思う。
そう、『ただの部下』ならば。
「……なら、言葉よりも実利で示してほしいですね」
顔を少し上げて、勿体つけたような口調で切り出す俺を見て、院長が僅かに眉を
「なんだ。礼が欲しいのか?君はそういう類の人間ではないと思っていたが」
「ええ。と言ってもモノじゃないです」
その返答だけで院長の顔が更に曇った。俺が欲しているものの類を瞬時に類推したようだ。
「情報か?君の記憶に関するものは――」
「いえ、俺のものじゃありませんよ。院長と三吾さんの関係についてです。それなら俺は関係ない、でしょ?」
余裕に見せた表情を
それに、どう返ってきてもマイナスにはならないという確信があった。
素直に手掛かりが掴めればそれで良し。たとえ全く
そして、言葉を濁すようならば、そこにはまたひとつ核心に近づくための大きなピースが隠されていることの証明になる。
「万一嘘吐かれたら、もう彼女を庇う気もなくなるかなぁ」
あえて声の先を彼に向けずに言葉を投げる。
「……考えた物だな」
やはり、諦めの声が返ってきた。
してやったり。解答がはぐらかす必要があるものだとしても、一個人に過ぎない俺が裏を取る力などたかが知れている。
しかしそれでも、彼は万一にも露見するリスクを取るより、あくまで沈黙を貫くと踏んだ判断は正しかったようだ。
そして同時に、おぼろげながらも彼が三吾にただならぬ思いを抱いている片鱗が見えていたからこそ、この脅迫は意味を成し、そして実を結んだ。
「しかし、あまり君の期待するような内容ではないぞ。彼女は単に私の教え子だ」
「教え子」
「とはいえ学校で教卓を挟んだ間柄、と言うわけではないがね。親族柄という事で院内を見せて回ったり、この道に進むための勉強を見てやったりと、そんな具合だよ」
言いながら机に座った院長が、カップを片手に分厚い紙束をめくり始める。こちらがこれ以上せっつかない限り、話は終わりだ、という事だろうか。
「それだけで、あれほど親身に心配するものですかね」
「君は家族との関係が希薄なのかね?」
院長の瞳がこちらを射抜いた。一拍の間もおかず切り返され、咄嗟に和也の顔を思い浮かべた俺の口が塞がる。
「私と出会ってから今までに過ぎた時間は彼女の半生よりも長い。たとえ血が繋がっていなくともそれだけ共に過ごせば、情が湧いてもおかしくは無かろう」
「そりゃ、そうですけど」
どこかに引っ掛かりを感じたまま押し黙る俺と、再び書類に目を落とした院長の間に、鐘を模した電子音が流れた。
「6時か。君はもう少し眠るといい」
言いながら院長は机の脇にある籠に羽織っていた白衣を放り込み、背面のクロゼットから真新しい一着を取り出して袖を通し、肩へと手を当て首を左右に往復させた。
「院長は?」
「これから総回診の準備だよ」
要するに、寝ずに仕事に赴くということか。
「昨日から寝ていないんじゃないですか?」
「多少仮眠はとったがね。もう一人私がいればと思わんこともない」
相変わらずぎこちないジョークを最後に、彼は部屋を後にする。
改めて部屋にひとり残されると、耳鳴りが起こるほどの静寂が俺を包み込んだ。こうなると却って眠気が遠ざかっていく気すらしてくる。
「どうしたもんか……」
手慰みにもう一口コップの水を飲んでしまったのが決定打となってしまい、少なくとも横になる気は完全に失せてしまっていた。
「うーん」
とりあえずは、とベッドに座り込もうとする俺の頭に、あの看護婦の声が蘇る。
(院長室と、その反対側の資料室の隣に、謎の空間が――)
あの甘ったるい口調まで脳内で再生されると同時に、エレベーターの動く低いモーター音が聞こえた。院長が下の階へと向かったのだろう。
……いいタイミング、ということか。
まだ夜明けにすら達していない上、ここは看護師が見回りに来る必要があるフロアではないが、念のため音を立てずに立ち上がり、慎重にドアノブをひねって廊下を覗き込む。
クリア。
心の中で呟き、エレベーターホールの反対側に向かって歩き出す。スリッパをはかずに出てきたことが幸いし、裸足で踏むリノリウムの床は全く足音を立てなかった。
(ここか)
『資料室』と書かれたドアの前に立ち、まずは周囲を探ってみる。しかしいくら目を凝らしてみても、壁面に指を這わせてみても、見た目通り切れ目ひとつ見当たらない。
ただ、壁に触れる指先が、ほんのわずかな振動を伝えてきた。そこに耳を当ててみるとこれまた微細な、聴覚に全神経を集中させてやっと捉えられるほど小さな低い音が切れ間なく聞こえてくる。
――やはり、この先はただの資料室じゃあ、ない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます