64「崩れる虚栄、震える鏡影」
「安心したまえ。臓器は外れている。刺された、というショックで意識を失っただけだ。左足の処置を合わせても、入院の必要はないだろう」
「そう、ですか」
担ぎ込まれた彼の応急処置を済ませた院長が手袋を外しながら、髪を濡らしたままソファに座りこむ私に声を掛けてきた。シャワーと着替えを終え、体からは下水臭さがすっかり消えていた。
「それより、石井君が思い出した節があるというのは――」
「……はい。私の事を『美恵先輩』と」
「あの積極性は、手掛かりを掴んだ故の事だったか。君に地下を走らせたのも、私の妨害を恐れてということだな」
得心する彼をよそに、私は心の中で自らの失敗を恥じる。感情が昂ったとはいえあんなことを口走るなど、自ら進んで大きなヒントを差し出したようなものだ。
記憶の回復は出来うる限り慎重に行えと言われていたのに、万一私の行いで彼の記憶に混線が生じてしまえば――
「あまり気に病むことはない」
自身の失言までは報告していなかったはずだが、私の表情を見た院長がタオルを差し出しながら柔らかな表情を浮かべる。
「彼が着実に答えに近づいているのは歓迎すべきことだ。それに、手筈通りとはいかなかったが頭部を破壊しないままの検体が手に入ったことも大きい。今まではリスクを抑えるあまり出来なかった事だからな。これで、脳への影響を詳細に調べる事も出来るだろう」
「しかし、私が取り乱さなければ……」
「無為に自責を抱え込む事もあるまい」
彼は人の失敗を執拗に責めるような男ではない。頭では重々承知しつつも、苦々しい気持ちを噛み締める。
「どれだけ入念に準備を重ねていても、不測の事態は起こるものだ」
――でも、もし彼女だったら、きっとあの窮地も額に汗ひとつ浮かべることなく切り抜けられていただろうに。
向けられた慰めの文句すら、今の頭ではそんなねじくれた捉え方しかできない。
ふいに目尻が生ぬるくなって、慌ててソファのひじ掛けから床へと目を落とし、浮かぶ涙を院長の視線から隠す。
互いに続ける言葉を探しあぐねる沈黙がしばらく続き、それでも一向に回らない頭がどうにか捻り出したのは、あの男に放ったものと同じ言葉でしかなかった。
「……姿形だけ似せたところで、完璧にはなれませんよ」
美恵のように。
そう続けた筈の声は枯れ切って、誰に届く事も無かった。
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