63『剥がれ落ちた仮面』
――まずい。
なりふり構っている余裕はなかった。舌を打つ同時に灯りを前方に向けて駆け出して分岐をひとつ跨いだ先、暗闇に慣れ始めた目が地面に投げ出された懐中電灯の先に二つの影を捉えた。
壁にもたれ倒れ込むものと、その上に跨り尖った何かを突き付けているもの。
心中で毒づき、更に加速しながら手に持った灯りをそちらに向ける。照らし出された男は一瞬驚いた様子を見せたものの、すぐさま三吾に向き直りナイフを握る手を迷いなく振り上げた。
新手の登場に判断を迷ってくれれば……と思っていたが、そう都合よくも行かなかったようだ。加勢に加わる前に頭数を減らすつもりか。
そして切っ先を突き付けられている当の三吾は動く様子が微塵も無い。壁に叩き付けられたときに意識を失ったのかもしれない。
つまるところは、大ピンチ。
(間に合え!)
ただそれだけを念じて、踏み出す後ろ脚に力を込めると、さっきまでのそれとは明らかに異なるずどん、という足音だけを地面に残し、体が前方へと跳んだ。
いや、飛んだ。
「えっ」
「えっ」
呆けた声が同時にふたつ上がる。ひとつは予想だにしなかった速度で前方に突っ込んだ自分に対する俺の、もうひとつは明らかに間に合わないと踏んでいた距離からそれが割り込んで来た男のものだった。
男の腰元あたりにフライングヘッドバットを叩き込むような形で、そのまま一緒にもんどり打って倒れる。同時に脇腹のあたりに鋭い痛みが走ったが気に留めている場合じゃない。
歯を食いしばって立ち上がり、水月に蹴りを差し込んだ。詰まったような男の悲鳴と共にその爪先が伝えてきたのは、骨が砕ける手応え、そして水の詰まった厚いゴム風船が破裂するような感触……手加減するつもりは無かったから骨の1本2本は、と覚悟はしていたけど――今のは、なんだ?
訝しみながら男に光を当てるが、三吾同様動く様子はない。
「……っはぁ」
オチたか。
火急の状況がひとまず終わりを告げたことを悟り、瞬時に荒く上がった息と吹き出る汗を袖口で拭う。
改めて三吾の方に明かりを向けたがやはり反応を返さず頭はがくりと垂れたまま。しかし、近寄ってみると僅かに呼気が聞こえてきた。
(気を失っているだけ……目立った外傷は無し、か)
背中を強く打っただけで済んだらしい。安堵し彼女を揺り起こそう屈み込むと、動いた懐中電灯の光が彼女の傍らにある何かに当たり、閃光がちらりと目に返って来る……なんぞ?
そちらに目を向けると、髪の毛程細い金属の鎖が落ちていた。捉えた光はその鎖を通す銀の輪から返ってきたもののようだ。
(指輪?)
鎖をどこかに落とさない様に拾い上げる。中心に収まる穴を俺の指と見比べるが、到底収まりそうもない。当たり前か、女の子が身に付けているんだ。そりゃ男の指に合わせてある筈もないだろう。
改めて良く眺めてみる。よく磨き込まれてくすみ一つないその輝きから、元々ここに落ちていたものではないことはすぐにわかった。
(チェーン通してアクセにしてたのか)
大方男と揉み合って壁に叩き付けられた際に、フックが壊れて首から外れた、ってところだろう。
果たしてこれはどちらの趣味だろう。改めて顔までリングを持ち上げ、細部を見る為に目を細めた俺の後ろから、濁った嗚咽が聞こえてきた。
慌てて指輪をポケットに突っ込んで振り向くと、男が口から胃液交じりの鮮血が撒き散らしている。駆け出した時のまま、力の枷が外れっぱなしで蹴ってしまったようだ。そのまましばらく痙攣を繰り返し、やがて動かなくなる。
――死んだ、かも、しれない。
そんな実感と悪臭に混じった酸の臭いが俺を苛む。奥歯を噛み締めて耐えながら、予後の事を考えに掛かった。
外まで運び出すか。いや、力の抜け切った大の男を担いでこの道を戻るとなれば、相当な時間が掛かる。深夜とはいえ外で誰かに見られる危険性も無視は出来ないし、なにより三吾を置いていくわけにもいかないだろう。
先ずは院長に報告することが優先か。回収は前のように人を手配してもらえばいい。
(どちらにしろ、一度この場を離れる必要がある、か)
ポケットから捕縛用のタイラップを取り出し、体に触れないように――脈を測らないように――足首を縛る。落ち着きを取り戻し始めた意識と比例して、脇腹の痛みと熱がだんだんと増してきていた。
(傷、結構深いのかも……怖くて見る気になれないけど)
最悪俺も倒れるかも知れない。そうなる前に三吾を起こさなければ。
「しっかり、してください」
声を出す為に肺を膨らませるだけでも痛みが伴った。苦悶に顔をしかめて耐えながら、三吾を揺り起こす。
「ん……奴は……」
「動きは封じて、あります。とにかく一度、出ましょう……痛ててて」
まるで緊張感のない声と共に、三吾の瞼がゆっくりと開かれ――。
「それ……!」
その眼が俺の脇腹を見た途端、一気に見開かれた。どうやら相当に痛々しい様相を呈しているらしい。
「まったく……感謝して、くださいよ?これがアンタに、刺さるところだったんだから……」
肩を貸しながら軽口を飛ばすが、彼女はそんな俺に掛ける言葉すら見失っているようだった。泳ぐ目に相当の動揺が見て取れる。
(……なら、もうちょっと頑張れ、俺)
予想外にも程がある形だが、目論見は成功といって差し支えない。秒刻みで度合いを増していく痛みに一刻も早く手当を受けたいのは山々だが、この機を逃す訳にはいかなかった。
俺は和也の言葉を思い出し、未だ当惑する様子の彼女に薄い笑いを向ける。
「ねぇ、美恵先輩」
俺が当時『彼女』を呼んでいた時の言い方に、立ち上がろうとする彼女の動きが止まった。
混乱の中でも反応し、だが訝しむでも、首を傾げる訳でもない。そのリアクションは明らかに何らかの心当たりがある事を物語っている。疑念が確信へと変わった瞬間だった。
やはり彼女は入社前から俺を知っていた上で、今日までずっと昔の俺を知らない自分を演じていたのだ。
「やっぱり、アンタは――」
しかし、更なる言質を求める俺の声は、一瞬にして憎悪が満ちた三吾の眼光に遮られた。
「その呼び方で私を呼ぶな!」
「え……」
その言葉の意味も解らないまま、俺は三吾に突き飛ばされた。たたらを踏んだ左足が体を支えきれず、無様に倒れ込む。倒れ込む角度が悪かったのか、脇腹に更なる激痛が走った。
「どうせ、私は美恵みたいに完全じゃないわよ!」
「それ、って――!」
思わず痛みの元へと目を向けると、血をべったりとつけたナイフがその刀身を半分ほど、殆ど垂直に脇腹へと沈ませ、投げ出された灯りに照らされてぬめった光を反射していた。
「うっ……わ」
早まる心臓の鼓動に合わせて噴き出る血が、どんどん地面へと流れ落ちて彩りを失っていく。まざまざと見せつけられた光景の衝撃が、俺の意識を急速に濁らせていった。
それでも、と必死に動かした目線が最後に捉えたものは、走り去る三吾の影と、その頬から地面に落ちる数滴の水、それだけだった《ルビを入力…》。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます