56『一悶一答』

 苦痛から逃げたい一心からか、いつの間にか眠りに落ちていたようだ。運転手に体を揺すられ身を起こすと、大粒の雨がウィンドウにぶつかって弾けているのが見えた。


「ありがとう、ございました……」


 なるべく人を、肌を見ない様に俯きながら、運賃を払い終えて外に出る。まるで雨が四方八方から自分に刺さっているのかと錯覚するほどに、もはや平衡感覚も怪しくなっていた。

 ふらつく足取りでどうにか家のドアをくぐり、そこで完全緊張の切れた体が玄関マットの上に倒れ込んだ。

 空腹で腹が鳴るが、あんな事があった後ではもはや苦しさ云々の問題ではなく、そこに何かを入れようとする意欲自体が湧いてこない。

 倒れたまましばらく深呼吸を繰り返し、僅かに落ち着きを取り戻した体を引きずって、なお勢いを増していく夕立の音が支配する薄暗いリビングのソファに座り込む。気を紛らわす何かを思い浮かべる事すらできない今、絶え間ない雨音が救いになっていた。必死に耳を傾けていると、少しだけ苦痛が紛れる気がする。

 そうしてただじっと、傍から見れば呆けたように動かないまま空腹に耐えていた。


「ん……」


 次に意識を引き戻したのは、真っ暗な部屋の中でけたたましくなる端末の着信音を耳にした時だった。ソファに接していた頬に突っ張った感覚を覚える。どうやらいつの間にか寝てしまっていたようだ。

 ――電話。誰からだろ。

 そういえば、和也にメール返してないな。

 まぁ、電波越しなら噛みつく事もないだろう。うすぼんやりとした頭で受話のボタンを押して耳に当てる。


「食べなかったようだね」


 聞こえてきたのは、藤沢院長の声だった。無言の対応を返す俺に構わず、彼の声は続く。


「三吾君から報告があった。それ自体は想定していた事態だが、今しがた届いたバイタルデータで脳波に乱れが見られたので気になってね。……まさか今更、普通の病院で診察を受けて何とかなると踏んでいたわけでもあるまい」

「……GPSまで搭載ですか。地元の病院に行っていただけです。母が倒れたんで」

「それは大変だったな。ご自愛を勧めるといい」


 こちらの皮肉と推論に肯定も否定も返すことなく、医者としての社交辞令を返す院長に苛立ちを覚える。


「話、それだけですか。正直話すのも億劫なんですけど」

「進行を見るためとはいえ酷な事をした。その点を謝罪したい」

「は……?」


 返してくる言葉の意図が見えず間抜けな声を出す俺に、院長は少しだけ声のペースを落として続ける。


「私は無理やりにでも食わせろ、と言ったんだがね……あの場面をまともに見せられて、それでもなおあの場で口に運ぶかどうか。その結果は君がどれだけ蘇生薬に侵されているかを測るバロメーターになる、と押し切られてしまってな」


 どうやら俺は知らない間に試されていたらしい。その結果を仕掛け人がどう受け取ったかは知らないが腹の立つ話だった。


「ちなみに、発案したのは三吾君だ」


 思わず鳴らした鼻に込められた不快を感じ取ったのか、院長は珍しく逃げの一手を打つ。

 ……というか、やっぱりか。こないだの強制咀嚼――という名の顎への掌底――といい、あいつ嗜虐嗜好でもあるんじゃないのか?


「……彼女がどう思っているのかは知らんが、私としては君にこのまま狂ってしまっては困る。今迎えを寄越しているから、こちらに来たまえ」


 その言葉の意味するところは、病院に行けば肉がある、ということだ。その申し出を訊いた途端、俺の心は一瞬だが間違いなく安堵と期待に満ちた。だが、


「食えるわけないじゃないですか――」

「嫌だと言っても食べて貰うぞ」


 俺の言葉を遮って言い放つ院長。恐らく否定を重ねたところで間もなくやってくる迎えによって、踏ん縛られてでも彼のもとへと連れて行かれるだろう。語気の強さがそう物語っていた。

 抗弁を立てた所で埒が明かない、か。心に一つのあきらめをつけて、深く息を吐く。


「院長は、俺が死ぬことについては避けたいみたいですね」


 話が結論へと着地したからか、体は再び苦痛を思い出す。どうにか紛らわせるために話題を変えた。

 とはいえ文字通り苦し紛れのトークテーマではない。院長の態度からずっと引っ掛かっていたことのひとつだ。まぁ、おおかた研究の中断を厭ってのことだろうが――。


「当然だ、これでも一応医療の道を歩むものだぞ」


 ……そういうのいらねーって。

 ふんと鼻息を一つ返しておく。それが本心かどうかは今は大した問題ではない。


「まぁ、情報の倉庫ですからね、俺の体と記憶は。でも、三吾さんはそうじゃない」


 返す刀で推量をぶつけた途端、電話の向こうからでも、院長の纏う空気が変わったのが伝わってきた。


「彼女もこの研究に与しているのに、どこかで俺が死んでもいい、みたいな感じが伝わってくるんですよね」


 院長は沈黙を守っている。言外に続きを促しているのだろう。痛みすら伴ってきた空腹に力を籠め、頭で言葉を紡いでいく。


「丁度今みたいに、放任に見えて最後の防波堤ラインを譲らないあなたとは真逆なんですよ。ある程度は手助けして、でも後はどうなってもいい。俺が死んだら少なからず支障が出るのは彼女も一緒なのに……それはなぜです?」


 しかしなおも院長は口を開かない。この時点で遠回しに答えを引き出そうとするのはあきらめ、一気に切り込んだ。


「その態度も、初めて出会ってからずっと俺を嫌っていたのも、原因は『それより前に』あるんじゃないですか?」


 ここは推論でも当てずっぽうでもない。三吾の俺に対する行動の不明瞭なところを洗い出して行けば、当然の如く浮かび上がってくる仮説だ。


「……私は事前に言った筈だ。君の記憶に関する助言は出来ない、と」

「でも、否定もしないんですね」


 十分な回答を得たところで、玄関からインターホンが聞こえてくる。


「今から向かいます」


 ふらつく足取りで玄関まで向かいながら、俺は返答を待たずに電話を切った。

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