55『近づく手掛かりと悪夢の予感』
(まずいな。眩暈が酷くなってきた)
病室では無意識に緊張していたからかそう気にもならなかったのだが、一歩外に出た途端体調の悪さがぶり返してきた。
というよりも、朝より酷くなってないかコレ。
「あれぇ、もうお帰りですかぁ?」
千鳥足でロビーまで歩いていくと、突然目の前にひょいと顔を出した先の看護師が、またものんきな声を掛けてきた。
「ええ。仕事で呼び出しがあって」
言いながら思い出す。
そういえば、まだ端末を確認してはいないな。
「やっぱりー、BE=SANGOくらい大手のMSさんは大変なんですねぇ。顔色もよくないしー……」
「え、えぇ、まぁ」
彼女はあの時、母さんに遮られた俺の言葉をしっかり理解していたようだ。何故か一瞬、猛禽類が獲物を狙うような光を宿した瞳に若干気圧されていると、彼女は何かを思い出したように顎に指を当てた。
……仮にも医療職ならば、調子の悪そうな人間を引き止めないでほしいものだが。
「そういえばぁ、藤沢総合病院さんって、お宅の社長さんの親戚ですよねぇ?」
「そう、ですけど」
俺が肯定の返事をした途端、彼女は一歩詰め寄って僅かに声を潜めた。
「あの噂って本当なんですかぁ?」
「あの噂?」
肩先が触れ合うほどの距離まで寄られ、鼻先ではまだ記憶に新しい甘い香りを感じ取る。若干たじろいでいる俺に看護師はさらに続けた。
「MSさんも訊いたことないですか?3階の隠し部屋の噂……」
3階……?
そういえば。
前に藤沢総合病院の看護師が立ち話でそんな話を聞いたような気がする……が、その時は特段興味を惹かれた訳もないので詳しくは知らない。社交辞令で先を訊く俺に、看護師は少し得意げな様子を見せる……噂好きなんだろうな。
「あそこの中央病棟、最上階だけ窓が少ないの知ってますぅ?」
中央病棟の最上階、というと、俺がよく営業と治療で通される――最後に訪れた時は別の用事だったが――院長室がある場所だ。
(あぁ、治療に使う部屋は確かに窓がなかったな)
おおっぴらに診察できない輩を診る為にを使うのに、窓の外からその様子が伺えては意味がない。おそらく噂とは、その部屋の事を指すのだろう。
「え?そうなんですか?結構伺ってますけど気が付かなかったなぁ」
大仰なリアクションで空とぼけておく。意味もなくネタバレをして憂さを晴らすほど子供ではない。それが院長との交渉に使えれば別だが。
「ええ。なんでも廊下の長さと部屋の広さがどっちも合っていないらしいんですよぉ」
「へー、一体何が……」
引き続き調子を合わせようとして、看護師の言葉に引っかかるもの感じた。
「……どっちも?」
「はいー。エレベーターに近い資料室の前とぉ、院長室の奥ですねぇ。何かあるのかと思って壁をコンコンしてみたけどぉ、鉄筋だからわからなかったです」
院長室の奥は解る。そこが噂の正体、俺の記憶治療に使われていた院長専用の秘密診察室だ。だが、資料室の前というのはなんなのだろう。
「……それで?」
とりあえず続きを促すが、それまで得意げに語っていた彼女の顔が一転して曇る。
「うーん、それでと言われると困るんですけどぉ……」
(まぁそらそうか)
尻切れトンボな答えが返ってきたが、別段落胆はしなかった。噂なんてそんなものだろう。全てが明らかになってしまってなら、噂は噂たり得ないのだから。
「あ、でもぉ」
俺の顔から不満でも読み取ったのか、慌てて彼女は声を大きくする。
「資料室の隣の壁の中から、時々機械の駆動音みたいなのが聞こえるそうですよぉ?夜勤の人たちが何人か耳にしたって怖がってたし」
「機械の音、ねぇ」
院長室の隣に部屋があることを知っている俺は、すでにそれが真実かどうかではなく、一体何の音なのかを考え始めていた。
間違いなく何かがある。
それも院長が――あるいは、三吾親子にとっても――人目に触れさせたくない何かが。
「今度訊いてみるか……」
完全に独り言のつもりで呟いた小声に、彼女は耳ざとく反応して目を輝かせた。
「そしたらぁ、教えてくださいね、これ私の――」
「ここは病院ですよ!看護師ともあろうものが何してるの!」
素早く端末を懐からだしてアドレスを送信しようとする彼女の後ろから、先輩らしき看護師の怒声が飛んできた。指摘はごもっともだが、その声量もどうかと思うが……。
ともあれ、引き摺られながらも名残惜しそうに俺に手を振る彼女を苦笑で見送って、俺は病院を後にした。
※ ※ ※
昼を過ぎた大通りは鉛色の雲の元、絶えず行き交う車のエンジン音と人の往来で賑わっている。これなら駅前のタクシー乗り場まで行かなくとも、しばらく待っていれば空車が通るだろう。そう思い立って取り出した端末をしまおうとした矢先、通知ランプの青い点滅が目に留まった。
そういえば病室でコイツを帰る言い訳に使おうとしたら、本当に着信があったんだっけ。手を止めて画面を2度タップする。
光の色から察するにメールのようだ。差出人は……和也?
あいつ出てすぐに俺にメールしたのか。
『SUBJECT:無題
バス逃すところだったー!
途中で帰っちゃってごめん。母さんの具合はどう?
それと、俺に何か言いかけてなかった??』
いちいち文章の末尾に絵文字を入れてくるあたりは、本当に俺の弟なのかと疑いたくなるようなマメさ、というか女々しさと言うか。
『SUBJECT:Re:無題
体調も元に戻ったっぽいから、俺ももう帰るところだよ。
用事の方はメールじゃ長くなるから、近いうちに飯でも行かないか?』
対照的に必要最低限の文章量を打ち込んで送信する。無事に相手が受信した通知を確認して、改めてタクシーを探そうと端末から首を上げた拍子に、再び酷い眩暈に襲われた。
ぐらりとたたらを踏む俺を、通り過ぎる人たちが不思議そうな目で見てくる……正確には突き刺さるいくつもの視線を感じた。というのもコンクリートの壁に手をついてから揺らぐ視界がはっきりとした輪郭を取り戻すまで、俺は地面から目線を上げることが出来なかったからだ。
……朝より確実に酷くなっている。さらに言えば、頭がグラつく間隔も短くなってきたように思える。
ひとまずはさっさと家に帰らなければ。確実に車を捕まえるならば駅前まで歩けばいいのだが、真っ直ぐ立てないほどの体調でその距離を歩くけるのか――算段を付ける前に想像するだけで気が遠くなった。無理。
壁にもたれる姿勢になってどうにか不自然じゃない恰好を演出しつつ、タクシーを呼ぶために端末を耳に当てようとして、手から滑り落ちて地面に軽い音を立てた。
「あ」
俺が反応するよりも早く、目の前を歩いていた女の子が端末を拾い上げていた。
「はい、落ちましたよ」
「ああ、どうも――」
にこやかな笑みと共に差し出された端末を受け取とろうとして、その延びる腕に目が留まる。うっすらと走る静脈を隠す、僅かに焼けた肌の色。濃いピンク色をしたワンピースの袖口から覗く、滑らかな手触りと柔らかさを容易にイメージさせる二の腕。
「ああ、うまそ――」
そこまで漏らして慌てて手で口を塞いだ。
「……どうしました?」
彼女は顔に僅かな疑問符を浮かべながら、それでも笑みを崩さない。どうやら言葉の意味までは聞き取れなかったようだ。
「いえ、あ、ありがとうございました」
いいえ、と笑って去っていく彼女の後姿を見ながら、俺は背筋にじわりと汗がにじむ感覚を噛み締めていた。
今、俺、なんて言った?
綺麗、とか可愛い、とかエロい、とかじゃなくて、うまそう?
それって、人に向ける修飾じゃないよな?
他でもない自分の思考に無数の指摘を入れ、その間違いの原因に気付いて体が
まさか、症状の進行が始まっているのか。
(こんな短期間で……?)
院長はある程度の期間の後に、と言っていた。しかしそれには個人差があるとも、怪我の度合いによって早まるとも言われた。可能性はゼロじゃない。
これ以上人の波を目に入れることが怖くなり、ちょうど目の前を横切ったタクシーを止めて逃げるように車内に乗り込んだ。運転手が行き先を尋ねる前に手早く住所を伝え、そのまま俯く。そんな俺を見て運転湯は一度、怪訝そうに鼻を鳴らしたが、やがて車はウインカーを出してのろのろと動き出した。
「くっそ……」
小さく毒づきながら、目の前の人間から意識を遠ざけたい一心で端末を開く。まるで頭に入り込んでこないニュースの文字をひたすら目で追っていると、再び端末が震えた。
『SUBJECT:丁度授業終わったよ~
そっか!よかった~。
……それじゃあ、今日の夜とかは?休みって言ってたよね?
でも、兄ちゃんも調子悪そうだったから、無理しなくてもいいけど……』
ここで和也に了承の返事をすれば、今夜にでも決定的な手掛かりがつかめるだろう。しかし、俺は今の思考回路のまま誰かと逢う気にはなれなかった。
もし、万一和也の前であの考えが行動に出てしまったのなら。
そこまで考え至る脳が、弟の肉を口いっぱいに頬張っている自分を勝手に描き出し、俺は小さく嗚咽を漏らす。
今は、誰とも逢うわけにはいかない。だが、ここで訊く機会を逃せばゴールはまた遠ざかる。かといって、今すぐ体調を万全に戻す手段などない。
結局、断るか先延ばしにするか、体のいい文句を考えあぐねているうちに、俺の意識はいつの間にか落ちていっていた。
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