54『気付けばとうにその手から』
(母さん、何か知っているのか……?)
だがそれを聞き出すとなれば、自分が事故で記憶を失っていたことを白状しなければいけない。
「え?なんで知ってるの?」
明言を避け、とりあえず情報の出所を聞き出す。連絡にはずっと無視を決め込み続けていたのだから、母さんは誰かから彼女がいるという事を聞いたはずだ。となると恐らく――
「随分前だったかしらね。和也が言っていたのよ。あんたが随分綺麗な女の子と歩いてた、って」
やはり、か。あいつなら割と遠慮なく聞けるし、なにより同行者の面を知っている事になる。
思いがけないトラブルは思いがけない収穫も運んできた。予想外の形とは言えここに来るまで募った焦燥と心配は充分にペイできる。久々に一歩前に進んだ感覚を覚え、心の中でぐっと拳を握っていた。
「なににやけてるのよ」
「いや、まぁ、うまくやってるよ。うん」
本当に?と問い詰めてくる母さんだったが、またもタイミングよく病室のドアが開く。和也が両手に缶入りのお茶を持って戻って来た。
「今、ナースさんとすれ違ったけど」
「ああ。お前の代わりにしっかり説明聞いといたよ。お前、笑われてたけど」
「仕方ないじゃん……テンパってたんだから」
母に茶を渡しながら口を尖らせる和也に、かいつまんで当面の心配はないという事に重点を置いて説明すると、心の底から安堵の息を漏らいた。緩みきったその顔を見ながら、どこで奴から話を聞き出すか頭の中で算段を立て始める。
――とりあえず、一緒にここを出て飯がてら切り出すか。流石に母の目があるここで訊ねては気を揉んだ意味がない。
「さて、ごめんけど、俺そろそろ行かなきゃ」
……へっ?
母に謝りながらバッグを肩に掛ける和也。普段の性格からは考えられないほどドライなその対応に、俺は慌てて腰を浮かせる。
「お、おい、もう行っちゃうのか?」
踏んでいた予想をあっさり裏切られ、思わず狼狽えた声が出るが、その間にも和也は腕時計に目を落としながら、端末で電車の時間を調べていた。
「うん、休むつもりだったけど、平気そうなら3限は出席しときたいからさ」
症状が一時的で軽微、という事だけは理解していたようだ。ここで無理に引き留めるにも、この急ぎようでは場所を変えることすら却下されるだろう。
「あんまり無理しちゃだめよ」
「母さんこそ。じゃね!」
「和也、後でメール送るわ!」
結局のところ俺は、止まる気配の一切ない和也の背中にどうにかそれだけ声を投げ、呆然と見送る事しか出来なかった。
「相変わらず、あの子は慌ただしいね……出来る子なんだからもっと落ち着いていればいいのに」
「そうだね……まぁ、あれも和也らしいところだけどさ」
本当はもっと激しく同意したかった。母さんの眼がなければ無理やりにでもさぼらせたかったくらいだ。
が、今更論じた所でどうしようもない。聞こえてきた嘆息に苦笑を重ねて返すに止める。
「そうなんだけどねぇ……あんたはいいの?」
訊いてきながら母は和也が置いて行ったお茶の缶を開けようと指を掛けるが、まだうまく力が入らない様子だった。
「言ったろ、今日休みだって。もう少しいるよ」
それを横からひょいと取り上げ、プルタブを開けてやりながら、いきなり2人とも帰ったらさびしいでしょ?と続けると、母は僅かな間だが、本当に嬉しそうに頷いた。
「まぁ、忙しいのは変わらないけどさ」
目線を外して手渡し、自分の分の缶を開けながら付け加える。そんなバレバレの照れ隠しにも、母さんはさらに目を細めるばかりだった。
「忙しいというのは、誰かに必要とされている証拠。でも、あまり無理しないでね」
それはどうかなぁ、と返しておく。俺の存在が後の医学を発展させるかもしれないが、多分母が言いたいのはそういう事ではないだろう。
「息子が先に死んだら、今度こそ私持たないわよ」
だからこそ、その一言が胸に刺さった。
家族への想いなど良くて人並み程度しか持ち合わせていないつもりでいたが。やはり死の危険を目の当たりにすると、強い忌避の念を抱くするように出来ているのだと痛感する。
(なんか近頃そんなことばっかり考えているな)
――もし、俺よりメンタルの細い和也が一気に二人も家族を喪えば。
暗いイメージに囚われ、長い間口をつぐんでいたようだ。不思議そうにこちらを覗き込む眼に慌てて次の言葉を出そうとするが、考えあぐねて結局茶で口を濡らす。母さんも一口飲み込んでから、しばらく俺の顔をじっと見て口を開いた。
「でもあんた、少し変わったわよね。前はそんな顔で考え込むことなんてしなかったのに」
「え?」
「いっつも適当にやり過ごして……なんていうのか、のべーっとしていたイメージしかないわ。あの人も、そういうところが好きになれなかったんじゃないかしら」
「えぇ……」
不意に向けられた低評価に、思わず半眼を返してしまう。のんべんだらりとしている自覚がないわけではないが、最低限やることはやっているつもりなのだが。
『だって、俺には関係ないし』
反論の口を開きかける俺に、常々口にしていた己の口癖が頭をよぎった。常にそうやって面倒事や厄介ごとは避けて通ってきた。毎日をいかに楽に過ごすか。そう考えながら暮らしていたことは否定できない。
――が、それが間違っていると思ったこともなかった。
仕事と仕事の合間に仕事を入れる、家族はおろか自分の為の時間も碌に取らない。そんな生き方をしている彼を好きにはなれず、また理解しようとする気にもなれなかった。
理解する気にならないということは、意見をぶつけ合う必要性すら感じないという事だ。
徒労は嫌いだと徹底的に衝突を避け、父親との摩擦を表面化させないままに反抗期を終えて自身の価値観を確立し終わった俺は、今日にいたるまで彼に対してある種の薄気味悪さを抱いたまま冷戦状態を保ち続けている。
翻って父親が俺を良く思わないのも至極当たり前の事だった。母も、その生き方を否定まではせずとも肯定していなかったからこそ、俺の側にはつかなかった。
「以前のあんたならすぐ逃げて悩むことすらしなかったじゃない?男児3日会わざれば、ってやつなのかしらね。案外、今ならお父さんとも普通に話せるんじゃない」
「それは……どうだろう」
呟く俺に、母さんは怪訝そうな顔を見せる。能動的に動くようになったと言えば聞こえはいいが、単に今の俺に降りかかる困難からは逃げることが出来ないから、考えて動くしかないというだけで、性根を入れ替えたわけではない。
……口が裂けても詳細な事は話せないから、濁った返事しか返せないのだが。
「でも、そろそろ来るんじゃない?お昼ごろに顔を出す、って言ってたし」
「げ」
慌てて端末を見ると、確かに時刻は昼前と言って差し支えない時間になっていた。そろそろここを離れないと、鉢合わせする羽目になる。
「……あんた帰る気?さっきはあんな母さん泣かせな事言っていたくせに」
「いや、でも、まだ心の準備が出来てないっていうか……」
うろたえる俺の懐で、端末が鳴り響く。
「ここ病院よ?私は病人」
「ごめんて、あぁ、もしかしたら会社からかも」
切り抜けるための嘘を咄嗟に
「……ま、いきなり渡り合えるほど変わっていても怖いしね」
やがて呆れたようにそう続けた。間違いなく嘘がバレてはいるのだろうが、それでも終ぞ俺を責める事はしなかった。
「ほら、これでご飯でも食べて帰んなさい」
その代わりに、脇に置いてあったバッグから2枚の万札を取り出してこちらに差し出してくる。
「悪いよこんなに」
――それに、多分食べられないし。
心の中で付け足しながらしばらく押し問答を繰り返すが、母は頑として引込めなかった。幾度めかのやり取りを経て、根負けする形で受け取る。
「この年になって小遣い貰うとか……」
「いくつになっても、子は子なの」
母さんはさも当然のように再び目を細める。その背中は昔より小さく見えたが、俺を見る眼差しは子供の頃とずっと変わらない。
「母さん、あの、さ」
「何?」
――助けてよ。
その視線に晒され、つい打ち明けそうになった自分の口を必死に制し、奥歯を噛みしめる。
俺の状況を話して、よしんば信じてくれたとしても、母さんに出来る事など何一つないだろう。
例え関係は変わらなくても、母親はいつまでも子の全能の神たりえない。そんな時期はとっくに終わっているのだ。
「――ごめん。なんでもない。もう行くわ」
今の俺に出来るのは、気取られて更なる心労を掛ける前に、笑顔を貼り付けたまま病室を後にすることだけだ。
「……今度は、家でゆっくりお茶でも飲みましょう」
「うん」
去り際の背中に掛かった声にぼそりと返事をして、俺は病室のドアを潜った。
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