57『「正しい自分」の終わるとき』

 途中、車内で一度ミルクの入った暖かな紅茶らしきものを振舞われ、その柔らかな口当たりとほのかな甘みが体の緊張をほぐしたのか、20分ほど走ったところでまたも意識が落ち、次に目が覚めると車は既に病院の裏門を通過していた。

 ジムのダミーとなっている建設現場の間を抜け、人目を避けるような木立の中に停まった車から降りると、地面から立ち上る埃の匂いが鼻をついた。宵の口にはあれだけ降りしきっていた雨も、今やすっかり勢いを弱めている。傘も差さないまま見た事もない通路をゆく男の後ろについていき、院長室へと通された。


「どーも」


 既にソファに付いている院長に半眼を向け、反応を待たず向かいに腰を下ろす。


「電話の声よりは随分と張りがあるな。もう少し衰弱していると思っていたが」

「ここに来るまで少し寝かせてもらったんで」


 正対したところで、強気な姿勢を崩す気はない。どのみち明確な答えは得られないだろうが、さっき得た手掛かりをより確実なものとする為に、質問の矢を次々とつがえていく頭の中には、もとより余計な畏怖など差し挟まる隙間もなかった。


(ついでに、あの壁の事も聴きだしてみるか――)

「ならば、すぐ食事に移っても大丈夫そうだな」


 しかし、そんな余計なことまで考えていた頭が、院長の一言で凍りつく。


「そ、それは……」

「言った筈だが?嫌だと言っても食べさせる、と」


 こっちの狼狽を見逃すほど甘い手合いではない。

 その一言で主導権を握ったと見るや、院長は立ち上がり椅子の後方にある冷蔵庫らしきは箱へと手を延ばした。

 思わず自分が入ってきたドアの方に目を向けてしまうが、椅子を立って数歩のその距離がとても遠く思える。立ち上がることも出来ないまま押し黙る俺に背を向けたまま、院長は淡々と続ける。


「なぜ気後れする必要がある?そもそも、君が用意している質問の数々も、ここで食べなければ意味のないものになるのだぞ?」


 全く引く気の無い院長から伝わる威圧感に当てられて、頭の中で三吾の『食事』風景がフラッシュバックした。

 口の端から血だか体液だかわからない何かを垂らしながら、それでも一心に咀嚼を続ける彼女の姿が鮮明に描き出され、思わず口元に手を当てる。


(俺があんなこと、を……?)

 どう考えても出来る気がしない。意識してあの肉を口に運ぶなんて。

 正常な人間ならば至極当たり前の思い。それを口にしようとした瞬間、院長がテーブルの上に乱雑に放り投げた何かが立てる、どさりという音に遮られる。

 それは、密封パックに包まれた肉だった。皮は丁寧に剥がされ、薄い桃色の塊になっているが、その形状から一目で人の上腕だと解る。にもかかわらず、気づけば俺の視線は釘づけにされ、口の中ではあふれ出る生唾を飲み込んでいた。

 昼間の女の子を見た時よりも即座に、そしてはっきりと頭の中に『うまそう』という味の予測が浮かんでいる。


「ぐ……っ」


 この部屋に窓はなく、外の音は完全に遮られている。余計な思考を塗り潰してくれていた雨の音が恋しい。食欲に蝕まれていく頭の片隅にどうにか残った理性で、ともすれば伸ばしそうになる腕を必死に抑える。そんな俺を薄く開いた瞳で見ながら、院長は軽いため息と共に「そんなに嫌かね?」と呆れたように訊いてきた。


「……あんたは食えって言われて即座に食えるのかよ」

「食わなければ死ぬとなれば、迷う事は無いと思うが」


 それが当然だと言わんばかりの口調と共にパックの封を開け手際よく肉を切り分けていく。


「それはアンタが差し迫ってないから……」


 なおも抗弁を立てる俺の逃げ道を塞ぐかのように、院長はまるで迷いなくそれを口に運んだ。


「こうなってしまえば、ただのたんぱく質の塊だろう」


 しばらく咀嚼して、ティッシュの上に吐き出す。


「臭みはあるがな」


 院長が嚥下までしなかったことは俺の逃げ道にはならない。平然とされてしまったのだ。


「だけど、だけど」


 もはや絞り出す声すら弱々しくなってしまった俺を見て、院長は再び息を吐く。


「この間までの聡明な君はどこに行ったのだ。そんなに、人としての道を外れることが怖いかね」

「当たり前だろ……!」


 俺がこの肉を自らの意識で一口でも口に入れようものならその瞬間、人として

 それはあの夜からずっと抱き続けてきた思いだった。院長がフォークを置き、再び沈黙が部屋を支配する。


「なるほど、ひとかけらも口にしたくない。と」


 水掛け論を一度棚に上げるようなその口調に、思わず顔を上げる。その一言に何か別の道があるのかと期待した。

 しかし。


「ところで石井君。車内で飲んだ紅茶は美味しかったかね?」

「え……」


 唐突な質問に間抜けな声が洩れた。その問いの真意を悟ったのはその一瞬後、喉から息の詰まった声を漏らしてすぐさま青ざめる俺を顔を見て、院長の口の端が僅かに吊り上がる。

 それは背筋がゾッとするほど、酷薄な笑みに映った。


「まさか」

 

 茶色く濁っていたあの飲み物に溶けていたのは、ミルクなんかじゃなくて――


「ただの紅茶で症状が収まるわけがないだろう?これで君は無意識下ではなく、正真正銘君の意思でその線を踏み越えたことになるな。もう躊躇う必要もなくなったぞ」


 静かに、しかし決然と告げるその言葉が二重の戦慄を連れて来る。

 一つは碌に水も受け付けなかった体が、あの紅茶だけはすんなりと受け入れた時点で正体に気づくべきだった俺の迂闊さ。

 それだけならばただの騙し討ちじゃないかと抗弁を立てる事も出来たかもしれない。しかしもう一つ、その事実を知った今でも、体が吐き気を始めとした拒否反応を示さず、それどころかもっと腹を満たせと胃が音を立ててくる事実が、どうしようもない俺自身の変容を表していた。

 だがそれでも、皿の上に置かれた肉塊へと伸ばしそうになる腕を必死に止める俺を見て、院長は静かに歩み寄り、肉をゆっくりと切り分けながら囁く。


「迷う事はない。君がこのまま飢えて死んでしまえば、ご家族はどうなってしまう?病み上がりのお母様ははたしてその心労に耐えられるだろうか?将来を決める時期である弟の人生が狂ってしまわないだろうか?」


 ――君自身の為ではなく、大切な家族のために。

 甘い言葉に設えられていく心の逃げ道が、ただ一条残っていた最後の理性を容易に切り崩していく。


(俺が死んだら……あいつらの人生まで狂ってしまう)

 長い長い間の後、やがて震える腕がゆっくりとフォークに伸びていく。

 肉が舌に振れた途端に伝わってきたのは、この世のものとは思えない味覚の暴力だった。一口飲み下したならもう止まらない。すぐにフォークも投げ捨てて両手で肉の塊を掴む。


「ふ、う、うっ」


 嚥下する度に目尻から涙が溢れた。それは後悔からくるものか、それとも喉を通り抜ける美味がもたらすあまりに大きな充足のせいなのだろうか。答えてくれるような優しい人はここにはいない。

 ただ一つわかるのは、その問いはもはや何の意味もなさなくなったという事。


「良い食べっぷりだ。三吾君の時を思い出すな」


 すっかり空になった皿を眺めながら院長が呟いたその一言に、指を舐めていた俺の意識が引き戻される。目の前には自分が取り返しのつかない一線をもう一度踏み越えた跡が、クロスを汚すシミとなって残っていた。


「あ……」


 呆けた声を漏らしながら伸ばした指が皿に触れ、その拍子に脇に放られたフォークと触れ合いちりんと音を立てる。

 それは俺の中の『まともな人間』が終わった合図だった。


「……だって、仕方ないじゃん。俺が死んだら、母さんも和也も……それに、俺がここで食べなくったって、そいつが生き返るわけじゃないんだ」


 誰に言い訳をしているんだろう。

 小声で自己弁護を幾つも並べ立てているうちに、諦めにも似た感情が波立っていた心を平坦に均していった。


「そう、君は間違ってない、合理的な判断を下した」


 俺の沈黙を待って、目の前へと静かにボックスティッシュを置きながら、院長は対面に座り直す。


「さて、これからの話をしよう」

「はい」


 自身の口から出た返事のはずなのに、その声はひどく遠いところから聞こえた気がした。

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