49『再動するふたつの歯車』

 翌日。俺が下半身の筋肉痛と戦いながら資料を整理していると、ポケットの中の端末が震えた。

 しかし、バイブレーションのパターンに馴染みがない。和也のアドレスは登録してあるから――などと考えているうちに震動が途切れてしまった。

 こっそり営業室を出てトイレに駆け込んみ端末を取り出すと、そこに表示されていたのは、就職してからただの一度すら掛かって来ることも、そして掛ける事も無かった高柳君の名前が表示されていた。

 僅かな緊張を胸に発信ボタンを押す。


「もしもし、石井か!?随分と久しぶりだなぁ!」


 きっかり3コールを数えてから出たその声は、鏑木とはまた違った方向性で快活なものだった。その上こちらが誰かを尋ねる事すらしなかった辺り、彼は未だに俺の番号を登録してあるらしい。

 その事実に少しだけ、気後れしていた心が勢いを取り戻す。


「う、うん、久しぶり。今大丈夫?」

「今日は休みだから全然平気!それにしても全然連絡寄越さないからよぉ、てっきり避けられているのかと思ってたぜ」

「ああ、いや、そういう訳じゃないんだけど……」

「さてはあれだな?拾ってもらったナントカって会社が、思った以上にブラックで、連絡とる暇すら無かったとか」


(天然なんだろうけど、鋭いなぁ)

 ある意味正鵠を射ているその言葉に、俺は苦笑を返すことしか出来なかった。


「あの、さ……唐突なんだけど、一個謝らなきゃいけないことがあってさ」

「うん?」


 いきなりテンションを落とした俺の言葉に返ってきた声は、電話の向こうで首を傾げるさまが浮かぶようだった。


「実は、あの事故で俺、記憶失ってたんだ。実は、君のこともあんまり覚えてない」


 返って来たのは長い無言の時間だった。突然今までの付き合いがうわべだけだったと知れば、この反応も当然だろう。

 だが、こういった感の鋭い手合いにいつまでも腹を隠していると、ふとしたきっかけであっさりと感づかれてしまう。ただでさえ久々に話す相手なのだ。変なところで疑念を抱かれた挙句に更なる不興を買うくらいならば、とっとと本題に切り込んだ方がいい。


「それで、今どうしても昔の事を思い出さなきゃいけなくなって連絡した。あの事故までの俺の事を教えてほしくて」


 やはりというべきか、スピーカーからはただの一言も返ってこない。彼とってこの告白は裏切られていたようなものだ。首尾よく何かを聞き出せると思ったのは、流石に都合が良すぎたか。


「都合のいいことってのは解っているけど、高柳しかいないんだ。まだ連絡先がわかってるのは……」

「知ってたよ」


 縋るような俺の声を遮って返ってきたのは、そんなもの些末な事だと言わんばかりの軽い笑いを含んだ声だった。


「へ……?」

「あれだけ口調が変わっていりゃあ、そら解るさ。第一お前、俺の事は名前で呼んでいただろ?」


 確か俺が彼の名前を呼んだのは、意識を回復させて直ぐ。彼が目を開いた俺に向かって『俺だよ!高柳だよ!高柳一志!わかるか?』って涙ながらに叫んでいたのを聞いた後のはずだ。とすると彼は、俺の欺瞞を知りながらもずっと変わらず接していてくれたことになる。


「じゃあなんで……」

「ンなことで一々へそを曲げる様な間柄なら、先ず病院に駆けつけたりしねーって。あの酷い事故の中でも、お前が生きててくれてたってだけで十分だったからだよ。それにお前、そうやって隠してたのは事実だけど、何度見舞いに行っても一回も邪険にはしなかったじゃねぇか」

「そりゃ、そうだけど……」


 彼のあっけらかんとした返答を聞きながら、俺は只々戸惑うばかりだった。ただそれだけのことで、長年自分を騙していたという事実を今更告白した人間を許すものだろうか。感謝すら忘れるほどの疑念は、彼の次の言葉によって氷解した。


「ゼミでやらかしてボッチになってた俺に声掛けてくれたのは、お前だけだからな。あの時は本当にうれしかったんだぜ」


 改めて言うと恥ずかしいな。とからから笑う彼の声を聴きながら、脳裏にその情景が蘇る。


『火、持ってる?』

『持ってるけど……』

『さんきゅ。……サボるのは良いけど、出席表出さないと単位落とすよ?』

『マジか。って、それ!』


 これは、彼との最初のやり取りだ。あれは2年に進級したばかり春。オリエンテーリングを終えた最初の授業の事だった。

 出席表を出した後にさっさと煙草を吸いに外に出た俺が、喫煙所で見つけた先客が高柳君だったのだ。


「そう……だったな。あの時俺の持ってたライターの柄が珍しいってんで一志が食いついてきて、そっから話が弾んだんだっけ」

「そうそう。アルレディの物販限定ものだったんだよ。まだになり有名始めたばっかりのさ……その呼び方、懐かしいわ」

「ありがとう」


 さっきとは異なる、優しげな笑いが続く。気づかずに俺は感謝の言葉を口にしていた。


「気にすんなって。俺達勉強嫌いで結ばれた『喫煙所サボりトリオ』じゃねえか。で、何が聴きたい?」

「ええっと……て、?」


 気さくに許してくれた一志の器の大きさに圧倒されて、思わず聞き流してしまうところだった単語を繰り返す。


「もう1人いた、ってことか?それ」

「ああ。あの子は途中から加わったんだけどな。つーかお前が連れてきたんじゃねぇか」

(あの子……?)


 ――まさか。俺がその正体を問いただそうとした矢先、トイレの入り口から足音が聞こえてきた。


「石井さん?」


 小林課長の声が外から聞こえた。流石に長時間席を外しすぎたか。


「すみません!ちょっと腹が痛くて……すぐに戻りますから!」

「ってお前仕事中かよ……」


 咄嗟に話したスピーカーから呆れたような一志の声が響く。「調子が悪いなら言ってくださいね」の一言を残して遠ざかる足音。それが消えてから改めて端末を耳につけた。


「悪い。それより――」

「ただでさえブラックなんだろ。それ以上肩身狭くしちゃまずいべ?今日は夜まで暇だからさ。また後で連絡くれよ」


 なおも食い下がろうかと一瞬考えたが、こちらの身を案じてくれている提案を無下にするのも彼に悪い気がする。万一譴責されて今より自由が利かなくなってしまうのも歓迎すべき事態ではない。ここは彼の言葉に甘えておこう。


「ああ。仕事終わったらまた掛けるよ」

「おう、待ってるぜ」


 通話を切って、個室のドアを開ける。流石に三吾が待ち構えたりという事は。


(ない、よな?)

 辺りを見回し人影がないことを確認してから胸を撫で下ろす。手を洗うために端末をしまおうと画面に目を向けると、アドレスに覚えのない差出人から1通のメールが入っていた。受信時刻を見るに、どうやら一志と電話している間に届いたもののようだ。


(スパムか?このご時世に……)

 訝しみながらメールを開封する。

 ヘッダーに表示されていたのは、藤沢院長の名前だ。


『 SUBJECT:無題

 対象の誘い出しに成功。

 本日2330にH市、啓示所有の廃倉庫に出現予定。

 さしあたり2300、現地に集合請う』


 続いた文面はそれだけの、ごく短いものだったが、俺の心拍数を上げるには十分すぎるものだった。

 ……いよいよか。

 拭ったばかりの手が、既に汗で湿っているのがわかった。

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