29『何のプレイだよ』

「なんで?!」

 

 その姿を捉えた一瞬、完全に痛みを忘れてそう叫んでいた。

 ――あんたがここにいる。そう問いを続けようとした口が、再びせりあがる痛みに塞がれる。

 そんな俺を普段と変わらず冷たい目で見ながら、彼女は脇に抱えた鞄に手を入れて何かを取り出し、空いている左手で俺の頭を掴んだ。


 ……掴んだ?


「痛ででで!」

「うるさい」


 思わず上げた悲鳴をぴしゃりと切り捨てた三吾は、女とは思えない腕力で俺の顔を上げさせ、手に持った何かを乱暴に口に突っ込んできていた。


「噛みなさい」


 まるで命令を下すかのような口調に抗弁しようにも、思いのほか大きなモノを突っ込まれたせいで顎を動かすことすらままならない。


(なんだ、なんだこれ?!)

 舌から伝わるそのの弾力と温度に戸惑い、一向に動かない俺。

 彼女はその顔に下から手を当て――


「それ」

「あがっ――!」


 全力で突き上げて強制的に咀嚼させられた。舌こそ噛まなかったものの、衝撃で脳が揺れる。


(なんてめちゃくちゃやるんだ……)

 ある程度口の中の物が細かくなったところで手を払い、吐き出すことを諦めて――というか、吐き出そうものなら何されるか分からない――更に噛み続ける。薄い塩の味とこの歯ごたえ、恐らくソテーされた肉だろうか。随分とぱさぱさしている気もするが。なんとなく、鶏の笹身みたいな食感だ。


(あれ……?)

 不思議なことに、この肉らしきものを喉に流し込むごとに空腹が治まっていく。立て続けに2杯平らげた夕方のラーメンよりもずっと少ない量であるにもかかわらず、この拳大のものを8割がた飲み込む頃にはひとまず胃が落ち着くまでに回復していた。


(これは)

 最後のひと欠片を飲み下す直前にある閃きが走り、俺は咳き込みそうになるふりをして口元を抑えながら台所に駆け込む。幸いなことに彼女は不審がる様子もなく、俺を視線で追う事もしない。


「……少しは落ち着いた?」


 口を拭きながらリビングに戻ってくるまで黙ったこちらを見ていた三吾が確認するかのように訊いてきた。それ以前にいろいろと訊きたいことはあるのだが、一応首肯を返しておく。


「しかし、どうして……」

「天井から延々ドタドタ物音が響いて来れば、誰だって気になるでしょう」


 三吾の部屋は俺の真下だったのか。とはいえ俺の空腹を満たした何かを持ってきている限り、ただうるさいから来たわけではないだろう。


「俺が訊いているのはそういう事じゃないですよ」

「別にそこまで騒いではない、と?」


 ……あくまでとぼけるつもりか。俺は喉の渇きを覚え冷蔵庫から水を取り出しながら続ける。


「そういう事じゃなくて……俺のこと見張ってました?」

「いや?でもそろそろこうなるだろうって、今日社長が」


 というのは俺を襲っていた異常な空腹の事だろうか。とりあえず話を聞くためにソファに座るように首を向けると、意外にも彼女は素直に従って腰を下ろした。


「ということは、さっきのはあの症状を抑える薬ってところですか?」


 訊ねる俺と大したリアクションも取らない三吾との間を沈黙が流れる。そのいたたまれなさと、座らせておいて何も出さずにいるわけにもいくまいという編に律儀な考えが、コーヒーメーカのスイッチへ指を伸ばさせた。

 間を置いて響いてきた低いモーターの音を聞きながら、会議室での三吾社長の顔を思い出す。あの時も彼は何もかもを見透かしたような笑いを浮かべていた。間接的とはいえ奴に助けられたことは納得がいかないが、とかく症状が抑えられたのはありがたい事には変わらなかった。


「まあ……一応礼は言っておきます」


 湯気の立つカップをテーブルに置こうとすると、意外というべきか彼女はこちらに向かって手を伸ばしてきた。中を覗いた途端に少し顔が曇っている。


「確かに対処ではあるけれど。薬、というのは少し違うかしらね」


 受け取りながら口にした要領を得ない回答に、黙って言葉の続きを待ったものの、次に視線を向けると彼女は手渡したマグをを両手で握り、口へと運んでいた。


「熱っ」


 普段とは違う少し高い声で小さくつぶやき、不満げな視線を送ってくる。


「アイスの方が良かった。ブラックだし」


 彼女の中ではさっきの話題は既に終了しているようだ。


「そら悪うござんしたね」


 会社で悪態を交わすときと同じような口調で返し、どこか懐かしさを感じながら適当にポーションと砂糖を放ってやる……そんな長い間会社に行ってない訳でもないんだけど。


「それより、薬じゃないのなら何を食わせたんです。俺に」


 改めて話題を戻した俺に目線を合わせず、彼女はテーブルに置いたカップの中を注視しつつ、ミルクを垂らしながら答えた。


「……貴方、本当にこのまま一人で生きていけると思っているの?社長に訊いたけど、会社辞めるんですって?」


 マドラーでぐるぐると中身を回しながら、こちらを値踏みするような目線を向けてくる。言外にそれは、何かしらの対処を摂らなければ、あの苦しみは永続的に身をさいなむということを示唆しているのだろう。


「なんとか対処法を見つけるまでです。あんな訳の分からん研究の為に人を手に掛けるくらいなら」


 事実彼女が持ってきた肉らしきもので症状は治まるのだ。主観的だがあんなに無造作に、しかも助けたところでメリットもない俺に与えるようなものなら、そこまで貴重なものでもないだろう。市販薬で対症療法を取りながら試せばいい。


「相変わらず甘い考え。楽観にも程があるわね」


 吐き捨てるように言った彼女の目には、侮蔑を通り越した呆れが見え隠れしていた。引きる口の端から思わず冷蔵庫に隠したあの肉片のことが滑り出ようとしたが、すんでの所で踏み留まった。

 先程俺の顎を砕かんばかりに掴んだあの力づくで奪還しに来たら、退けられるか正直微妙なところだし。


「そう思うなら勝手にどうぞ」


 ちょうど彼女が持っているコーヒーも無くなってきたところだ。助けた意図は解らないままだが、そろそろおいとまを願っても構わないだろう。


「……ごちそうさま」


 そんな俺の思いが視線にでも出ていたのか、改めて言葉を発する前に三吾は空にしたカップを置き、バッグを肩にかけて立ち上がっていた。


「一応、改めてお礼は言っておきます。ついでにお別れも。会社にはもう顔を出しませんし、ここもじき出ていきますんで」


 ソファに腰を下ろしながら、すたすたと玄関に向かう背中に声を投げる。別にリアクションを期待しての物ではなかった。しかし振り返りはしなかったものの、意外にも彼女は俺の言葉に足を止めた。

 普段の調子なら、こんな捨て台詞にも聞こえそうな言葉は軽く聞き流されるところなのだが。


を成分分析に出すのは、止めた方がいいわよ」


 ――バレてた。瞬間的に緊張に支配され、反射的にキッチンへと目線が向く。


「警告はしたから。それでは」


 しかし彼女は取り返そうとすることはおろか、パンプスを履こうとする手を止める事すらなく、ドアの向こうへと消えていった。


「……っはぁ」


 ドアの閉じる音と同時に一気に体が弛緩し、体がずぶずぶとソファに沈み込んでいく。


(しっかし、なんだ最後の一言は)

 もはや背もたれではなく座面に背中を付ける姿勢を取りながら、渦巻く疑問に思考を割く。

 俺の強気の根拠を見抜いておきながら、何故彼女は奪還ではなく警告止まりにしたのだろうか。彼女、ひいては研究に害が及ぶというのならばまずあれを手中に戻す事を選択するだろう。

 考えられることと言えば、外部にあれを持っていくこと自体が単に俺が何らかのリスクを負う事になる。それを懸念して、ということだろうか。


「そこまで善意に満ちた奴らだとは思わないけど……」


 結局、俺はその対応への疑問は最後まで解けないままソファを立ち上がり、冷蔵庫を開ける。そこには密閉型のトレイに入ったピンク色の肉片が収まっていた。


(どうあれ、これが状況打破のカギになる事には変わりない)


 ――もしかしたら、この物体は劣化しやすく、あの発言で俺が戸惑っている間に使い物にならなくなるのを狙っていたりして。


「だったら、すぐにでも行動に出るべきだな」


 景気のいい音を立てて冷蔵庫を締める。無根拠にも程がある考えだったが、一度自分の中でと思ってしまえば、それが確信に変わるまで大した時間は掛からなかった。

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