28『仄黒い腹の底から』

「……って、結局部屋探し途中だったじゃん……」


 恰好つけて店の外まで出たは良いものの、肝心の目的が中途半端だったことを思い出し、思わず小さな声が出た。かといって今更戻るのも恰好がつかない。また和也と鉢合わせたらどう反応すればいいというのだろう。


(で、財布の中身は心もとない、と……)

 収入の無くなった今、たかが千円前後でも無駄な出費は痛い。かといって手ぶらのまま帰途に着くのも電車賃の無駄だ。

 ――さて、どうしたもんかね。傾き始めた西日が顔を差し、時刻が気になってポケットから端末を取り出して見ると午後三時。これから新しい漫喫を探すのにも、帰るのにも判断に困る時間である。

 別に外でなくとも家に帰ればPC自体はあるのだが、それが会社の敷いた回線に接続しているものだという事が躊躇いを産んでいた。今更という感もあるが、ツールを通して俺の行動を逐一監視していそうな気がするからだ。あの二人のことだ、動向を探るためにそれくらいのことは当然しているだろう。


(この辺にもう一件くらいないものか……)

 しばらく考えた末、ここまでの電車賃を無駄にするよりましと今度は反対側の出口に足を向けた。広場の一角で端末を開き検索を掛け……ようとした手を止める。

 もし何かしらで監視されているとするなら、GPS通信を利用する地図のアプリも軽々に使えたものではない。溜め息を一つついて駅の案内板を見るも、道案内を存在の主としたそれには、当然の如く商業施設の場所など詳細に乗っているはずはなかった。


(マジか、脚で探すのか……)

 このご時世になんとアナログな事だろう。思わぬ重労働を覚悟した腹が思い出したように悲鳴を上げる。そういえば漫喫で摂るつもりだった昼食も忘れていた。

 飯を食う為だけに店に入る事もまた無駄な出費ではあるのだが、空きっ腹を抱えてあてどなく歩けるほど気力が充盈じゅうえいしているわけでもない。ますます格好つけて出て行ったことが悔やまれる。


(いかん、意識したらどんどん減ってきた……)


 ロータリーに面した出口辺りを見回すと、ネットカフェの類は見当たらないものの飲食店無数に軒を連ねていた。値段の相場とすぐに口に出来るというメリットに惹かれ、角のラーメン屋の暖簾をくぐる。


「いらっしゃい」


 無愛想な店長のあいさつも、立ち上る濃厚な香りのおかげで気にもならなかった。席に着くなり出来上がりの一番早そうなトッピングの少ないものを注文し、とりあえず空の胃にコップの水を流し込む。


(ひとまず腹に物を入れて、それから考えるか……)

 結果として更に所持金が減ってしまった上未だ妙案も浮かばないが、思考を邪魔する空腹が満たされればいい考えも浮かぶだろう。


「へい、お待ち」


 予想通りの早さで目の前に置かれた丼を引き寄せて割り箸を割り、挟める限界まで面を持ち上げて一気に啜る。少々味は薄いものの口に広がる醤油の風味と、喉を通る暖かな感触に体が解きほぐされ、つい周りを気にすることも忘れて大きな息を漏らしていた。


「……?」


 そしてしばらく無心に箸を動かしていた俺が、ある違和感を抱え始めたのは丼の半分ほどを食べ進めた頃だった。

 

 ――満たされない。


 いくら嚥下して胃の中に麺を送り込もうとも一向に空腹が収まらない。スープの1滴まで呑み干しても腹の調子は食べる前と全く変わらないのだ。むしろ舌の上に味が残っているせいで、余計に物足りなさが加速している感すらある。

 気づけば俺は財布の中を確認することもなく同じものを再度オーダーしていた。

 それを自らの味が余程気に入られたと解釈したのか、先程よりも幾分表情を明るくした店主が鼻歌交じりに麺を茹で始める。


「おっちゃん!味薄いよ!」


 出来上がりを今か今かと待ちわびている間に、すぐ左隣から響いた荒々しい声。俺を含めた客全員の視線が一斉にそちらへと向いた。

 そこには捲ったシャツの裾からタトゥーの覗く、一目で温厚ではないと分かる金髪の若者が不満を顔いっぱいに浮かべている。


「……卓上のタレでも掛けてくださいよ」


 一瞬で不機嫌に戻った店主がぶっきらぼうに返す。置かれているのは餃子用と思しきものなので、恐らく皮肉だろう。


(トラブルで待たされるとか勘弁だぞ……)

 悪辣な冗談と受け取った若者が罵詈雑言を浴びせる様が目に浮かび、こちらの顔まで歪むが、結果的にその想像は外れてくれた。しかし目の前に広がった展開は幸運よりも驚きをもたらした。

 大仰な舌打ちこそ聞こえたものの、若者は店主の言葉を字面通り受け取り、ラーメンのスープへ向かって逆さに握ったタレの瓶を逆さに振り始めたのだ。


「マジかよ」


 みるみるうちにどす黒い色へ染まっていく丼に、流石の俺でも思わず目を疑う。同時に口からこぼれた声に若者の鋭い視線がこちらへと向き、慌てて明後日の方へと視線を外す。そのタイミングで目の前に新しい丼が差し出された。


「いただきます」


 こちらの返礼にいくらか機嫌を直した店主が背中を向けると同時に一気に啜る。しかしまるで口から呑みこんだものがどこか別の場所にワープしているかのように、全くと言っていいほど腹が満たされない。


「えぇ、これ濃くない?」

(いや、薄いでしょ)


 箸を動かす最中、途中唯一考えた余計な事は、どこか別のテーブルから聞こえた女の声に対する反応のみ。こいつが正しかったのかと若者に倣ってタレを足そうにも、彼が無遠慮にドバドバ掛けてしまったせいで瓶の中は空っぽになっている。

 結局諦めて食べ進めるうち、最早味などどうでもよくなっていた。一杯目よりも遥かに速いペースで間食してしまっても空腹は留まることを知らず、今を以って腹の中はむしろ飢餓と呼んで差支えない不快さを伴っている。


 ――はらが、へった。

 とはいえ、さらに注文を重ねようものなら帰りの電車賃が無くなる。


「まいどあり」


 異が締め付けられるような空腹感に理性を失いつつある頭の片隅に、どうにか残っていた金銭感覚で尻を椅子から剥がし、入った時となんら変わらない、おぼつかない足取りで駅へと戻った。頼む前とは打って変わって上機嫌になった店長の声が、とても癇に障ったことは覚えている。






 ※     ※     ※






 電車に乗ってから更に苦しみを増した空腹に朦朧とする意識を、最大まで音量を上げたプレイヤーから流れるアルレディで必死に繋ぎ止め、どうにか家まで気を失わずに済んだ。よろよろとリビングまで歩き、ソファに半ば身を投げ出す形で腰を掛ける。


「うっわ、きっつい」


 思わず漏らすが、冷蔵庫にも戸棚にも食料はない。

 いや、恐らく食べるものがあったとしてもこの飢餓感は消えない。そう頭のどこかで確信している。それほどまでに今の体調は異常と感じていた。

 おかしいだろう。流石にこれは。


(これも、薬の影響なのか)

 ふと浮かんだ考えから逃げるようにソファから腰を上げるなり、俺の体は派手な音を立てて床に激突した。


「うぅ……」


 転倒の原因が全身に力が入らない事だと理解するのに数秒を要し、擦った頬の痛みも感じないほどの胃から迫る痛み。過剰に分泌されている胃液で炎症を起こしている事は明らかだった。とはいえどれだけ食べても改善が見込めない。つまりはこのまま床に転がっていても、事態は一向に解決しないということだ。


(救急車……無駄だろうけど……)

 胃液を抑えたりする対症療法くらいはしてもらえるかも知れない。懐にある端末に手を伸ばすと、腹の下から刺されるような尖痛が走った。


「っぐ!」


 そのあまりの痛みに再び床へと崩れ落ちて、強かに鼻を打った。噴き出した手汗で端末が滑り落ち、更に不運な事に玄関に向かって結構な距離を滑って行ってしまった。


(下駄箱の方までかよ……)

 呻きながらどうにか上げる視界で端末を捕えようと懸命に動かす。なるべく体に刺激を与えないように注意を払いながら、それでも襲う痛みに耐えながら敷居を這いぬけ、どうにか端末が手に届く位置まで体を持っていくことが出来た。


「っふ……」


 やはり、腕を伸ばせば腰が捻じれ、胃が悲鳴を上げる。奥歯を食いしばりながら必死に手を伸ばし、指先に触れるか触れないかの所で、突然視界に降りて来た細い指に摘ままれた端末が上へと消えいった。

 

(今、何が起きた……?)

 事態を理解できず、顎だけを限界まで上げた俺の眼が、大きく見開かれる――。


「玄関、開いてましたけど」

 

 そこに立っていたのは、俺の端末を手の中で遊ばせながらこちらを見下ろす、仕事帰りの三吾だった。

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