26『存亡を懸けた逃亡の為の行動』

 寝返りを打った拍子に背中に走った唐突な痛みで目が覚め、起き上がろうとする腰にシーツが絡みついて手間取った。額を落ちる大量の汗と重くなったシャツが、昨日の夜存分にうなされた事を物語っている。

 カーテンの裏から指す光が暖かい。寝ぼけ眼で端末のアラームを確認すると、時刻は既に昼と言って差し支えない時間だった。会社を辞めてもしばらくは、体に染みついた習慣のせいで出社する時間に目が覚めるという話を聴いたことがあるが、俺にはそんな意識すらなかったということだろうか。

 体を起こしながら痛みを感じた腰の辺りをさすり、次いでそこが接していたシーツの辺りを手で探ると、指先に固い、そして体温で温もった何かの感覚があった。


(?)

 手にとって確認する。何か強い力が加わってひしゃげたらしく、同時に黒くすすけている塊。指で摘まみ上げて明りに掲げてみると、その中に僅かに空洞を称えている。

 どうやらそれは銀で出来た指輪のようだった。


「なんだ、これ」


 身だしなみには最低限の頓着しかない俺が指輪など買った記憶などないし、ましてこんな状態になるようなことをした覚えもない。だが、この埃のかぶりようを見るに、ある程度長い間俺の部屋にあったことになる。しばらく辺りを見回してみると、枕のすぐ上辺りに小さな空間がある事に気付いた。

 宮、だっけ?インテリアに気配りを置く人間ならば、ここに読書灯でも置くのだろうが、俺には使い道が見つからず長らく放置していたはずだ。恐らくこの指輪らしきものはここから落ちたのだろう。

 特にベッドから出る理由もなく、起き上がった姿勢のままカーテンから洩れる日の光が瞼に当たるまで考えてそこまでの見当はついたが、肝心の『なぜこんなものがここにあるのか』までは解らなかった。


(まぁ、どうでもいいか)

 中の空洞を覗いても何かが仕掛けられている様子はなく、別にあって害のあるものじゃないと判断する。

 それよりも今の俺にはもっと考えなければいけないことが沢山あるのだ。社長とその会社に自ら3行半を叩きつけた今、この部屋だっていつまで自分のものであるのかわからないのだから。


「飯……」


 ともあれ、空腹を訴える体に何か燃料を入れなければ動く事もままならない。ダイニングのラックに未開封のポテトチップがあることを思い出し、ようやく俺はのこのことベットから這い出た。手の中で遊ばせていた銀の塊を探す場所を求めてしばらく彷徨った後、結局適当なアウターのポケットへに突っ込む。

 袋を手に取る前に冷蔵庫を覗き、一瞬無意識にテュエに手が伸びかけた……が、自制する。あれが俺の体を知らぬ間に侵していた薬の同種であることを知った今、例え『思わず手が伸びた』としても口にする気はなれない。

 代わりに牛乳のパックを手に取り扉を閉めた。いつもより心持ち強閉まった音がしたが、誘惑を断つ意味合いがあったわけではない。そう思いたい。

 冷房のスイッチを入れてからテーブルに座り、勢いよく袋を開けた。いつもならば開いた口から覗く黄金色の塊に食欲が刺激され、周りの目を気にしない自室では最初から袋を傾けて食べ始めるのだが、今日はあまり気分が乗らない。

 先に牛乳を飲んでから2枚ほどを摘まんで口に運ぶ。気分はどうでも、味はいつもと変わらなかった。

 テレビもステレオも電源を入れてない部屋で、咀嚼の音だけがずっと響いていると、いかに俺が楽天的な性格――というか、刹那主義に近いのかもしれないが、とかくそんな俺の性分――でも、これからの自分というものが嫌でも頭をよぎる。

 まず、立場としては会社を退職したプータローになろうとしている。当然、収入も無くなる。そしてさっきも考えた事だが、この部屋もいずれ叩き出されるであろう。今となっては即日退去じゃなかっただけでもありがたい事だったのかもしれない。

 歯に着いた海苔を楊枝で取りながら、改めて自分がしたことへの影響の大きさを実感する。

 1度ポテチの袋置いて、俺はテレビラックの下の扉を開け、アルレディのロゴが描かれている小さな巾着を取り出した。中から学生時代に契約し今まで利用し続けているメガバンの通帳を取り出し、中を繰る。


(先月末の時点で250弱、か)

 預金額を確認して、頭の中で今の手持ちと足し合わせる。金の掛かる趣味を持たなかったのが幸いし、この年齢の平均を鑑みても決して少なくない金額が溜まっている。

 とはいえこれから部屋を探して引っ越し、仕事に就き直して新しい生活を始めるまでの経費を差っ引くと、決して万全とは言い難いのも事実だ。


(引っ越したとして残りは約200ちょい……いや)

 あの夜、鏑木が発信機を仕掛けられていたことを思い出し、リビングを見回す。


(この部屋のものは全部処分した方がいいか。生活用品一式を揃え直すとなるとさらに厳しいな)

 その為の費用を頭の中で預金額から更に引く。

 あれこれと思案した結果、引っ越した先で半年以内に仕事が見つからなければアウト、という結論に達した。今はどうだか知らないが、あれだけ苦労した就活生時代を思い返すと、この猶予期間はお世辞にも長いとは言えない。


(実家に帰る……いや、無理だな)

 取れるものならば、それが一番節約につながる選択肢だが、唯でさえ親元に居ることが嫌になって勝手に都内の大学を受験して出て行ったのだ。その上今の俺の事情をどう説明しても信じてもらえるようには思えない。大方仕事が嫌になって実家に逃げ帰ってきたと決め付けられてそしられた挙句、門前払いが関の山だ。

 何より、あの家のすべてを掌握している父親は、俺が生死の境を彷徨っている時でさえ連絡のひとつも寄越さず、目覚めた後も見舞いにすら来る事はなかった。それほどまでに俺への興味を失っている実家に、今更都合よく居場所があるなんてことは有り得ないだろう。

(あいつは和也さえいればいいんだ)

 無駄に落ち込んだ気分に舌打ちを鳴らし、ダイニングに戻る。

 ……厳しい。かといって今更会社に戻る、という選択肢は始めからなかった。あのまま奴らに従っていたら何をされるか。そして何をさせられるかわかったもんじゃない。幾度思い直しても、あの時下した判断が間違っていないという事は揺らがない。

 薬に塗りつぶされた意識の中で、俺はいったい何人の人間を手に掛けたのだろう。感触や情景まで欠落し、補完に当たったものは他人から告げられた事実だけ。それはちょうど事故で失った記憶と同じように、実感の湧かないものだった。あるいは幸運な事なのかもしれないが、だとしても自分の行いを知ってしまった今、これ以上人を殺し続ける状況に置かれる事を許せる訳がない。

 中心軌道を外れる思考に、袋に残ったポテチに伸ばす手がまたしても止まっていた。


「……部屋でも探しに行くか」


 退職に関する書類も届いていない今、いささか気の早い行為の気もする。当然家にもネット環境はあるので、別段外出する必要もない。だが家の中でひとり考えにふければふける程気が滅入りそうだ。

 この際予算は気にせず遠くの物件を探しにいくか。いざとなれば家賃の引き落とされている口座を閉じて、部屋をこのままに黙ってここを出てもいいだろう。


「よし」


 まだ全く腹は満たないが、すぐに動くべきだ。輪ゴムで袋の口を縛り、俺は掛けてあるシャツを羽織った。

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