8『Dive into past』

「では、こちらに受領のサインを」


 俺が差し出した見積書を、彼の隣に立つ秘書が恭しく受け取り、懐から万年筆を取り出す。藤沢院長とその秘書が書面に目を落とした隙に、俺は気づかれないようにこっそりとソファから腰を上げ伸びをひとつ、背中の下の方から聞こえるパキパキという音が心地よかった。

 本格的な薬品の納品は物流部門を通して最終的にトラックの運ちゃんが行ってくれるものの、そこは売上額ダントツ一位の相手先だけあって、営業が持っていく試薬やサンプルだけでもかなりの量に上る。

 それを一々最上階にある院長室に運ぶのだからたまらない。もう何往復を数えたか、やっとの思いで荷を運び終える頃には、俺の腰は嫌な悲鳴を上げ始めていた。そうでなくても一介のサラリーマンが地位のはるかに違う大病院の院長と向き合うのだ。体が凝り固まらない方がおかしい。


(時間もちょっと押しちゃったか)


 院長室に差し込み始めた西日に目を伏せながら見た腕時計の針は、15時半をとうに回り、16時前と言った方がふさわしい時刻を示していた。これから治療となれば夕礼には間に合わないだろう。そう考えた俺は端末を取り出し、ロック画面に表示されている母親の名前に顔を顰めて、再びポケットに戻した。


(ま、あとで連絡入れればいいか)


「すまないな。毎度ここまで運んでもらって」


 視界の外から聞こえた声に慌てて頭を上げると、そこにはサインの住んだ見積書を片手に院長が苦笑を浮かべていた。その顔は俺の腰の容態を慮っての顔だろうか。中継しようと手を伸ばす秘書を制して、彼自らが俺に見積書を手渡してきた。


「いえいえ、お安い御用ですから」


 相変らず、そこまで重宝してくれる理由はわからないまま、曖昧な笑顔でそれを受け取る。


「さて」


 院長がソファに座り直し、秘書に目で合図をすると、彼女は無言のまま一礼し下がって行った。


「少し遅れてしまったが、時間は大丈夫かな?」


 秘書を下がらせてからのこの問いかけが指す所は、これから『治療』を行っても差支えがないかという事だろう。俺が頷くと彼は立ち上がり、デスクの脇にある扉に手を掛けた。


「失礼します」


 ノブにを回す院長に礼をして、彼より先にドアを潜る。その先は彼専用の診察室があり、本来ならばいわゆる『やんごとなき身分』の方々が順番を待つ下々をすっとばして診察を受けるための部屋なのだそうだ。そこにどうして俺が通されるのか、これまた謎。

 別に欠落した記憶の治療など一般病棟でも出来るだろうし、わざわざ秘書を下がらせてまでひた隠しにするような必要もないだろうに。


「軽々に一般病棟で診察すると、いろいろ面倒でね。一応多分の身で通しているもので」


 白を基調とした小奇麗な診察室の椅子に所在無く腰掛け、視線を右往左往させながらそんなことを考えていると、院長が答えと共にドアを閉め、正面に腰掛けた。


(……読心術の心得でもあるのですか)

 そう感じるのは今に始まったことではない。こうして彼と向き合い目を見ると、それだけで心の内を見透かされるような、そんなバツの悪い気分になる。対して彼の瞳を見返してみても、その内を推し量ることはできない。それはどんな時でも顔色を変えないという意味合いではなく、まして無愛想や無表情という事でもない。頬を緩める時もあれば、口を尖らせることもある。

 しかし決して、爆笑や激怒といったような感情のきょくを見せはしない。その下にある芯を他人に覗かせることは決してしないのだろう――俺が初めて藤沢院長と対面した時に持ったそんな印象は、3年経った今を以てしても変わる事は無かった。


「……何か?」

「あ、いえ」


 っと、まじまじと見過ぎただろうか。怪訝な顔を浮かべこちらの様子を伺う院長に慌てて頭を振ると、彼は改めて脇に備え付けられたディスプレイの電源を入れる。


「さて、問診から入ろうか」

「はい」

「リラックスしてくれてかまわない。ソファにもたれかかって……」


 それから彼は画面と俺の顔を交互に行き来しながら、俺にいくつかの質問を飛ばしてくる。俺が入学した大学の名前、学部名。入学の動機、交友関係。毎度同じところから質問が始まるのは、記憶の喪失が進行していないか……つまり俺が記憶を失っている大学三年から卒業直前までの時期以外のところを忘れていないか、の確認だろう。俺はいつものように滞りなく答え――


「では、大学三年次、君はどういった人たちと交友を持っていたかな?」


 やはりいつものように同じところで答えに詰まる。


「どういった……どういった……」

「では、一番仲が良かった友人の名前は?」


 まごつく俺を見て、院長が質問を変える。


「主には、同じ学科の高柳 一志……だった、と思います」

「根拠は?また、それを象徴するような話はあるかな?」


 再び答えに詰まってしまう。俺が上げた名前は、単に記憶を失うきっかけとなった事故の後、最初に見舞いに訪れた人間の名前に過ぎない。

 何度も自分の名前を叫びながら肩をゆする彼の姿は思い出せるし、あまりにうろたえたその様子から、彼が俺と人並み以上の交友を持っていたことも伺えた。

 

「あの……えと……」


 が、それは所詮事後に入ってきた情報からの類推であり、俺の『記憶』が指し示すものではない。それが今日まで取り戻せなかったからこそ、恐らく親友であったその高柳君とは疎遠になって久しい。


「すまない。矢継ぎ早にしすぎたかな」


 ソファから背中を剥がして俯き、考え込む俺を見て院長が声を掛けてきた。その手には優しく湯気の立つ紅茶が握られており俺は謝罪と感謝を述べてそれを受け取った。外は相変わらずの猛暑だが、ここは適度に空調が効いているし、何より暖かいものが喉を下ると、心が少しほぐれる。こういった小さな気遣いが、今の俺には染み入る程にありがたかった。


「やはり、まだ明白な成果は見られない、か。」

「すみません」


 息を付きながら呟く院長を見て、その尽力にも関わらず記憶が戻らない事を申し訳なく思い、俺はまた謝罪を口にしてしまう。彼も言葉を探しあぐねているのか、互いに黙ったまま気まずい沈黙が続いた。


「あの、やっぱり院長自らが治療をすることは」


 こういったとき、耐えきれずに先に言葉を出すのは往々にして立場が下の人間だ。目上に対して黙ったまま、というのは失礼に他ならない。あなたと話せることは何もありません、そういった意志の表示は相手と対等以上の立場に立って初めて許されるものだ。そうでなくとも彼と向き合うのには緊張を余儀なくされるというのに。

 先の話を掘り返して切り出すと、彼は脇に備え付けてあるラックから取り出したケースに掛けた指を止め、無言でこちらに向き直った。茶色の相貌がいつもより一層細い。視線に射抜かれて背中を冷たいものが伝った。

 ……あれ?これは少なくとも良い反応じゃないぞ?


「えー……っと、していただいてることは一般の記憶治療と大差ないわけですし。薬の方だって――」


「私の処置では不満かね?」


 言葉の先を制するように、院長の切れ味鋭い一言が差し込まれる。身長だって俺と大差ないはずなのにその姿が大きく見え、まるで上から覆いかぶさってくるような威圧感すら帯びている。彼が本気になれば俺の社会人生命どころか、もっとすらたやすく終わらせることが出来るだろう。立場が違い過ぎて若干麻痺していた実感を突如として突きつけ直され、体から汗が噴き出してきた。


(そういうわけじゃなくってむしろ逆というか!)

 俺ごときの為に国内最大級の病院の長が直々に手を煩わせなくても。そういった要旨のフォローを口に出そうとするが、恐怖にも似た緊張で口がうまく回らない。首と手をぶんぶんと振り、どうにか否定の意志を表す。


「君に表れた記憶障害は症例としては非常に稀なケースだ。いわゆる一般的な解離性健忘かいりせいけんぼうとは全く違う」


 こちらの意志が伝わったのか、彼の口調は平静なものに戻っていた。俺を襲ったこの症状がどう珍しいのかという突っ込んだ説明はなされなかったが、それが彼の興味を惹く程度に希少なものであることが、俺に関わる理由である、という事だけはわかった。


「それに、友人直々の頼みを無下にするわけにもいかないのでね」

「へ」


 ――友人?


「君の治療が私に一任されているのは、他でもない三吾社長の依頼なのだよ。彼とはよくよく縁があるようだね」


 続く彼の一言で俺の疑問は一つ消えたが、また即座に新しい疑問が浮かんだ。思えば最大手の客先がド新人のペーペーを名指しするという前代未聞の事態に、散々紛糾した末その要求を通す決定を下したのはあくまで役員会の判断という話だったが、その最終決定権は最高権力者に委ねられている。つまりは社長の鶴の一声というわけだ。

 そして当然というべきか、社長も俺の事情を知っている。記憶治療が定期的な通院を必要とするならば、本社や俺の生活圏から離れているここには営業のついでに訪れるのは効率がいいだろう。それはわかる。

 しかし、なぜ社長が俺の治療を頼む?それも院長直々、というオプション付きでだ。


「さて、投薬治療に移ろうと思うが……その前に改めて、最後の質問をしよう」


 俺の韜晦とうかいを遮るように、院長はケースから小さなカプセルを取り出して、こちらに向き直ってそう言った。


「あ、はい、大丈夫です」


 温度の下がり始めた紅茶を一気に呑み干し即答する。時間が押しているのもそうだが、これ以上彼の手を患せるのは申し訳ない。国内最高レベルの腕を持つ院長の治療を直々に受けられるのだ。とりあえず新たな疑問は置いておこう。


「本当に?」


 改まった彼の念押しから、尋ねずとも次の質問の内容が分かった。同時にその確認が二重の意味を込めている事が伺える。最後の質問は、一般的な記憶治療にとって最も思い出すことに苦痛を伴うはずの質問だからだ。それでもこちらから切り出すことはせず、彼のわかりきった問いを待つ。


「……君が記憶を失う要因となった事件を、思い出せるかな?」


 彼の言う『普通のケース』であるならばここでパニックの一つのでも起こすのだろうか。そんな事を考えながら、俺は小さく息を吸い込んだ。


「21XX年3月27日、ALA403便ニューヨーク発東京行きの着陸ミスによる炎上事故」


 言葉にすることで呼び起された燃え盛る炎と幾重にも重なる悲鳴が、まるで部屋の酸素まで奪ったような錯覚を覚え、俺の口はひとりでに乾いていった。

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