第2相

7『あり得ない社員ができるまで』

「石井、電話だ。藤沢総合病院様から」


 いつものように俺が雑務暇潰しをこなしていると、唐突に課長から声が掛かった。コピー機のドロワーを閉めて振り向くと、受話器を握った彼はなんとも複雑な表情を浮かべている。その奥歯に物が詰まったような様子俺は、電話の相手と要件に大方の予想を付ける事が出来た。

 いつも立場を傘に言いたい放題言う課長の、あんな渋い表情はもっと堪能していたいものだが、先方を待たせるわけにも行かない。速足でデスクに戻り受話器を取って、手元で光っている1番のランプを押す。


「はい、お電話変わりました。石井です」

「あいかわらず覇気のない声だね」


 受話器の向こうから聞こえてきた、男性とは思えない細い声にたしなめられ、思わず背筋を伸ばしてしまう。


「も、申し訳ございません!」


 電話口だというのに勝手に頭が下がった。声の主がこの程度で腹を立てるような狭量な人間ではないことはわかっているのに、俺の体はいつのまにか頭を何度も下げていた。この人の声には無意識に人を従わせるような、静かな威圧感がある。それくらいのカリスマを持ち合わせていなければ、国内最大級の大学病院の長など務まらないのだろうか。

 返答を待つしばらくの間が一層俺の緊張を引き立てていくが、ややあって我慢できないといった風に吹きだした相手の静かな笑いが沈黙を破った。


「いきなりかしこまらなくていい。慣れてないことをすると体に障るぞ?」

「う」


 俺自身この人の前では礼節を欠かした記憶はないが、見透かされていたということだろう。反論も浮かばず、俺に出来ることと言えば苦笑だけを何とか絞り出すことだけだった。


「体に障るといえば……」


 しばらくの間の後、ありがたいことに先方から話を変えてくれた。俺はうなだれた背中をもとに戻し、メモ帳を机から引き寄せる。彼は俺と無駄話出来る程暇な人間ではない。恐らく雑談の切れ目なしにいつもの薬品注文の流れだろう。


「あれからやはり、変わりはないかね」

「ええ」


 あれ、とは俺が納品のついでに行ってもらっている治療の事だろう。


「相変わらずとっかかりすら、と言った感じです。三年経った今も生活に支障は無いから、普段はあまり気にしてはいませんが」

「……ふむ、あれからもう三年になるか」


 挟まった若干の沈黙に何故かトーンの低下を感じながら、俺は注文は今かとペンを握りしめる。


「まぁ、続けてみるのもいいだろう。今日はこれから時間を取れるかな?」

「勿論です。藤沢院長のご依頼とあらば、課長はおろか役員でも止められませんからね」


 横眼に映る課長の顔に、一層の皺が走った気がしたが、ジェスチャーで『注文アリ』のサインを出すと、やはり喜色と不審をないまぜにものに戻る。

 本来ならば注文というのはMRの方から足しげく客先に通い、ごく短い時間に限られた面通しの末に必死に情報の提供やら売り込みを行った末、やっとのことで得られるものだ。

 まかり間違っても客先から、しかも責任者直々に呼び出しを受け、用意された注文を取って来るだけのMRなど存在する訳がない。

 ……のだが、彼の前には実際にそんなMRが突っ立っている。そんな不可解さが彼の胸中を一層複雑にしているのだろう。何せ俺自身でもその理由を分かっていないのだから無理もない。


「と、すまない。呼び出しが入った。注文の詳細はメールで送ろう。午後の回診が落ち着く十五時からでいいかな。納品と治療の時間、合わせて一時間程いただければありがたい」

「畏まりました。では十五時にお伺いいたします」


 一礼してゆっくりと受話器を置く。これで最低あと三か月は叱責を受け流すことが出来る。次いで時計に目を落とすと、アナログの針が示す時刻は十一時を少し回ったところだった。これならば早めの昼食を摂ってその足で向かえば、丁度いい時間に病院に着くことが出来る。

 早速ドロワーの最下段を引っ張り出して、長らく使っていなかった営業鞄の埃を払い、資料を詰めて腰を上げ、課長のデスクへ歩み寄る。


「これから食事がてら出てきます。夕礼前には戻れるかと」


 電話に聞き耳を立てていたのは横目で見ていたので、わざわざ客先を言い直す必要はないだろう。


「そうか」


 予想通り、彼はさっきと同じ複雑そうな顔を浮かべたまま、俺と目を合わせることなくそっ気ない返事だけを返して来た。


「それでは、行ってきます」


 軽く頭を下げて踵を返す。つれないリアクションにも気分を害することはない。これから何の苦も無く今期の課内最大の営業成果を得るであろう俺を手放しで褒めるのは、普段の態度も相まって気が進まないのだろう。かといって許可を下さなければすぐさま上がすっ飛んで来る。そうなれば割を食うのは命令した課長一人だ。


「……一件受注するのに半日か。お前は一体病院で何してるんだ?」


 エレベーターのボタンを押しながらそんな板挟みに同情していると、精いっぱいの抵抗といった課長の皮肉が飛んできた。俺は振り返らず、脚を止めて首と視線だけを後ろに回し答える。


「いたって普通の商談と、そのついでのカウンセリングですよ」

「カウンセリングぅ?」


 間抜けな口調の鸚鵡返しに応じることはせず、到着したエレベーターに乗り込んだ。

(一応、上長であるアンタだけには教えたはずなんだがな)

 それだけ興味のない部下ということなのだろう。ドアの上に並ぶ階層を示すランプが左に移動し始め、体の中身を持ち上げられるような奇妙な感覚が俺を包んでいく。

 ――さて。と。

 ロビーに着くまでの少しの間、忘れ物がないかをもう一度確かめるために鞄のファスナーを開ける。藤沢総合病院は営業エリアの中でも最西端に位置しており、ここ本社からだと有料道路を使っても1時間半は掛かる。相手先に失礼がないようにというのも勿論だが、なにより忘れ物の為に往復で三時間の道のりを増やしたくは……


「随分熱心に読んでいるんですね。珍しい」

「うわっ」


 紙で塞がれた視界の向こうから突然響いた声にのけ反りながら顔を上げると、そこにはいつの間に乗り込んだのか、スーツを脱いで腕にかけている三吾が立っていた。気づけばエレベーターはとうに動きを止め、開いたドアの向こうに受付嬢のデスクが見えていた。


「降りないんですか?」


 外勤から戻ってきたばかりなのか、汗が伝うその頬に似つかわしくない、相変わらず涼やかな声……というか、俺が動き出すまで待っていたのかこの人。


「今から外出ですか?」


 返事を返さずに奇異の目で見る俺に、続けざまに質問が飛んでくる。後ろに見える他の社員から舌打ちが聞こえたので、とりあえずはエレベーターから降り、フロントの隅に退避することにした。そのまま外に出られなかったのは、わざわざエレベーターの到着を待っていた三吾が何故か俺の後ろをついてきたからだ。

 

「……なんですか?」


 別に、決して、先日の鏑木の話を聞いたからというわけではないが、無下に追い払う事がどうにも躊躇われる。恐らく彼女と相対してのっけから不穏な空気でないことが珍しいからだろう。


「藤沢さんのところ、ですか?」

「ええ、まぁ」


 むしろ俺が営業に向かう先はそこしか存在しない事など周知の事実だと思うが。いよいよもって彼女の意図が読めなくなる。そんな当たり前のことを聞くためにわざわざ来たエレベーターを無視してまでついてきたのだろうか。


(まぁ、このくそ暑い中喧嘩を売られるよりはましか)


「夕方には戻ります」


 何かの拍子に空気が悪くならないうちに話を締めて立ち去ろう。言葉を続けるわけでもなく、ただ静かにこちらを見据える三吾へと、目で一礼して背を向ける。彼女もまたエレベーターの前に向かい、ボタンに手を伸ばしていた。いつもならばここで去り際に皮肉の一つでも織り交ぜてやるところなのだが……なーんかどうにも調子が狂うな。

 まぁ、結論が出ないことをいつまで考えていても仕方ないか。もう一度エレベーターを待つ彼女の背中を一瞥し、頭の中を切り替える。


(っと、鍵鍵……)


「お大事に」


 ポケットの中にあるはずの営業車のキーををまさぐるために立ち止まった俺の背中に、かすかに彼女の声が聞こえた、ような気がした。


「え?」


 思わず振り返るが、そこに彼女の姿はなく、閉じたエレベータのドアと上階に向かい始めた事を示すランプだけが目に入った。


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