4『週刊誌は見出しのセンスが8割』

 会社から一歩外に出ると、夕日もすでに沈みかけているというのに未だ衰えない湿気と熱気が体を包み、俺は忘れていた倦怠感に再び襲われた。


「うへぇ」


 もう八月も終わったってのに……思わず声に漏らし、それでも我慢して歩き始める。もはや朝の夢のディテールはすっかり形を失くし、今はただ体を包む怠さと眠気だけが、あの夢を見た事の残滓だった。

 さっさと部屋に帰りたい一心で通りを歩き、途中で自宅の食料が底をついていたことに気付いて、ことさらに大きなため息が出る。この調子ではどこか店に入って……などという気力なぞ体のどこを探しても出てこない。

(適当に買って帰るかな)

 ちょうど目に着いた反対車線のコンビニエンスストアへと入っていく。溌剌とした学生バイトの声と共に店内を満たす空調の冷気に身を包まれ、幾分か生きた心地を取り戻しながら入口脇に積まれた籠を手に取り、学校帰りの学生や子連れの主婦でにぎわう店内を進み、雑誌の並ぶ手前の棚から目を滑らせていく。

(さっそく記事になってる、早いなぁ)

 それだけセンセーショナルな事件だったのだろう。似たようなタイトルでずらりと並ぶ大衆紙の中の一冊に、あの殺人事件を指す見出しが躍っていた。

 籠を置いて立ち止まり、手に取ってぱらぱらとめくっていくと、ニュースサイトで見たビルのモノクロ写真が見開きで掲載されていた。内容自体は目新しいものはなく、そこに週刊誌特有の尾ひれが見え隠れする程度のものだった。


『無数に刻まれた歯型!怨恨かカニバリストか、帰りそびれた死霊の仕業か!』

(盆前だからって、センス無いなぁこの見出し)

 盆と死霊。曾祖父のまた祖父世代あたりに昔そんな名前のB級映画があったことを思い出しながらページをめくると、事件の現場であろう工場団地の一角の写真が掲載されていた。この手の記事を読むたびにいつもの思うのだが、こんな現場写真に何の意味があるんだろうか。予備知識がなければただのゴミ捨て場の風景写真でしかない。

(ん?)

 本を棚に戻すべくページを閉じようとして偶然目に入った、ダストボックスの開口部とその手前あたりが細かく光を反射している事に気付いた。コンクリートで固められ、凹凸の無い灰色の地面に、光が白い粒のように点在している。フラッシュによる埃の乱反射とも違うようだ。

 一瞬手を止めて目を凝らすものの、それが一体何であるかの見当はつかないまま、静かに雑誌を棚に戻す。心なしか動かす肩が重い。やっぱりまだ体に疲れが滞留しているのだろう。

(こういうのって、効くのかな?)

 振り返った先にある栄養ドリンクの棚。その最上段に一列で展開されている緑色の瓶を何の気なしに手に取る。キャップにはうちのロゴが刻まれていた。


「て、てゅえ、りべ…?」


 ラベルを見て頭に疑問符が浮かんだ。商品名が大きくローマ字で書かれているものの、正しい読み方がわからない。

 ……これなんて読むんだ。由来を聞いてみたいものだが、自社商品とはいえ、この商品名の名付け親はわからない。

(まぁ、こんな置き方してるってことは、効くってことだよな)

 プラシーボだけを売りにするほどあくどい商売はしてないだろう。そう踏んでとりあえず籠に放り込み、今度は反対側の壁、弁当やらサンドイッチが並ぶチルド商品の棚へと進み、これまた適当に眼に映った塩焼きそばを放り込む。周囲には一向に同意を得られないものの、いかんせんコンビニの食べ物というのは味が薄くていけない。二列戻って味塩の瓶も籠に入れた。

 ――と。朝の食事も考えなければ。隣に面する菓子のコーナーに目をやる。

(今日は月曜……新作は明日か)

 仕方なしにうす塩味とコンソメ味のポテチを二袋入れて会計へと向かい、鞄を持つ手の反対側にレジ袋をぶら下げて店を後にした。

 外は完全に夜の帳が降りきっていて、いつの間にかアブラゼミの大合唱は止み、代りに時折思い出したかのように響くヒグラシの声が街にこだましている。その控えめな声に体感温度を下げられた気がして、それが後押しとなってどうにかマンションの前まで辿り着く事ができた。

(うー、体重たい……)

 黒を基調に外観が整えられた築三年の五階建て。エントランスの前には小さな広場までしつらえられた、二十代の若者が住むには若干不相応にも思える佇まい。これが会社の所有物件でなければ恐らく一生縁のない、いわゆるデザイナーズマンションというやつだ。

 柔らかな光に照らされ涼やかな水音を立てる噴水を迂回し、コンビニ袋を一度置いてドアの前に備え付けられたパネルに右の掌を翳すと、指紋認証スキャナのグリーンの光が指先から手首までをゆっくりと横断し、ピ、という軽い電子音と共にドアが開いた。


「げ」


 そのまま中に入ろうとした体を反射的に引込め、すぐに柱の後ろに隠れる。というのも俺の視線の先、集合ポストとエレベーターに繋がる道に、見覚えのある人影を視認したからだ。

(なんだよ、今日は早いな……)

 三吾だ。何号室かは知らないが彼女もまたこのマンションの住人である以上、この場所にいることは何ら不思議ではない。

 が、ほぼ毎日俺よりもかなり遅くまで残業している事もあって、こうしてエントランスで彼女の顔を見る事は年に数回でもあれば多い方だった。

 ――しかしなんだって今日じゃなくても。夕礼での課長との一幕が脳裏によぎる。あの時は鏑木の援護もあってうやむやに終わってくれたお陰で余計な口を挟まれなかったが、課のユートーセー様があのやりとりに気を荒立てない訳がない。

 ただでさえこのクソ暑い中疲れた体を引きずって帰ってきた挙句、安住の地目前にして昼の延長戦をカマされるのだけは御免被りたい。そのまま柱の陰に体を隠し、不審そうに振り返った彼女の様子を、踵を返して自室に消えていくまで慎重に伺っていた。

 廊下の突き当たりで響く静かな開閉音と共に気配が完全に消え去ると、思わず口から息が漏れた。もう一度ドアロックに手を翳して中へ入る。

 ……あれ?

 エレベーターのボタンを押し、籠が上昇を始めた頃、唐突に何かが頭に引っ掛かった。

(よく見なかったけど、彼女私服じゃなかったか?)

 意識してないものの仔細など曖昧なものだが、歩いていく彼女の姿はいつものパンツスーツではなかったように見えた。よくよく思い返してみると営業鞄のほかにもう一つ、一回り大きい黒塗りのジュラルミンケースのようなものをぶら下げていた、ような。

 この程近い会社と自宅の間でわざわざ着替えるだろうか。アフターにどこかへ向かうというのならばまだわかるが、あのくそ真面目な堅物が平日の、しかも週の真ん中で羽を伸ばすというのも考えにくい。そもそも一度自室に帰るなら着替えを持つ必要もない。


「ま、いいか」


 どうせ俺には関係ない。それより飯だ飯。

 エレベーターを降りて自室へたどり着くまで一通り思案し、結局しっくりくる答えが浮かんでこなかったので、俺は疑問を放棄してドアにシリンダーキーを差し込む。

 捻る手に伝わる感触と、かちゃんという開錠音と共に、その疑問はすぐに頭から消えて行った。

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