3『窓際 vs 令嬢 夏の22戦目』

 ……奴のお出ました。

 なるべく嫌そうな面を全面に押し出しながら不承不承振り返ると、予想通りの相手が立っていた。恐らく中身は顧客説明用の資料だろう。パンパンに膨らんだ営業鞄と、それよりも一回り大きい、自前で用意したであろうブリーフケースを両手に持ち、額に軽く汗をかいている。


「あぁ、お帰りなさい。外は暑かったでしょ?お茶でも飲みます?」


 こちらも遠慮せず口調に皮肉と険を込めて返し、ついでに飲み掛けのお茶を差し出すと、10人に1人の顔立ちに似つかわしくない――これも同期評。俺と正対する時は大抵この顔だ――苛立ちを込めた表情をさらに険しくした。無論彼女が冗談の通じないタイプであることは承知の上でやっている。


「そんなことだから、何時までたっても肩書だけの営業なんですよ。他の人に申し訳ないと思わないんですか?」


 声を荒げながら、しかし周囲に気にさせない程度の声量で罵られる。そんな彼女が冗談でもお茶を受け取るはずもない。反論を述べるのも煩わしくなって返答の代わりに手を引込めた。

 相変わらず口やかましく、しかもそれが鏑木と違って十中八九敵対的なのだからたまらない。席が隣同士だというのも、なおさらこの関係に拍車をかけていた。

 だんまりを決め込む俺に見切りをつけたのか、彼女は一際キツイガン付けをひとつかましてくると、隣の椅子を音を立てずに引いて腰掛けた。これ以上付き合ってまたちくちく何か言われるのも癪だ。俺は椅子をやや右向き、彼女の反対側に回して座り直す。


「ちょっと、なにこれ……石井さんっ!」


 そんな不干渉の意志表示も虚しく、女性特有のキンキンした声が至近距離で炸裂した。たまらず椅子を反対に向けると、彼女は内部回覧文書のバインダーを片手に憤怒の形相を浮かべている。


「なんで私の欄にあなたがサインしてるんです?!それにこのバラバラな束ね方!後から読む人の事をちゃんと考えてください!」


 ……なんだよそんなことか。

 確かに適当に目を通したせいでサインがずれてしまったことはこちらに非がある。だが俺と彼女のサインする箇所が入れ替わったとて、重大な不都合が生じる訳ではあるまい。加えて手に持ったバインダーを改めて見ても、大多数の人は別に気にしない程度の紙のズレだった。要するに、何かしらアラを探ってこちらを攻撃したってところだろう。


「そりゃ悪うござんしたね。三吾さん程のお心の広ーい方ならば気に留めずにいてくださるかと思ったんですがねぇ」


 背もたれに踏ん反り返りながら半眼で呻くと、彼女の相貌がいよいよ怒りの色を浮かべた。あくまで建前上は相手が正論を述べているので、俺に出来ることと言えば挑発くらいなものだ。気にするような事かと反論するのも、無視を決め込むのも彼女の性格上得策ではないことは、席替えを終えてからの三ヶ月で嫌というほど思い知らされている。

 ……しかし我ながら、土俵の違う相手によくここまでやれるもんだ

 相手のリアクションを待ちつつ、不意にそんな自己賞賛が頭に浮かんだ。喧嘩を吹っ掛ける相手はその名前とこの会社名が示す通り、所謂社長令嬢というやつなのだから。

 『三吾 美恵』俺に話しかける数少ない同期の一人……なのだが、鏑木とは違いその事実に全くありがたみを感じたことはない。

 特別待遇されて然るべき身分であるにも関わらず、彼女は他の同期と同じく正式な入社試験をパスし、女だてらに成績ナンバーワンの営業として活躍している。ついでに言えば自らの立場を鼻にかけることは全くないほど性格もよく(俺以外には)、同期のみならず社内の男全員からの人気もダントツに高い(俺以外には)。

 ――が、そんなこと知ったことか。彼女はこうやっていちいち突っかかってきてはどこぞの小姑よろしく重箱の隅をつついてはこちらを非難してくる。

 他人にどう思われようと気にはしない俺だが、かといって最初から彼女に対しこんな接し方をしていた訳ではない。しかし彼女は違った。初顔合わせの内定者懇親会からこの調子なのだ。

 確かに迂闊な問いを飛ばしたこちらにも非はあるし、勘違いだとすぐに悟った俺はその場でしっかりと謝った。だが彼女は頑として警戒と威嚇を緩めず、入社式を終えてもその態度が軟化することはなかった。そんな状況が二年も続けばまともな態度を取ることがアホらしく思えてくるのも無理はないだろう。生憎俺はジェントルマンではない。

 そんなこんなで段々と応戦に転じ、今ではこうして顔を合わせるだけでこうも険悪な空気を作り出すようになっていた。

 だが俺はひとっつも悪くない。こうなるように仕向けたのは紛れもなく向こうの過剰ともいえる敵愾心のせいだ。断言できる。鏑木もそう言ってたし。

 まさか今更謝罪でも期待しているのか。改めて振り返り自分に非がない事を確認している間も、奴はファイルを片手にこちらを睨み付けている。

 ……だったらお望みどおりにしてやろうじゃないか。


「モウシワケアリマセンデシタイゴキヲツケマス」

「んなっ――」


 発音を平坦に、かつ早口で。要するに反省の色を全く見せずに相手をバカにする気満々の口調で続けると、彼女の顔は怒りを飛び越え紅潮を帯びた阿修羅の形相へと変わった。でもシカトするけど。

 ざまあみろ。これを最後に一切の無視を決め込むつもりであったが――


「お前、せっかく三吾さんが注意をしてくれているのに!」


(またこのパターンか)

 彼女に向かってあさましくポイントでも稼ぐつもりなのか、わざわざ対角線上のデスクに座っていた佐原先輩が詰め寄ってきた。その顔はこちらに来るまでの間、常に注意するはずの俺ではなく三吾の方を向いている。

(少しは隠せ。暇人め)

 心の中で毒づく。どうせ自分がブサイクに同じことを言われたら同レベルの反応をするくせに。

 ともあれ、二対一となると分が悪い。鼻息荒い先輩はどうせこちらの言い分など聴きやしないだろう。俺は増援に挟み込まれる前に立ち上がり、改めて喚きだした二人を無視してとっととトイレに避難した。






 ※     ※     ※






「はーっ……」

 追撃を逃れるためわざわざ二階下のトイレまで下りて、個室のドアを閉めて溜息をつく。全く今日は運がない。朝の遅刻は言うに及ばず、こちらの虫の居所を悪くさせるだけの相手に三度も絡まれてしまった。課長、先輩、そして三吾。揃いも揃って俺よりずっと忙しい立場のくせに、よくもまぁそんな余計なエネルギーと時間を捻出出来るものだ。

 スラックスを下ろさずに便器に腰掛け、ポケットの端末を取り出す。午後3時。外訪をすべて終えるにはまだ時間が早い。ということはしばらくここに留まっていれば奴らはまた外へと出ていく筈だ。

(しばらく時間を潰すか)

 ロックを解除してブラウザを立ち上げようとして、未読のメールを知らせる通知が目に入る。一緒に表示されている送信者名に溜息をつきながら開く。


『FROM:母親

 SUBJECT:バイク

 お仕事頑張っていますか?たまにはメールを返してくれるとうれしいです

 このまえ和也がちゅうがたバイクの免許を取りました。よければ――』


 そこまで読んで俺はブラウザを立ち上げ、適当なネットサーフィンに興じる事にした。ニュースサイトを開くと正午に更新されたであろう新しい見出しが赤文字で躍っていた。


『日本、ドイツを抜き医療技術最先端の評価、WHO』

『Alkaline Lady、待望のベストアルバム発表。自身初となる欧州ツアーも決定』

『桂木コーポ、海外大手家電メーカーの株式を購入、子会社化へ』

『最悪の事故から三年、ALA社長ら追悼式に出席』

『奇花アンブロシア復元から二十年、節目に見るDNAサンプリングと医療のこれから』


(……あまり興味を惹かれないな。アルレディのは朝見たし)

 一つ目と三つ目の記事は仮にも最大手の製薬会社に籍を置くものとしては目を通すべきなのだろうが、いかんせん暇潰しに読むに適した平易な内容とは思えなかった。画面に指を置き下へと擦って、ページを繰るボタンにタッチする。


『バラバラ死体見つかる。体中に噛み傷?H市』

「うわ、なにこれ」


 思わず口に出し、置きかけた指をそちらに移す。僅かなロード時間の後、記事の全文が表示された。


『三日朝七時ごろ、東京都H市の工業地帯近くのビルの管理会社から『ダストボックスから異臭がする』と通報があり、駆け付けた警察官が開けたところ、中から男性の遺体が発見された。遺体は体の一部が欠損し、さらに右腕と左足が切断されており、ところどころに噛み傷のようなものが見受けられた。遺体は死後二日前後経っていると見られ、警察では死体遺棄・損壊事件、もしくは殺人事件と見て捜査を開始。身元の特定と付近住民への聞き込みを開始している』


 さすがに現場の写真こそなかったが、かなりえぐい事件だ。この熱気の中、それも通気の悪いダストボックスに死後四十八時間以上も放置されていたとなれば、現場の異臭と遺体の酷さは容易に予想できる。おおむね土日でビルに人がおらず、週明けに出勤した管理人が見つけたのだろう。

 彼を気の毒に思いながら、自分がこの記事を飯時に見つけなかったことを感謝する。更にその下の関連ニュースの項目へと指を滑らそうとすると、メールの到着を知らせる振動と共にポップアップウインドウが展開した。

(あ、鏑木だ)


『SUBJECT:無題

 悪い、田辺薬局の納品リスト印刷しておいてくれ。

 それと今日呑みにいかね?』


 いかにも彼らしい、余計な文句抜きに本題を伝えるものだ。この短さで二つのセンテンスを含められる感性にはある意味尊敬すら覚える。今日、というのは恐らく彼が今しがた思いついたのだろうが。しかし仕事の要件を含むのならば仕事用の端末を使えばいいものを……。俺が自前のものしかポケットに入れない性格を見抜いているのだろうか。

 ともあれ、副業を始めたというのに随分と余裕があるみたいだ。


『SUBJECT:re:無題

 了解。あそこの局長には野球の話題NG。2人目の子が生まれた事をとにかく祝いちぎれ。それと週明けから吞みはやだ』


 暇つぶしに読み漁った顧客資料の記憶からアドバイスを引っ張り出して付け加え、一度携帯をポケットに戻すが、すぐに端末が振動し、鏑木からの返信が来たことを伝えてきた。


『SUBJECT:re:re:無題

 よく覚えてんな……

 じゃ呑みは週末な。そろそろ一度戻るから資料よろしく』


(はいはい)

 心の中で返信して便器から立ち上がり、意味もなく水を流してドアを開ける。そろそろあの二人も再び外へと出た頃だろう。頼まれた資料のこともある。鏑木のいう『そろそろ』がどれくらいの猶予を示すかは知らないが、少なくとも彼に渡すまでの間は、周りの眼を気にせずにオフィスに腰掛けることが出来るというのものだ。もとより気にした試しはないが。

 ハンカチで手を拭きながら、ゆるゆると階段を登り始めた。





 ※    ※     ※





「本日の報告は、以上になります」


 六時半。チャイムが終業を告げ、再びオフィスに集合した営業が、一人ひとり椅子から立ち上がり、本日の営業成果の報告を役席に座る課長へと行っている。


「うむ、ご苦労。佐原は今月調子がいいな」


 報告を終えた先輩はお褒めの言葉を受けて、満足げに椅子に座り直した。

 俺に絡む時間、というか三吾へのアピールの時間を減らせばもっと伸びるんじゃないっすか、と心の中でアドバイスを送りながら、俺はぼんやりと窓の外を眺めていた。オフィスを一色に染めていた西日が迫る夜に追いやられ、辺りはだんだんと黒く染められていく。結局ほかに仕事を見つけることもなく、資料を鏑木に渡し終えた後、俺は夕礼が始まるまでその色の変化を刻一刻と眺めることに終始していた。


「次、三吾さん」

「はい」


 返事と共に俺の隣の椅子が動き、三吾がよどみない声で本日の成果を発表し始める。新薬導入決定3件に切り替え交渉進捗4件と内容は先の先輩を遥かに上回るものだったが、その声はあくまで成果を鼻にかけるようなことのない、静かで落ち着いたものだった。

 ちなみに声の元を向く気はハナからないため、その表情まではわからない。


「相変わらず目覚ましいな。その調子で他の者の仕事を奪わないでくれよ?」


 課長の声をと共に俺以外のデスクからは和やかな笑いが湧き上がる。ひとしきりそれが落ち着いたのち、瞬時に表情を変えてこちらを睨む課長が目の端に移り込んだ。


「……もっとも、奪われなくとも仕事のない者が一人いるがな、なぁ石井」

「本日は客先とのスケジュールが折り合わなかったため、止む無く成果はありません」


 立ち上がらずにいつもの決まり文句を返すと、課長の顔に渋みが走った。なら新規開拓でもなんでもしろと言わんばかりに睨んでくるが、動じることはない。恨むなら『お前のような不真面目な新人一人で新規なぞ不安で行かせられん』とのたまった六月の自分を恨むことだ。同行の為にスケジュールを合わせる気もないくせに。

(自分の成績と接待が第一で、俺に構ってる暇もないんだろ?)

 つい先ほどまでとは打って変わって不穏に静まり返るオフィスでしばし続いた俺と課長の睨み合いは、場の空気を読んだ鏑木の報告開始によって遮られ、これまた賞賛を受けた彼が席に着くとともに、夕礼も終わりを告げた。


「見てるこっちが冷や冷やしたよ。毎度のことだけど」


 帰る者と改めて客先へ向かうものとで喧騒を取り戻したオフィスで、鏑木が声をかけてくる。三吾と課長が席を離れたのを確認してから、俺は彼に向かってわざと大仰に笑う。


「本当、唯一の担当先が大口でよかったな」

「それに関しては自分の運の良さに感謝かなー」


 続く言葉に全く同意する。ペーペーの新人である俺が、端から見れば傲岸不遜以外なにものもない態度を課長に向かって取れる理由はそこに起因しているのだ。俺がただの一件担当している病院というのが、実はこの会社が抱える営業先の中で最も取引額、業態規模ともに最大のものであるという事実に、俺の身はがっちりと守られている。

 通例として一定の取引規模を越えていたり、長く懇意にしている先というのは役席を始めとするベテランが担当するものだが、この総合病院だけは特例として俺が担当している。

 そこは三吾社長の親類が院長を務める病院で、俺が営業に配属されるなりどういうわけか担当に俺を指名してきた。それも院長直々のお達しというのだから、わが身に起こったことながら驚きを通り越して理解に苦しむ。H市どころか東京でも比肩するものの無いほどバカでかいその病院は、定期的にそんじょそこらの町医者や薬局では束になっても叶わないほどの発注を出してくる。そして必然、その成果は全て俺一人の手によって上げられたものとなる。

 おかげで夕礼でただの1回もお褒めの言葉を頂いた経験のない俺が、4半期に1度出る営業成績順位表では常に上位をキープしているのだ。流石の俺とてこの状態は流石に真面目に頑張っている連中に申し訳ないと思わないでもない。

 思わず『外出中』のプレートが置かれた左隣のデスクに目が向く。こういう話に真っ先に噛みついてきそうな彼女は不思議とこの件について何か言ってくることはない。……奴の性格なら上長に異を唱えるくらい平気でやりそうなもんだけど。


「なぁ、そこ俺に譲ってくれよー」


 後ろから妙になよなよしい声が掛かり、俺は鏑木へと視線を戻す。冗談めかしているつもりだろうが、さっきの話を聞いていると少しばかり声が真に迫っているように聞こえるぞ。


「俺が不祥事やらかしてクビになったら考えるよ」


 適当にはぐらかし、俺はデスクのPCをシャットダウンし、立ち上がる。


「帰るのか?」


 足早にエレベーターへと向かう俺に、これからまだ幾先か回るつもりなのだろう。再び鞄に資料を詰め込み始みながら鏑木が訪ねてくる。


「まぁ、やることもないしね。何か必要なら手伝うけど?」

「んー……」


 問い返された彼はしばし考え込んでいたが、結局は俺に出来るレベルの些末な事は無いということなのだろう。


「残念、時間切れだ」


 彼の性格上言葉に出しにくいそれを察して、俺は開いたエレベーターの中へと歩を進めた。

 

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