2『たのしいおひるじかん』
「今日はまた、随分とこってりやられたな」
昼前。やっとのことで解放されふらふらとデスクに座った俺に、隣から呆れ半分の声が掛かった。
「週礼がないのは、来週だったか」
向き直らずに漏らし、眼前に山と積まれた書類を手に取り、束ねているクリップを外す。何せあの直後に落っこちた課長の雷は、俺を別室に引きずって行き今の今まで続いていたのだ。とりあえずこいつをさっさと次の席に回さなければ、またいらん事で絞られてしまう。
(MS営業成績報告期限、外勤向け検診のお知らせ、社内懇親会出欠――あ、これは欠席と)
内部向けの回覧文章に一通り目を通し、閲覧済みを示すサイン欄を雑な字で次々と埋めていく。
「しかしお前も懲りないっつーか、図太いというか……今期入って何回目よ?遅刻。俺たちまだ三年目だぜ?」
「遅刻はまだ四回目だよ。四か月そこそこでこの回数ならいい方だろ?」
内容こそ叱責ではあるが、そこに棘はない。どちらかというと昼休憩までにちょっとだけ空いた時間を埋めるための、適当な話題を振っているように思える。
文書をクリップで束ね直し、左隣の席に放ってから、俺は背もたれに寄りかかりながら彼の方へと椅子を回転させた。
「それは学生の言い分な。社会人はゼロが当たり前なんだよ。このままじゃ確実に出世コース外れるぜぇ?」
向き直るのを待っていたかのように、彼が言葉を続ける。やはりそこには別室での課長のような険は見て取れず、同期が落ちこぼれる事を単純に心配しているだけだという事が声色と表情に如実に表れていた。
入社懇親会で知り合ってすぐに感じたことだが、彼――鏑木直人にはおせっかいというか、人の事を気にしすぎる気質があった。そんな態度を同期のみならず後輩全員にまでとっているというので、まるで学級委員長みたいな印象を受ける。事実それを煙たがる人間も一部にはいるらしい。
他人を気にする余裕のない俺から見れば、全く頭が下がるというか。とかくそんな性分が幸いして――災いして?――、こんな勤務態度を3年続けている自分にも、未だに気さくに話しかけてくる数少ない友人のひとりだった。
「別にいいよ。手取りは今の額で結構満足してるし、役席になって無駄に残業するのも勘弁だしさ」
まだ何か言いたそうな彼を尻目に大きく伸びをすると、ちょうど正午を告げるチャイムがオフィスに鳴り響いた。それまで周りでせかせかと動いていた人達も、作業がひと段落つくに従って三々五々昼食を取り出し始める。俺も周りに倣ってデスクの脇に置かれたチェストのいちばん下を引き出した。というかいつまでも学生気分でいるなと言うなら、まずこのチャイムの音を変えてはどうだろうか。
「……また『それ』か?石井」
まぁそれはさておき呑気に昼飯の支度を始める俺に、これ以上は効果なしと見たのか、鏑木が話題を変える。自分のランチバックを開ける手を止めてまで、うげぇとでも言いたげな表情を浮かべて俺が取り出したポテトチップスの袋を指さしてきた。
「腹が膨れればなんだっていいでしょ。好きなの。コンソメ」
意に介さず袋に指を掛け、バリっと景気よく開ける。思いのほか良く響くその音に、四月の二週目あたりまでは同室にいる全員が振り向いたものだが、今となってはそれが日常に染み付き過ぎて気に留める者は誰もいない。目の前の鏑木を除いて。
「味の問題じゃねえよ。高血圧で死んじまうぞ」
鏑木の心配性もここまで来たら流石に鬱陶しくなってくる。いつかの心配に今の意志を妨げられるには、俺たちはまだ若すぎるだろうに。
「外勤中に倒れたら、労災下りるかな」
我ながら的外れな心配をしながら袋に手を突っ込み、二,三枚つまんで口に放り込む。奥歯で勢いよく咀嚼すると、今度は口の中だけに小気味のいい音が鳴り響いた。開いている左手でペットボトルのお茶を手に取り、腿で挟んで固定してスクリューを回す。
「全く……」諦めの溜息と共に呟いた鏑木が、改めて自分のランチボックスを開けた。お茶を傾けながら脇目に見たそれは、学生時代サッカーでいいところまで行ったという経歴も納得といえる、見た目からモロに体育会系な彼が持ってくるには幾分不釣り合いに見える。色鮮やかでかわいらしく、それでいて栄養にも十分気を配らせている事が見て取れるもの弁当だった。
「今日も愛妻弁当っすか」
飲み下しがてら開いた口で茶化してみると、鏑木はいつものように照れ笑いと若干の苛立ちを同時に表出してみせる。
「まだ結婚してねーって何回言わせんだよ」
そんなことを忘れる程耄碌してはいない、これは俺と鏑木の間で昼食の合間に交わされる定型的なやり取りなのだ。彼女バカともいえる程に恋人を溺愛している彼をこういった具合にいじると嬉しさと照れが同居し、俺にとってはそのくるくる回る表情がおかしくて繰り返しているうち、すっかり昼時のお約束となっていた。
「どうせ決まっているようなもんでしょうが」
俺の返しに続いて鏑木が「まだわかんねーだろ」と肩をばしばしと叩いてきて、このルーティーンは終わりを告げる。俺はあえて叩きやすい位置にさりげなく肩を前に出していたのだが、今日はいつもと様子が違った。
「まぁ、そうなんだけど、よ」
恥ずかしさが臨界に達したのか、箸を咥えたまま鏑木が俯く。
おやおやこいつは。俺はある予感を胸に、しかしあえて口には出さずポテチひと掴みを口に運んで黙って続きを待つ。
「再来月に、決まった」
「マジ?」
予想通りというものの、同年代の結婚報告というのはある種不可避の驚きがある。
「プロポーズ、した。両親とも挨拶、した」
まるでレトロフューチャーのロボットか、渋谷あたりによく居る怪しい外人のようにカタコトになっている。垂れた前髪の向こうはきっと真っ赤になっているのだろう。
「道理でここ最近頑張ってるわけね、へぇー。おめで――」
「声がでけぇよ!」
顔を上げた鏑木に朝と同じように言葉を引込められ、うかつにも出しっぱなしだった肩をいつもより強く叩かれた。お定まりを消化したからか、それとも恥ずかしさがオーバーフローしたのか、俺よりも数段大きな声を張り上げた後の鏑木には、いつもの照れ笑いが戻っていて、箸を運ぶペースも元通りになっていた。なんとなく乾いた笑いを残して、俺も残り四分の一ほどとなったポテチの袋を傾けた。
……と。残りを流し込もうとして傾けた頭が、ふとあることに引っかかった。とりあえずすべて口に納めることはあきらめて、首を戻して問いかけてみる。
「あれ、ってことは相手方」
鏑木も俺の疑問に察しがついたのか、軽い首肯を返してきた。
「ああ。彼女も彼女の両親も納得してくれた。大変だけど、そんな自分を支える相手に娘を選んでくれたことが嬉しい。ってさ」
なるほど、鏑木の伴侶候補だけあって、本人もその両親も人間が良く出来ているようだ。
しかし、俺が訊きたいことの回答としては50点といったところ。俺が軽く首を捻ると、彼も俺の疑問の残りを察したようで、しかし自ら回答を口にすることを躊躇っている様子で、昼時のオフィスに視線を彷徨わせる。
鏑木の母親は重い病気を患っていて、治療には長い時間とかなりの金がかかるという話を、以前本人の口から聞いたことがある。彼曰く、ほかの企業と比較してもかなり上の方に来るこの会社の給料を以てしても、治療費を賄いつつ新しい家庭を維持していくだけの財力はとてもじゃないが捻出できず、それが求婚の大きな妨げとなっていたはずだ。
仕事に没頭し残業手当を多くもらったところでどうにかなる額ではないと聞いていたが――
「義理の両親に援助してもらう、のか?」
「なワケねぇだろ」
予想通りの返答。こいつはそういう奴だ。例え甘えられる他人が手を差し伸べていても、自らの望みのために迷惑を顧みることなく物事を推し進めるような人間ではない。
俺がほかの回答を頭からひり出そうとしていると、ランチボックスを片付け終わった鏑木の顔が、額がぶつかるほどにずいとこちらに来た。反射的に椅子ごとのけぞりそうになった俺の肩に、がっしりとした右腕が素早く回り込む。
「実はさ、副業始めたんだよ」
「あー?」
別に、社則には副業禁止の規定はない。現に昼休憩に堂々と私用のPCを開いてなにがしかやっている輩までいるというのに、何をこいつはこんな暑っ苦しい真似をしてまで声を潜めるんだ。
「いや、副業っていうのも違うな……詳しくは言えないけど、この会社でやっている事を手伝ってる。兼務、って言った方が正しいわ。こないだ部長に呑みに誘われてさ、なんとなくこの話になったら誘ってくれたんだよ」
やけに周りを気にしながら口早に語る鏑木。その兼務とやらがそんなに他人に知られたくないのだろうか。
まさかグレーゾーンぎりぎりの仕事の片棒でも担いでいるのか。というかそんなやばいことをこの会社はやってるのか。肩に組まれた腕の強さに抵抗を諦めた俺が、早口でその疑問をぶつけるが、帰ってきた返答は意外なものだった。
「いや、別にやましいことでも口止めされてもない。国の認可を受けてる事業だよ。正確にはその事業の基盤づくりってとこかな。まぁなんだ。コレがかなりいいもんで、周りに知られたくないんだわ」
言いながら鏑木は人差し指と親指で円を作り、鳩尾の前あたりに置く。
「お前なら、金とかそーゆーのに興味なさそうだし」
なるほど、そこまで聞いても確かに興味は沸いてこない。それよりもとっととこのホモにも間違われかねないスクラムを解く方が優先に思えた。だから鏑木も俺には言ってもいいと判断したんだろうけど。
「なるほど、とかく金銭面の問題はクリアしたから、いよいよってわけか」
話を戻した俺の意図を察して、鏑木がようやく俺の肩から腕を外した。視線を上げると時計の針が半周程進んでいる。周りはあらかた食事を終えて仕事の準備をするもの、読みかけの電子書籍を開くもの、それぞれの形で残りの休憩時間を過ごしている。
「あ、やっべ。午後イチで1件回らねぇとだ」
それを見たなり慌てて鞄を手に取り、書類を突っ込みだす鏑木を見ながら。もはや欠片しか残っていないポテチを一気に流し込む。
「いってらっさい」
背広をひったくり足早にエレベーターに向かう背中に声をかけると、鏑木は恨めしそうに振り返った。
「いいよなぁ。まだ1件しか担当無いMSさんはよぉ」
「お前の言うとおり、出世と金に興味はないんでね」
皮肉をひらりと交わした俺にまだ何か言いたげな鏑木だったが、開きかけた口を間の抜けたベル音と共に開いたドアに妨げられ、鏑木は渋い顔を残してドアの向こうへと消えて行った。
階層を表す光が左へと流れて行ったのを確認して、デスクへと向き直り大きな欠伸を一つしながら、丸めたポテチの袋をゴミ箱へ向かって投げる。緩い放物線を描いて、丸みを帯びた縁に当たって力なく中へと吸い込まれると同時に、午後の始業を告げるチャイムが鳴り響く。
窓の外は目がくらみそうになる程輝く太陽が『これからが本当の地獄だ』と言わんばかりに照り付いて、アスファルトに陽炎を作り出していた。
……こりゃ外勤は大変そうだ。かくいう俺も一応肩書は営業、外勤担当なのだが、生憎というか幸運にもというか今日も外訪活動の予定はない。デスクに向き直り周りに倣ってPCをサスペンドから復帰させるが、特に急いで作るべき資料もなく、結局意味もなく2、3度マウスを動かして手を離した。
――客先が少ない営業なんてこんなもんだ。自分から望んで落ちこぼれているとはいえ、やる事が皆無というのもこれはこれで苦痛である。まぁ、会社のために身も心も削って尽くす気など毛程もないし、あまつさえその結果体を壊す奴の神経が理解できない俺にとっては贅沢な悩みなのだが。
んじゃあ雑務の手伝いは、と……適当に辺りを見回してみる。
電球、全部点いてる。コピー機、さっき補充してた。備品発注、業者が休みだ。プラントの水やり、昼前にこなした。
OK。俺は今完全にやる事がない。時計を見てもまだ退社時間まではゆうに5時間はある――
「随分とお暇そうですね?涼しそうで何より」
さて、なんとするかと気怠く椅子にもたれかかった背中に、鏑木のそれとは正反対な冷たい声が掛かった。
鏑木を含め同期の男全員が口をそろえて『声だけで落ちそうになる』ほどの細く透き通った美声らしいが、俺にとっては単なる皮肉を乗っけた空気の振動に過ぎない。
――出たよ、もう一人の学級委員。
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