第1相

1『モノクロの夢と灰色の生活』

 ――輪郭はひどくはっきりとしていると言うのに、色がない。


 まるでモノクロ写真の中を彷徨うように、体は勝手に進んでいく。意思は茫漠とし、ゆっくりと流れていく景色の先が果たして進みたい方角なのかも判然としない。

 いや、それ以前にどこに行きたいのか、そんな意志があるのかどうかも解らないのだ。景色が僅かに上下し、その度に一歩分の景色が後ろへと流れる。響く足音が必要以上に大きい気がするのに、脚が浮き、そして再び地につく、そんな当たり前な感覚が欠落していた。

 ひとつでも情報を集めようと――こう言ってしまうのも不思議だが――初めて俺は自分の意思で体を、正確には一向に前しか映し出さない視界を右斜め下に降ろすため、首を動かそうとした、はずだ。

 しかし、しばらくの間念じてみたところで、相変わらず視界は前を向き続けていた、そも、自分の体を動かすと言う事は、これほどまでに意識するものだろうか。まして、全く意のままにならないと言う事があるのだろうか。

 そんな考えを巡らせていると、急に右耳のすぐ近くで誰かの声が響いてきた。その声を諌めるもう一つの声も、酷く浮足立った様子までも理解できると言うのに、その言葉の意味を噛み砕く事がどうしても出来ない。目の前で外人二人が表情豊かに話しているのを見た感覚、とでも喩えればいいのだろうか。聞こえてくる音声が日常的に使うもの、日本語であること以外はその例えが正しい気がする。

 ややあったのち言い争う声が一度途切れる。再び一定のリズムで刻む足音を三度聴いた後、もう一度右耳のすぐ傍から、感情を押し殺した事務的な短い声が響いた。

 それをきっかけとして、急速に意識が遠のいていく。


 ※    ※    ※


 再び意識を取り戻した後も視界に色はなく、相変わらず俺は何所かを歩いている。

 ただ、モノクロの風景と聞こえてくる音には変化があった。足音と声の代わりに止む事のない風音が絶えず鼓膜を揺らし、視界の半分から上は一面の黒、その下は中央に引かれた一本の白い線を境として、その中に等間隔に縦長の黒い長方形が並べられた格子状の白が視界の端まで続いている。足下はまた白に埋め尽くされており、それを等しく正方形に分けるような線が刻まれていた。

 それが転落防止の柵に囲まれたビルの屋上に立っているのだと理解する、その数秒の合間に体がひとりでに動き出し、視界がまたゆっくりと後ろへ流れていく。足音は吹きつける風に掻き消されているのか、まるで聞こえてはこない。

 だんだんと柵へ近づく俺の耳に、今度は両耳を突然悲鳴が突き刺した。顔を顰めたくなる程の声量にも体は全く動じる事なく、ただゆっくりと歩を進めていく。

 規則正しく並んでいた黒と白、そして格子が、いつの間にか歪な曲線に白くくりぬかれている。視界の下から何かが映りこんでくる。それは前へと伸ばす俺の腕。

 伸ばした先にあるその曲線が人の輪郭だと気付く前に、五つの鋭い痛みが走る。突然白い影が猛然と迫って来て、右腕を掴み爪を突き立ててきたのだ。

 思わず顔を歪めた――はずなのに、微塵にも狭まろうとはしない視界と、一杯に広がる白い影。その中央にふたつの赤い光が爛々らんらんと輝いている。

 それは瞳だった。その端に涙を溜め、世話しなく動く唇に形を目まぐるしく変えている。


 何を訴えているんだ。

 お前は誰なんだ。

 俺は、何をしようとしているんだ。


 必死に問いかけようとしても、自らの意志では決して開かない口。そして、制しようとしても決して止まらない腕がゆっくりとその頭を掴み、体を入れ替えて俺の歩いてきた方へと向け、左腕が髪を掴み、その顔を上げる。

 一瞬の間を以って、掴む誰かの体がびくりと震えた。それきり影の力が抜け、崩れるように俺へともたれ掛るその重さに引き倒された。

 叩き付けられる体。しかし意識だけは止まらずに床を抜け、どこまでも落ちていく――。






 ※     ※     ※





 携帯端末が立てる耳障りな電子音のループがきっかり四回。そこで俺の意識は引き揚げられた。

「ん……」

 首元にまとわりつく汗まみれの後ろ髪がうっとおしい。寝ぼけ眼で枕元に置いてあるスポーツタオルを手繰り寄せ、張り付いた皮脂を剥がすように乱雑に首筋をふき取ると、ひりついた痛みが走った。

「うわ」

 タオルを目元に持ってきて思わず声が出た。昨日は余程暑かったのか、黒い生地に肌からふいた塩がくっきりとこびり付いている。寝間着代わりのTシャツからも嫌なぎしつきを覚え、未だベッドへの回帰を求める体を剥がして立ち上がった。

 遮光カーテンを開けると、なるほどこの汗も納得といった強烈な日差しが部屋に差し込んできて、その眩しさに瞼が降りる。朝日に自分の体が照らされ、そこで初めて塩を吹いているのは首筋だけではない事に気が付いた。脱いだシャツの背中にも白い紋が浮き出ている。

 このままスーツに着替えるのも気持ちが悪い。段々と覚めてきた頭で替えの下着とスラックスだけ取って風呂場へと向かう。途中で脚を引っ掛けたベッドから何かが布団の上に落ちるような軽い音が聞こえたが、特に気に留めることもなくリビングを後にした。

 擦りガラスの戸を閉めてシャワーのノブを捻ろうとすると、脱衣所から止めたはずのアラームが再び鳴り響く。それはもう家を出ないと間に合わないぞ、というカシコイ自分からの最終警告を込めたスヌーズだった。

 だが今日は朝礼がないのでもう少し余裕がある。あってもなくてもお小言を言われるだけの全体朝礼など出たくはないのだが……。

 籠の中で洗濯物に混じって暴れる端末を濡れた手で止め、戻って体を洗いに掛かる。ボディーソープを落とし終え、頭にシャンプーをつけたところで三度端末が鳴り、思わずつぶっている眼を更に強く顰めた。三度目の警告を設定した覚えはない。となればメールか着信か……。

 取り急ぎリンスを流し終えて、バスタオルで頭を拭きながら端末を覗き込むと、ひとりでに眉が潜んでいくのが手に取るように解った。

 それは一重に通知画面に表示されたメールの差出人名のせいに他ならない――母親からだ。どうせ内容はいつもの表面上だけ取り繕った気遣い文句だろう。

 溜息を一つ。本文を見ることなく通知を消去して脱衣籠に放り込み、俺は体を拭き始めた。


 ※    ※     ※


 昼食の袋を下げてコンビニから出て、改めて小道を抜けて車の往来が激しい大通りへと出る。遅ればせながら、恐らく自分と同じように会社に向かうスーツ姿の人々が成す列に体を滑り込ませる。無意識に早める歩みで早くも背中に張り付いたシャツが、残暑の厳しさを物語っていた。

(間に合うか……?)

 最早遅刻も不思議ではなくなった時刻を示す腕時計に目を落としながら悔やむ。いくらアルレディ関連のものとはいえ朝のニュースをゆったり見過ぎたか。『研修中』と書かれた店員のレジに並んだのも地味に響いている。

 というか、それ以前にいくら督促が来ていたとはいえ、今思えば実家に置きっぱなしで長い事乗っていないバイクの任意保険なんて急ぐ必要はどこにもなかった。

 いっそもう手放してしまおうか……。どうせ乗れないんだし。

 回る針を見つめながらそんな事を考えていると、文字盤の傍にはいつ着いた物か分からない蚯蚓腫れが薄く浮かび上がっている事に気付いた。原因を思い返そうとしても頭がうまく働かない。いつもならば会社の最寄り駅を降りて、目の前を流れる車列と人いきれを見ているうちに頭がだんだんと目覚めてくるのだが、今日は違った。

 あの夢を見た翌日はいつもこうだ。いつまでも頭を覆う靄が晴れない。疲労にも似た倦怠感のおまけつきで、朝からこちらのやる気を削いでくる。

 ――色のない世界を延々と彷徨う夢。いつからか俺はそれを幾度となく繰り返し見るようになった。その間隔は全く持って不定期で、二日三日と連続して魘される事もあれば、一月二月と間が開くこともあった。

 そして、その夢から目覚めた翌日は決まって倦怠感が体を支配する。やる気も気力も起きた時点で五割ほど削り取られていれば、誰だってちょっとした遅刻ごときで小走りする気にもならないだろう。

 まぁ、俺の場合は元の数値が人よりかなり低いとは思うのだが。

 しかし、あれはどこだったのだろう。猫背のせいでいつもうつむきがちな視線を上へ向けてみたが、遠くに望む電線に切り取られた夏空に向かって生えるビルの群れはいずれも丸みを帯びており、今時角ばった、それも無骨な格子のある屋上などそうある筈もない。

 ……あれ、格子なんてあったっけ。

 そもそも、歩いてたのはビルの屋上だったっけ。

 考えれば考える程、記憶を探れば探るほど逆にその輪郭は朧になっていく。この夢の不気味なところの一つだ。目覚めて一時間も経たないうちに見ていたモノクロの風景も記憶から抜けていき、しかし『夢を見た』という事実だけは消えることはない。もともと記憶力に自信があるわけではないが、そんなに急激に忘れて行くならばそんな夢を見たこと自体もとっくに忘れていいはずだ。

(こっちもカウンセリングにかかった方がいいのかな)


『不気味な夢を見るんですけど、内容を忘れるんです。でも見たことは忘れないんです』

『……で?』


(俺が医者ならこう答えるしかないよな)

 あほくさ。結局今日も詳細を思い出すことを諦めて視線を戻すと、すでに景色は生活感を排したオフィス街へと変わっており、考えている間も歩を進めていた体は会社のある通りにまで差し掛かっていた。時計の長針はさっきより九十度ほど傾いている。

 ギリセーフ。その中でもひときわ目を引く、清潔感のある白を基調とした馬鹿でかいビルの自動ドアの前に立つ。

『株式会社BE=SANGO』

 レーザーマーキングで刻まれた無機質なゴシック体が横にスライドし、その中へと一応慌てていた感を演出するように体を滑り込ませる。


「今日も遅刻ですか」

「いや、今日は週礼がないからセーフ」


 冷ややかな受付嬢の視線を受け流しながら、駅の自動改札にも似たゲートに社員証をかざし通り抜けて、エレベーターのボタンを押す。他の人たちはすでにデスクに座っているのだろう。しばらくしてドアがやっと落ち着いたってのになんだよ、といわんばかりに開いた。開閉のボタンを押す頃、後ろから間の欠伸が聞こえてきた。受付嬢のものだろう。卸への外訪と違い、うちに来る形の商談が始まるのは早くても10時からだし、重役以外の社員の中では最後に出勤するのは間違いなく俺だ。彼女はこのエレベーターよりもひと足早く、朝の役目を終えたって所。気が抜けるのも無理はない。

 デスクがある5階のボタンを押し、こちらもひと息。僅か体に掛かるGを感じながら、備え付けられた空調の涼やかな吐息を、胸元をはためかせて受け止めた。体の汗が引く頃に頭上からチン、と軽いベルの音が響く。今日は言い訳をあれこれ並べる必要もない。代わりに喉から込み上げるものがあった。受付嬢に影響されたかな。


「ぅおはよーござ」


 欠伸と共に喉から出かけた挨拶は、開いたドアの向こうに広がっていた光景に押し戻された。いつもならば各々に配備されたデスクに座り、PCに向かっているはずの同僚たちが、背筋をぴんと伸ばして役席の方を向いている。


「目は覚めたか。石井」


 唯一エレベーターの方を――同僚の方を、とも言う――向いていた課長の声が僕を射抜き、次いで前を―課長の方を、とも言う―向いていた二十四の瞳が一斉にこちらに向いた。


「あ、はは……おはようございます」


 乾いた笑いに揺れる汗の引いた背中に、今度は寒気が走る。

 ……ここ、こんなにエアコン強かったっけ?節電がどうとか言ってなかった?


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