C『クソ飲み会エレジー』

「それでは、第十三期新入社員、外訪スタート研修修了を祝して……」


 一人立ち上がった幹事がそこで言葉を切り、辺りを見まわしたので、俺は仕方なくグラスを顔の前に上げた。それを見た幹事は満足そうに頷くと、グラスをビールがこぼれそうなほどに勢いよく高々と掲げる。


『かんぱーい!』


 長机を囲むみんなの声が重なり、めいめいにガラスの触れ合う音が響き、それが合図となって一気に騒がしい話声があちこちで生まれた。人知れず、そして恐らくたった一人音頭の声を出さず、また誰ともグラスを合わせずに、俺は一口ビールを煽って、そのままコースターに戻した。

(何がそんなに嬉しいのやら)

 華やぐ周囲とは対照的な、渋い表情を浮かべているのが自分でもわかる。たかだか座学を半日受けただけで達成感にでも浸っているのか、それとも営業という肩書が着くことがそんなに誇らしいのだろうか。


「とりあえずは三十までに管理職だね」

「俺は海外の支社に出たいかな。とくにドイツ」

「私も!」


 ところどころからそんな気の早い展望を語る声まで聞こえてきて、俺は更に辟易した。声の元へと目をやれば、そいつらは一様に異様なほど瞳を輝かせている。そんな彼らの心情は例え一生掛けても理解できないだろう。そんなことを思いながら、俺は唯一手の届く範囲にあるキュウリの浅漬けを、苦虫と共に思いっきり噛み砕いた。

 ――営業だぞ、営業。営業って言ったら日がな一日客先回っておべっか使って、定時?なにそれどの国の言葉?とばかりに笑いながらパワハラに耐えて、内外のいい年こいたオッサンにへこへこして、数字が取れなきゃ内部でも吊るし上げ。そんなイメージしかない俺にはあんな喜色に満ちた顔で今から仕事や目標について今から語る人間なぞよほどのドMにしか思えない。

 そして、来月から自分が否応なしにその身分になってしまうかと思うと、憂鬱で憂鬱で仕方なかった。本当なら残り少ないであろう定時退社の日にこんな飲み会になど顔を出したくもない。何が強制参加だ畜生。


「あー……事務に戻りたい……」

「つまんなそうな顔してるな、石井」


 誰にも聞かせないつもりでひとり呟いた声だったが、それに耳敏く反応してグラスを持ってこちらに寄って奴がいる。さきほど乾杯の音頭を取った幹事だった。


「せっかく割り勘なんだし、飲まないと損だぞ?」

「こういう酒はあんま得意じゃないんだよ」


 的外れな心配をする彼をとっとと追い払うべく、できるかぎりそっけない対応を見せたのだが、どうやら効果はなかったようだ。長居する腹なのか、彼は隣の女との間に出来ていた僅かに開いたスペースに、半ば無理やり腰を下ろした。既に何回かグラスを空けているのか、若干どころではないレベルで顔が赤い。そういえばこいつ下戸じゃなかったか。


「だったらほら、ピザ食えピザ。取ってきたから」


 グラスと一緒に持ってきたらしい、目の前に差し出された取り皿の上では、溶けたチーズとサラミの乗ったピザの切れ端が湯気を立てている。ついでに何品かのつまみがきれいに添えられているところを見るに、俺の為にわざわざ盛ってきたらしい。


「あー……じゃあいただくよ。サンキュな鏑木」


 正直、浅漬けばかりつまむにも飽きてきてはいた。が、それ以上に好意を無下にするのも悪いと感じさせるほどの笑みが、俺に濁った笑顔を返しながら皿を受け取る以外、選択肢はないように思わせた。こういう細かい気の回るところが、彼が幹事を任される所以なのだろうか。

 ……こういうタイプは営業もうまくこなすんだろうな。

 流麗に仕事をこなす彼の姿をぼんやりと想像しながら、岩塩の入ったミルに手を伸ばし、小皿の上でごりごりと音を立てて削っていく。


「掛け過ぎじゃね……?」


 皿の上の色調を変えてしまうほど盛られた塩に明らかに引いたような表情を浮かべる鏑木に構うことなく、俺はピザを口に放り込む。これでも薄いくらいだ。


「……営業、行きたくないのか?」


 こちらから特に振る話題もなく、ビールを流し込みながら延々とつまみを頬張っていると、さっきの独り言を聞き逃さなかった鏑木が改めて訪ねてきた。俺は嚥下しながら頷き、未だ将来の話で盛り上がっている周囲を一瞥して、大きな息をつく。


「あくせく数字に追われるより、のんびり中で資料でも作ってる方が性に合ってるよ」

「じゃあなんでこの会社入ったんだよ。しかも事務職じゃなくて総合職希望で……」


 それを言われるといかんせん正論過ぎて反論のしようもないのだが、こちらにも事情というものはある。


「ここしか受からなかったんだよ」


 ――が、あまり口に出したくもないので適当にはぐらかす。まぁ、この会社しか受からなかったって事自体は嘘ではないのだが。


「それはそれで、すごいとは思うが……せっかくなら、じゃんじゃん稼いで出世したいとは思わないのか?」


 そんな俺の返答は今一つ彼のお気に召さなかったようで、手に盛ったグラスを煽りながら食い下がってくる。


「男だろ?」

「前時代的ね」


 鏑木は酔っぱらうと若干面倒くさい、と。そんな新たな側面を心に刻みながら、俺はそっけなく返した。


「なんか目標でもないのか?」

「目標……ねぇ」


 そう問われて初めて、俺は別にさしたる希望もなくここにいることに気付いた気がした。そんなことは経営学部出身の俺にとって、畑違いにも程があるこの製薬業界に入った時点でわかりきっていたのに。


 ――そういえば『将来の夢』って欄を埋めたことがないや。

 ぼんやりと昔を思い返しながら、残り半分になったビールを口に運びつつ辺りを見回す。酒に頭を侵され始め、殊更に青臭い展望を語る口に熱を帯び出している連中は皆、ここに入る前から自分の未来予想図を立てていて、その意識の差こそが俺との決定的な温度の違いを生んでいるのかもしれない。

 世間的に見ればどちらが立派かなどは語るまでもないだろう。それでも俺には、どうしてもあの枠組みの中に自分が入っていく想像が出来なかった。

 言われたことをこなして、決まった日に金を貰って、その中で感じられる満足を享受しながら漫然と生きる。無駄な苦労は背負い込まない。それの何が不満で、彼らは未来の自分にまで義務を課しているのだろう。ノルマなんぞこれからさんざん味わうというのに。


「気楽に生きれればそれでいいのに、難儀なもんだ」


 目の前の鏑木もその一人だという事を忘れて、そんなことを考えながら自然に口からこぼれた一言は、あるいは嘲笑に見えたのかもしれない。少しむっとした様子で鏑木が口を尖らせる。


「なんも目的無い人生送ってたら、死人と大差ないぜぇ?」

「死人て――」

「おい鏑木ぃ!こっち来いよー!」


 そりゃオーバーに過ぎるだろ。そう続けようとしたのだが、不意にテーブルの対角線上からガラの効いた声で声が掛かった。二人してそちらを向くと、すでに出来上がっている赤ら顔の陽気な一団が、空のグラスを持ったままこちらに手を振っている。


「ほら、お呼びだ。行ってきなよ」


 しかし彼ら全員、視線と声を鏑木に『のみ』向けている事を悟った俺は、だんだん温くなってきたビールを苦心して飲み下しながら、視線を合わせずに背中を押してやる。鏑木は戸惑いながら俺と彼らを交互に見ていたが、やがて遠慮がちに腰を上げた。

(ま、俺と居るよりあっちに混ざった方が似合っているよ、お前は)

 再び一人取り残されて、俺は空になったグラスを置いて皿に残った唐揚げをぱくついていると、酔っぱらって声が大きくなったのか、鏑木が混ざった集団の声が耳に入ってきた。


「よくあんな根暗と一緒に居られるよなぁ」

「いや、あいつあれはあれでいい奴――」

「つか、ありえなくね?入社早々――」

「しかし鏑木達はわかるけど、なんであいつも本社勤務――」


(聞こえてるっつーの)

 どうせ、また俺が入社早々やらかした話を酒の肴にしているのだろう。俺の頭はすでにそれを雑音としてシャットアウトして、切り替えた頭でどうこの飲み会を抜け出すかの算段を立て始めていた。

 幹事が鏑木でなければ、黙って抜け出す所なのだが……さてどうするか。考えながらグラスに手を伸ばし、ビールが空だったことを思い出す。

(店員呼ぶか……)

 つまみの塩辛さは大好きだが、舌に残ったまま何も飲まずに過ごすのは流石にしんどい。呼び出しボタンを探し右往左往する目が、隣に座っている女の目と合った。

(げ)

 心の中で俺が反応する前に、女はそれに幾重にも輪をかけたような嫌悪の表情を向けた。女からこちらを見る先には俺以外木目調の壁しかないというのに何故こっちを見ているのか。俺は理不尽なストレスを与えられた気しかせず、これ以上気分が悪くなる前に視線を外そうとして、彼女の分であろう取り皿の脇に呼出のボタンがあることに気付いた。


「あ……」


 思わず声がでてしまったが、奴はこちらの意図に気付いては居ないらしく、相も変わらず害虫でも見るような表情をこちらに向けてきている。

(だったら目線を外せっちゅうのに)

 俺とて別にお前に用があって首を向けているわけではない。とっとと体勢を百八十度戻して隣の子とでも話してくれれば、その隙にさりげなくボタンを奪取して用は済む。互いにこれ以上不快な思いをすることもない。

 そんな俺の考えもやはり伝わらなかった――あるいはシカトこかれた――ご様子で、華やかな宴会の一角で恐ろしく険悪な睨み合いが始まってしまった。まるで俺と奴、先に目線を逸らした方が負けといった雰囲気さえ漂っているように感じる。

 そもそも俺はごく自然な姿勢でこちらを向いていたのだ。譲るつもりは毛頭ない。用向きを伝えれば恐らくはすぐに終わるのだろうが、大した謂れもないのにあんな目線を向けられてしまったおかげで、素直に頼む気はとうに失せていた。


「……なんですか?」


 たっぷりと沈黙を挟んだ後、奴は梅酒の入ったグラスを静かに置いて、女性に似つかわしくないドスの聞いた声で先手を打ってきた。というかそれはこっちのセリフだ。


「別に?ここはグラスが空になってもオーダー一つ取りに来ないんだなぁと思って。つか、なんでこっち見てるんですかあんたも」

「ここは呼び出しボタン押さないと店員来ませんよ」


(んなこたぁわかってるんだよ)

 期待をしていたわけではないが、この女には気を利かせてボタンを差し出すといった気遣いは皆無のようだ。そして、都合が悪いのか後半の質問には全く答えない。相変わらず絶妙に神経を逆撫でしてくれる。


「そりゃ貴重なご意見痛み入ります。用は済みましたのでどうぞお隣さんとのご歓談にでも戻ってください」


 あくまでも『そのボタンを取ってくれ』とは言わなかった。既に幼稚な意地の張り合いであることはわかっている。が、ここで引くわけにはいかない。

 対する奴はというと俺の一言に一瞬顔を歪めたものの、すぐさま手元のボタンを取って、こちらに勝ち誇ったような顔を浮かべてきた。


「そうですか、じゃあこれはテーブルの中央にお返ししておきますね」

「このクソ……!」

「おーい、三吾さんもこっちきなよ」


 今まさに口汚く罵ったろうと開いた俺の口を、さっきと同じ一団の声が遮った。


「また『ナンパ』されてんのー?」

「違いますよ!」


 とっさに否定した奴は、あれだけ俺を睨みつけていた目線を声の元へともどして、そのまま席を立った。ご丁寧な事に声まで1オクターブ上がって透明度を増している。まるで長々説教を垂れていた母親が突然の電話に応対するかのような声の変え方だった。

 ともあれ不毛な諍いからやっと解放されて、乾いた喉をひりつかせて大きく息を吐く。テーブルを見るとその場に置いて行かれたボタンが目に入ったので、俺は素早くボタンを押した。遠くで間の抜けたチャイムが鳴ったことを確認し、もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。


「全く、三吾も鏑木もあんな奴に構う事ないのに」


 相変らず、俺は酒の肴に最適らしい。貴様みたいに脂が乗っている訳でもないのにな。


「ほんとう、うんざりします」


(……テメェが睨んで来たんだろうが!)

 握ったグラスが軋んだ音を立てる。このあたりのリアクションは鏑木とは天地の差だ。


「あんな奴に入社早々だもんねぇ」

「ねぇ、さっきも言ってたけど、『ナンパ』ってなに?石井クンがしたって事?」


 集団の中にいる女子の一人が、興味深げな声を上げた。

 ――この話題は。俺は早急に意識を遠ざけようとしたが、集団の中央、鏑木の隣にいる男の声がデカい(上に、どうも俺に聞こえるように話している節がある)せいで、嫌でも耳に入ってくる羽目になった。


「それがさ、石井の奴、内定者懇親会で……」

(我慢だ、我慢)

 まだオーダーした飲み物が来ていない。なにより鏑木の顔もある。おれは握った拳に青筋を浮かび上がらせながら、長机の隅でひたすら置物と化すことに尽力する。


「内定者懇意会で、三吾さんにさぁ」


 わざらしくと溜めを作り、こちらの反応を伺いながらにやにやしているのがわかる。手が震えてきていた。知らず籠った力に、気づけば握るグラスに蜘蛛の巣が走っている。


「あいつ、初顔合わせなのに「何処かで逢った事ありません?」とか聞いてんの!いまどきドラマでもそんなナンパの仕方しねーよなぁ!」


 一声に沸いた下卑た笑い声に、俺の堪忍袋はあっけなく尾を切らせた。乱暴に置いたグラスが派手な音を立て、飲みの席が瞬時に沈黙に包まれた。

 集まる視線も気に留めず立ち上がり、周りを押しのけて出口へ向かう。


「あ、おい!石井」

「帰る」


 慌てて追ってくる鏑木の顔に、財布から取り出した三枚の札を投げつけて、俺は店を出た。不足分は不当なストレスを受けた迷惑料だ。


「待てよ石井!あいつらにはよく言っておくから――」


 外まで追いかけてきた鏑木に、ほんのわずかだけ帰る事への罪悪感を覚えたが、それでも今頃あの不快な声が支配し直しているであろうテーブルに戻る気にはならなかった。


「俺がいない方が、宴の席もさぞ盛り上がるだろうさ」

「そんなこと……!」

「お前以外誰も引き止めに来ないのが良い証拠。それに明日は早いんだ。早速課長に呼ばれてる」


 なおも引き止めにかかる鏑木を制するように続け、振り返らずに歩を早める。それでもしばらくは追いかけてきたようだが、やがて離れたところから「また明日な」と背中に声が掛かり、遠ざかる靴音が聞こえた。


「あーあ……事務に戻りたい」


 靴音が完全に消えた頃、もう一度呟いて、懐から定期を取り出す。

 まぁ、こんなやる気のない営業など、とっととお役御免になるだろう。うまくすればまた事務に戻れるかもしれない。

 頸にならないようにだけ気を付けよう。俺は意識を切り替えると残業帰りの会社員でごった返す改札を足早にくぐった。

 帰ってとっとと寝てしまおう。ムカつく気分をリセットするには睡眠が一番だ。


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