B『キタナイ大人の会議は踊る』
部屋には絶えず風を送り続ける冷房が快適な温度を保っているというのに、男の額には玉のような汗が浮かんでいた。
「あとはあなたの調印だけなのです」
男は『厚生労働大臣』と書かれた机の上で手を組み、その中央に額を置く。目の前に立つ二人の男のうち向かって右側、ダークグレーのスーツに身を包んだ方が放ったその一言に、頭の上から鉛を押し付けられたような心地を覚えていた。表情は暗く、時々何かすがるものを探すように目線をあちこちへとやっている。
やがて座る男はアームレストから腕を剥がして懐からハンカチを取り出し、のろのろと額の汗を拭き始めた。しかし愚鈍な動きでいくら時間を稼いでも、選択を迫られたその男を救うものがこの部屋にあるはずも、またいる筈もない。
部屋からは情報の漏洩を防ぐべく外部につながる通信機器は一時的に取り外してあり、外への連絡は取れないようになっている。更に男にとって自分に向きあう二人は部下でも同胞でも、まして仲間でもなく、まさに今自分が机に目を伏せる原因を作った張本人だからだ。
「管掌事務のうち第二、第三、第八及び第六十二号の責任者には、既に内々に話を通しております。大臣」
なおも黙り込む男に先程声を発した男が続ける。語り文句こそ論理的かつ落ち着きがあるが、その男が持つ声と外見はそれとはまったく釣り合っていなかった。大臣が本当に同年代なのかと疑いたくなるほどに若々しく――特に、先刻資料の説明を読み上げた時は、幼いといっていいほどの印象を座りながら聞く男に与えていたほどだった。
「しかし三吾君、これほどの副作用を持つ試薬の実験を、いきなり人相手に……などと」
常識的に考えれば認められるはずがない。大臣と呼ばれた男がそう続けずに言葉を濁した裏には、試薬が正常に作用した場合の効果を聞かされていたからに他ならない。
「ですから、大臣の権限において、『この場で』第一相の認可をいただきたいのです。開発の認可が下り、それが大臣お墨付きの国定事業ともなれば、たとえ公安やマスコミの中に疑いを持つ者が現れようとおいそれとは介入できなくなります」
三吾と呼ばれた男は、まるでそこに倫理的な問題など存在しないかのような滑らかさで言葉の続きを紡いだ。その瞳の輝きは新たな玩具を見つけた少年のそれと言って差し支えないほど、一点の曇りもない。
「ならばなぜ正規の手順を……動物実験の段階を踏まない」
「勿論申請前に行ってはいます。人間とマウス、それぞれ損傷した細胞に投与する実験方式でわかったことですが、主要な薬効成分である……まだ、命名はしていませんが、再生した古代植物『アンブロシア』由来のそれは、人間の細胞にしか期待した反応を示さなかった。おそらく人間のDNAマップのみに反応するものなのでしょう……とかく、他の生物では成果の出ない代物なんですよ」
ここで初めて、隣に立っていたもう一人の男が、話を引き継ぐように口を開いた。
「現行の薬事法では動物実験において成果が出なければ認可が下りず、その時点で研究開発は意味のないものになってしまう。しかし我々には法改正を待つよりも、この薬品を望む人々に一刻も早く届けたい思いがあるのです」
先程まで話していた男の者とは対照的な、低く物静かな語り口。日本有数の規模を誇る大病院の長を務める者が放ったという付加価値のなされた言葉が、大臣の耳に確かな信憑性を伴って入ってくる。
「藤沢院長の申し上げる通りです。勇気のいる決断でしょう。なにせ現状では違法でしかないことですから。しかし、ここで大臣が英断を下され、開発が円滑に行われることで、救われる命の数は数えきれません」
英断。救われる命。その二つの言葉を聴いた途端、大臣の目の色は明らかに変わった。組んだ両手から額を離し、三吾の顔を見上げるその表情を見て、彼の口角が僅かに吊り上る。
そんな二人に悟られぬよう表情こそ変えなかったものの、その横に立つ藤沢院長と呼ばれた男の心中には驚愕の念が湧き上がっていた。
――こうも啓示の言っていた通りになるとは。
横に立つ男を目線だけで見やる。この部屋に二人が入る前、啓示は大臣のことを『コネとカネだけでこの椅子に座っているだけの男』と評した。そして、そういった手合いには決まって名誉欲、言い換えれば稚拙な英雄願望があり、『最上の名薬を世に送り出した殊勲者』という栄光の前にはいとも簡単に倫理を犯すだろうと予期していた。
なにせいつ自分の化けの皮がはがれ、地位を追われるかもわからないのだ。ならばその心理をついて餌を仕掛ければ、簡単に落ちる。まるで確たる証拠があるかのように語る三吾に対し、彼は若干の呆れすら抱いていた……少なくとも、聴いた直後は。
藤沢院長の知る限りでは、国内最大手の製薬会社を治める三吾啓示といえど、この大臣とまともに会話する機会など自分より遥かに少ないはずで、その自分とて面と向かって話す機会など片手で数える程しかない。故に朧気にしか掴んでいなかった彼の実像を啓示が見抜いているとは信じ難い事だった。
しかし現に今、彼は彼の内面をいとも簡単に丸裸にし、あまつさえ利用している。
(恐ろしい奴だ)
藤沢は心の中で一人ごちる。事実、自力ではこのポストにしがみつく事すらままならない目の前の男にとって、聞けば聞く程この新薬開発の話はまさに天から垂らされた糸に見えているのだろう。
「確かに、形式の遵守よりも、多くの国民の命が守られる事こそが優先されるべき……か」
大臣はすでに法を犯すことに対する自己弁解すら並べ始めている。
(ま、
むろん、浮足立っている相手をわざわざ考え込ませるような情報を啓示は口に出さない。既に頭の中では己が脚光を浴びる姿を想像でもしているのか、大臣はどこか遠くの景色を見るような瞳で中空を見つめている。
「し、しかしだな……」
(もうひと押し、というところか)
啓示が藤沢へと目配せをすると、彼は軽く息を一つついた後、変わらず落ち着いた口調で続けた。
「対外向けの発表ではあくまで自己治癒能力の向上を主眼に置いた新型の代謝促進剤として発表します。タイミングを見計らって先程お見せした効果を『偶発的な作用』として公開する予定です」
いきなり現実に引き戻されたように藤沢へと視線を合わせた大臣だったが、その顔には意図をくみ取れなかったことが見て取れる疑問符が浮かんでいる。
(察しが悪いね……まぁ、だからこそ自分で功を挙げられないんだろうけど)
心の中で侮蔑を一つ浮かべた啓示が一歩前に出て、院長の言葉の補足をする。
「つまり、万一追及の手が伸びたところで、ご迷惑はおかけ致しません。認可を下ろすまで大臣は『真の効果を知り得なかった』」
大臣の手から迷いの色が消えていく。栄光を得たい割には己を守る絶対の保険がなければ動かない。大事を成さない人間の典型だが、この男もその例に漏れなかったようだ。
「本当に、万一があっても私に累は及ばないのだろうな?」
(まだ心配するか)
常にリスクと引き換えに己の地位を上げてきた啓示と藤沢には理解しがたい感覚に、二人は顔を見合わせて複雑な笑みを浮かべる。
「勿論です。ではサインを」
促されいそいそとペンを執る大臣。この男には先程の嘲笑すら、自分を導く救い主への慈愛に満ちた笑みに見えたのだろう。
「……確かに、では、私たちはこれで」
「よろしく頼むぞ」
書類の控えを受け取り、恭しく頭を下げる二人を、大臣は満足げに見送った。
※ ※ ※
「思いのほか時間がかかってしまったな」
エントランスから外に出て藤沢は呟く。外はとうに日が落ちていた。
「ごねられたもんねぇ。あれは用心深いというより、自分に害が及ぶのを徹底的に嫌っている感じだね。まぁ、わかりやすいキャラだったおかげで与しやすかったけどさ」
笑いながら片手で電波の通るようになった端末を取り出す。
「迎えならもう来ているはずだが」
不思議そうに尋ねる院長に人差し指を振って、三吾はそのまま端末を通話モードにして耳に掛ける。
「あーもしもし、私わたし。無事に終わったから、もう止めちゃっていいよー」
それを聞いた相手が返事をする間があったのか。端から見ている院長にもわからないほど素早く、啓示は端末を懐に戻した。
「何の連絡だ?」
「ん?まぁ今回の交渉に用意していた保険さ。彼が万一僕の想像していた人物像と違う、倫理的な人物だった場合に備えてね」
「保険……?」
「ああ、後腐れの無い連中に頼んで、川添大臣の娘さんを尾行させてた」
足取りも軽いまま事もなげに言い放つ三吾に、流石の院長も僅かに眉を吊り上らせた。
「まさか」
「そ、
歩みを止めずなおもさらり答える啓示。それを見た藤沢の顔には僅かにだが、確かな恐怖の色が浮かんでいた。
やはり、この男は目的の為に手段の善悪を厭わない。
(そうだ、だからこそ私は――)
じわじわと心に広がり始めた目の前の男への怖れ。それを掻き消すために在りし日の決意を思い出すと、院長の心は平静をだんだんと取り戻してゆく。
「その連中が裏切ることは考えなかったのか?」
啓示の言う『後腐れの無い連中』というのはいわゆるダーティな世界に身を置く者たちだろう。そういった連中に協力を頼んだという事自体が明るみに出るだけでリスクになり得る。そんな事すら想像が及ばない愚かな人間ではないと三吾を評している彼だからこそ、その手口に多少強引さを感じていた。
「いや全然?保険は十重二十重に打ってある」
「まさか、お前――」
「……アレを許可されないわけには行かないんだ。何せもう試しちゃってるもの」
あっけらかんと返され、思わず真顔で見やる啓示の顔は、いつの間にか暗く強張っていた。そして、彼以外にただひとり、その言葉の真意を理解している藤沢の顔からもまた、意識せず落ち着きとは異なるいかめしさが浮かぶ。
「そんな顔しなくても、約束は守るさ。これからは存分に僕の所業を止めるといい」
その一言を受けて、皺の走った院長の顔が更にぎしりと歪んだ。次の言葉を浮かべるその胸に去来するのは、昔日に侵した己の過ちであった。
「これで――」
「これで、あの時の事はいいっこなし、でしょ?」
(読まれていたか)
「あの時、二人の処置を行った後の君の顔を見てからわかっていたよ。いずれ罪の意識に耐えきれなくなる時が来るってさ」
やはり先程大臣の心理を読み切っていたのは気のせいではなかったようだ。この男の目に映るものは常人よりも遥かに多い。
「ならば何故その時に懐柔なり説得を試みなかった?私とて医学の徒だ。あの効果の前では心変わりも――」
「心にもないことをいうもんじゃないよ」
柔らかい口調で言葉の先を遮り、三吾は穏やかな笑みを浮かべる。
「僕が裏でやることを論理だけで否定しているだけならそうしてたさ。でも、君は心の根っこからこの一連の行いを受け入れられていない。そんな人間の考えを変えるのは無理だ」
「……私は君の邪魔をしようというのだぞ」
「それならそれでいいさ。その為の君の行いは研究の多様性を助長してくれるものだし。交換条件は飲んでくれるんだろ?」
通りの先に迎えの車のヘッドライトが見えてきた。その運転手も二人を確認できたのか、緩やかに車を発進させ近づいてくる。
「さて、これからさらに忙しくなるよ」
自動で開いた後部座席に体を滑り込ませながら、三吾は意味深気に笑う。
「ああ、お互いな」
対する院長の顔は、相変わらず厳めしく、何らかの意を決したような力強さを漂わせている。
ドアの閉まった車は再び走りだし、エンジン音が遠ざかるとともに辺りは夜の静寂を取り戻していった。
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