死人になる前に

三ケ日 桐生

プロローグ

A『死線越境午前2時』

「はぁっ、はぁっ……はぁっ」


 廃倉庫の影で荒い息を必死に整えようとしている男の右手には、タブレットタイプの端末と一枚のメモリースティックが握られていた。辺りに人影がないことを確認すると、男は限界とばかりにレンガ調の壁にももたれかかりながらずるずると座り込んでしまった。

 震える手でタブレットの起動ボタンを押し、なおも続く息苦しさにたまらず天を仰ぐ。街灯もまばらな工業地帯でも星が一つも望めないほど、夜空は厚い雲に覆われていた。

 しばらくの間を以てディスプレイから白い光が浮かび上がり、真夜中の闇に男の顔を浮かび上がらせる。


「う……っぐ……」


 急激に喉からせりあがるものを感じ、OSの立ち上がりを待つ画面に口元を抑えた男の口から溢れた血液が飛び散った。慌てて身体の傷を確認するも、その体はおろか、服にも破れた個所すらない。

(違う薬を盛られたのか……?)

 男が血を拭い去ると同時にバイアスの認証が終わり、呑気な青空の背景が映し出される。


「……マジかよ!」


 その途端、口角から血を飛び散らせながら、思わず男は毒づいた。電波状況を示すアンテナマークに×印がついている――端末がネットワークにつながっていない。

(これじゃあ、データを送ることが出来ない)

 そして同時に、逃げ込もうとした先に連絡も取れないという事だ。ここにきて男は人気のない場所に逃げた己の浅はかさを後悔していた。自前の携帯端末は走っている途中にどこかへと落している。つまり、ここにいる限り助けは期待できず、すなわち座して死を待つことと大差はない。

(リスクはあるが、戻って逆方向に行くしか……)

 ここは既にH市の西端に近く、このまま同じ方向に逃げても人はおろか街も無くなる一方である。おまけにこの埃の匂い、空の色も相まって雨の予兆を帯びていた。まごついている間に降られようものなら、端末が濡れてデータはお釈迦になってしまう。そうなればたとえ逃げおおせたとしても、身を守るものは何もない。

 意を決した男はよろよろと立ち上がり、今しがた自分が走ってきた道を睨む。追っ手に向かっていく形になってしまうが、可能性をゼロにするよりは遥かにマシだ。端末がネットワークに繋がっていないことは、逆に考えればGPSからこちらの位置を割り出すことが出来ないという利点でもある。

(とにかく、どこかで連絡を取らないと……) 

 せっかく奴らの根城から逃れたのに、ここで死んでたまるか。タブレットをシャットダウンすると同時に、男はもう一度掌のメモリーカードに目を落とし、両方を乱雑に鞄に突っ込んだ。


「よし……」


 一度大きく息を吸い込み、一気に走り出す。目指すは工業地帯の東を通るバイパスだ。大きな道路ならまだ車の行き来、人の気配があるかもしれない。

(最悪でも朝までには拾ってもらわないと……)

 現在までの開発資料と残留成分が残る自分の体。この二つが逃亡先の提示した、自分を匿う対価だった。

 覗き見た情報によれば薬品は摂取後四十八時間で完全に体内へ吸収されてしまう。ただでさえデータを盗み出してここまで逃げるのに丸一日を要している。朝を迎えてしまえば相手方の条件を満たすことはできない。

 だが、合流さえできれば手厚く匿ってもらえる確証はあった。何せ自分の体は今やさんざん薬品に侵された貴重なサンプルだ。

(あの会社より規模は劣るが、研究施設は負けていないはずだ)

 こちら側の付け足した条件によって、解毒薬の開発を優先するように伝えてある。持ち逃げするデータによって解析が進みさえすれば、自分を蝕んでいた薬品の副作用に対抗するものが出来る。そうすれば自分は助かる。

 それは開発にかかる時間も失敗の可能性も、そも交渉において圧倒的に上の立場の相手が自分の条件を遵守しないことも考えない浅はかな展望だった。しかし今はその淡い希望だけが男を突き動かしている。

 ここに逃げ込んだ時に通った搬入用のゲートは避け、無機質な長方形の建物の間を駆け抜けると、やがて遠目に私有地との境を示すフェンスが見えてきた。その先には街道を照らすオレンジ色の光が決まった間隔で灯っている。

(あれを乗り越えれば――!)

 更に足を速めようとする男の視界の端で、何かが動いた。それが人の影であると男が認識する前に、強かな衝撃と共に体が地面に引き倒される。バッグが肩から滑り落ち、中身が地面へと散らばった。

(待ち伏せ?!)

 吹っ飛ばされた方向に立つ人間の顔はライトの逆光で拝めないが、背格好と耳に光るピアスからここまで追いかけてきた男である事はわかった。全力で走る自分を横から倒して止めるなど、あらかじめ建物の辻で待ち構えていなければ出来ないはずだ。端末は圏外、走るルートは変えているはずなのに、なぜそんな芸当が出来る。

 混乱する頭が心臓の鼓動を更に急かし、忘れていた息切れが再び体を襲い始めた。ゆっくりと近づいてくる影に、男は慌てて散らばったタブレットとメモリーカードを拾い上げ、近くの路地へと走り込む。幸い、追手の足は男よりも遅い様だった。

 来た道をまた逆戻りするわけには行かない。とにかく建物の間を息の続く限りジグザグに走った。追手の気配が消え、再び街灯の光が届かないところまで遠ざかったところで、喉から血液の逆流を感じ、脚を止めると同時に手を口元に当てる間もなく激しく咳き込んだ。どす黒い血が飛び散り、地面により深い闇を刻む。


「くそっ」


 もう一度バッグを開け、中からタブレットとメモリースティックを取り出す。幸いにも両方とも表面に目立った外傷はなさそうだった。地面に擦った裏側にも、細かな傷以外は確認できない。システムも問題なく起動する。

 男は安堵の息を漏らし、再びバッグに収めようとしたが、そこで初めてメモリースティックの裏面に、赤く小さな光が点滅している事に気付いた。

 男が訝しみながら仕舞い込む手を止めて目の前に近づけると、どうやら裏面には小さな発光体が仕込まれているようだった。データを読み取る際に点滅する緑の光とは別物だ。

(そもそもなぜ、こんなものが必要なんだ……?)

 このタブレット端末にも内臓ストレージはある。膨大とはいえ所詮文章と図形、あとはわずかな動画のみで構成された資料を保存するだけならばそれで充分に事足りる。より容量の少ないメモリースティックなど尚の事必要がないはずだ。加えてその小ささから持ち出しが容易なメディアに機密情報を保存しているという前情報もおかしい。更に思い返せばタブレットもメモリースティックも、拍子抜けするほど簡単に見つけることが出来た。

 そして、自分の走ってくる方向を予測しているとしか思えない、さっきの待ち伏せ。


 ――まさか。


 ざわつく胸に震える手でメモリースティックを端末に接続し、フォルダを展開するも、中には何も入っていない。男は声にならない叫びをあげ、落ち着きを取り戻し始めた心臓が一際大きく鼓動を打った。

 しばしの逡巡の後、男はこれからすることに対しての若干の不安と、それよりも何倍も大きい嫌な予感を抱えつつ、一瞬の躊躇いの後にメモリースティックをへし折った。

 予感は的中した。点滅が止まると同時に、端末の通信が回復したことを示すマークがタスクバーに灯った。これは資料の入ったストレージなんかじゃない。電波妨害機器兼、別の帯域を利用した発信機――。


「唐津の野郎!」


 絶叫する男の口からなおも血液が溢れ、それを合図としたように、突然男の視界がフィルムを張り付けられたように赤く染まっていく。

(なんだ……?)

 急激に襲い来る眠気にも似た意識の混濁。まるで脳を削られているかのように、頭から考える力が失われていく。手の先の感覚はいつの間にか消え失せ、真っ二つに割れたメモリースティックが地面に落ちた。鈍痛が体を支配するが、絶えず血がこみ上げる喉では声を上げる事すら出来ない。

(頭が、重い……)

 男が息苦しさにふらつく足をどうにか留まらせ顎を上げる。そこには角から曲がってきた追手の姿が見えた。同時に覚えた腹の底を締め付けられるような感覚。

(はらが、へった)

 男の思考はそこで止まり、消えゆく感覚が最後に捉えた物は、目の前の肉に向かって伸ばす、血まみれの自分の腕だった。





『ご苦労だった、018』

 耳元から響く声にも答えず、男は足元に広がる血の海、正確に言えばその真ん中に横たわる死体を見つめていた。牙を向いたまま絶命したその顔は、穴という穴から黒い血を流し、濁った瞳が虚ろに男を見上げている。

『タブレットと発信機は、一応回収しておけ。痕跡を残すな。処理は任せる』

 返事を待たずに声は途切れたが、男はそれを気にも留めずに死体に跪き、そしてそのまま覆いかぶさるように手を付き、二の腕に向かって大きく口を開けた。

 漆黒の闇に汚い咀嚼の音だけが響き渡る。まるで取り憑かれたかの如く、死骸の肉を一心不乱に貪る男の首筋から白い粉が浮かび上がり、ぱらぱらと地面に舞った。

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