私たちのボランティア活動
第11話 わがままで厚かましい障害者
わたしたちのボランティア活動
わがままで厚かましい障害者
もし、わたしが自分の力で立つことも歩くこともできず、ましてや自分の力で食事をとることはおろか排便さえできず、他人に24時間監視され続けなければ絡まる自分の痰が詰まって死んでしまうとすればどう思うだろうか?
―――正直言ってそこまで他人に迷惑をかけてまで生きていたいとは思わない。
そう考える人だって少なくはないのではないだろうか。正直言ってわたし、及川明歩もそう考えていた人間のひとりだった。幼いころにわたしは大きな災害に遭い、その状況下ではより多くの人間が助かるために、助からないと思える人間を非情にも切り捨てなければならないという状況を何度も目の当たりにしてきた。人の命を数字で考えるものではないと偽善者たちは言うけれど、いざ、非常時に直面すればそれが絶対的な正義だと主張しても誰も反論などできないだろう。
その点で考えるならば伏見一輝という人間はまっさきに切り捨てるべき人間なのだろう。まさに自分一人では何もできないくせにひとり、施設にも入らずに独り暮らしをしている。そのことで多くのボランティアの手が必要になり、またそのためにボランティアの手が足りずに不自由な生活を営まなければならない人が発生する。
しかも伏見一輝という人物はその状況下においても、『自分なんかのために多くの手を煩わせてしまって申し訳ない』とか、『みんなのおかげで自分はようやく生き延びることができている』なんて考えは微塵も持ち合わせていない。
彼の口癖は『ボクはカリスマ障害者やからね、特別なんや。』とか『ボクが君らにボランティアするにあたって何が必要か教えてやってるのに、ボクは金をとらんのやで、感謝しいや。』などと言っている。どうしてこんなにまで人が厚かましくなれるのか初めのうちは理解ができないでいた。
そもそも伏見さんは普段関西弁で喋る。関西弁とは言ってもイントネーションの少しおかしいオリジナル関西弁だ。それというのも無理はない。そもそも伏見さんは出生こそ兵庫県だが、生まれて間もないうちに岩手へと引越した。兵庫県民だった父とは面会がなく、元々が岩手出身の母親が家の中で関西弁をしゃべっていたとも考えにくい。そのことを一度伏見さんに問いただしたことがある。
「なんや、ばれてもうたか。でもな、この喋り方、なかなか便利やねん。この喋り方してると周りの人間にあんまり同情されんとすむんや。『ああ、なんやこのひと元気な人やな』って感じでな。
でも、ホンマに関西地方に住んでた時は開かんかったわ。地元民にはボクの喋り方、〝エセ関西人やてバレバレみたいや。せやからそん時はずっと岩手弁をつこうてたわ。
しかしあれやな、関西地方以外でやったらこの言葉がおかしいなんて誰も言わんのや、それどころかこの喋り方してたら少々厚かましい事いうても〝しゃあないな〟で終らせてくれることが多いんや。」
―――確信犯だった。わかった上で他人の同情も厚意も甘んじて利用して生きて行こうとするあたりはあっぱれだ。
当の伏見さんがそんなものだから新しいボランティアが入ってもなかなか長続きしてくれない。「ボランティアがいなくなればこのおっさん簡単に死んでしまうんだぞ。」と言ってやりたいが、無償でそこまで隷属するほど最近の若者の意識は高くないし、伏見さんにしても自分を改める様子は微塵もない。わたしにしても、もし、子供のころに災害に遭ってボランティアにすくわれていなかったら、周りに幼馴染たちがいなかったならすぐにやめてしまっていたかもしれない。
そう思っていたわたしの心を読み取りでもしたのか、ある日、伏見さんは突然こんなことを言い出した。
「大体な、ボクがこんな体がいやで生きててもしゃーないから、はよ死んだ方がマシやとかいうたら今までボクのことをどうにかこうにか生かそうとして努力してきた人に対して失礼やろ。せやからな、ボクは何が何でも生き続けなあかんのや。」
たしかにその通りだ。こっちは寝る間も惜しんで面倒見ているのだ。勝手に自殺なんてされたら今までの苦労を返してくれと言いたくなる。
「まあ、なんにせよ本人が自殺しないって言っているのはありがたい。いつ自殺されるかと心配しながらケアしていく手間が省ける。」
―――なんて、崇さんはいつもながら伏見さんに憎まれ口を叩く。まるでそれが愛情表現かのように。
「でも、死にたい死にたいって言っている人に限ってなかなか死なないものよ。」ケアの時間を交替して帰り支度をしていたベテランヘルパーの白岩さんが話に入ってきた。「私が前に受け持っていた老人なんだけどね、早く死にたい早く死にたい。早くばーさんに会いたいなんて言っていたけれど、本当は死にたいなんてこれっぽっちも思っていなかったのよ。ただ、そういうことで周りの人が『がんばってください』とか『まだまだいいことはありますよ』なんて言ってくれることがうれしかっただけ。
あるときね、あまりにも死にたい死にたいって言うからロープを買って行って『いつでも首を吊れるようにしておきましたから、いざという時はお声を掛けてくださいね。』って言ったら、すっかりおとなしくなってしまってしばらくは死にたいって言わなくなったのよ。
しかもその老人…… 私たちヘルパーがなにかへまをやらかした時、決まって言う言葉がったの…… それはね。『わしを殺す気か! ホントにもう死ぬかと思ったわ!』だったんですよ。」
「はっはっは。それは傑作やな。それに大体、自殺なんてしても誰も褒めてくれんもんな。人間、死なずに我慢しているから〝かわいそうや〟とか〝すごい〟って言ってくれてるのに、死んだらなんや急にしらけた気、するもんな。」もし、ボクが生きるの諦めて自殺でもした時ほら、やっぱりな。なんて思われるのだけは絶対嫌やからな。
ま、言うてもボクは自分の力では自殺することもできひんのやけどな。自分で死ねへんのやったら、それはもう〝自殺〟やないもんな。その点で言えばボクが生きるも死ぬもあんたらしだいやな。まあ、ちょっと腹立ったくらいで殺さんとってな。ボクはまだまだいきたいんねん。」
「―――ほんと。伏見さんは障害があるのによく頑張っているなあ。」
つい、思っていたことが口に出てしまった。そしてすかさず伏見さんはその言葉に突っ込みを入れていた。
「それ、それもやで。〝障害があるのに〟は、すでに障害者差別や。障害なんてあろうとなかろうと、人間生きていくには頑張るのがとうぜんや。それにな、障害者やなんていうても、一体どこからどこまでが障害者なんか政府が勝手に決めただけのいい加減なもんや。ボクかてもう、こんな体の生活長いから別に自分が障害者やなんて思ってもおらん。これが自分にとってのスタンダードやからな。そら、たしかに君らみたいに自分で歩いたりはできんかったりするし、仕事かて限られたことしかできんとはよういわれるけどな。でも、そんなんゆうたらみんなかてそうやないか。みんながみんな何でもできるわけやない。人によってはあたりまえにできることがほかの人には当たり前にできひんというのは何も珍しい事やない。
ほら、ボクから言わせたら不細工に生まれた人間なんていわば〝顔面障害者〟や。その顔面のせいでできん仕事はぎょーさんあるやろ? なのに政府はボクらみたいに障害者給付金をを支給してへんのやで。それは不公平とちゃうか? それと同じで何も自分が障害者や障害者やなんていうて言うてるやつは死にたい死にたいというてる奴と同じで、単にかわいそうやって言ってもらいたいだけなんや。
あの障害者施設を見てみいや。パッと見、国が障害者を保護して仕事まで与えてくれてるなんて思ってしまいそうやけど、みんなその気になればボクみたいに自分で生活することだってできるんや、そのための制度さえ整えればな。結局のところ政府はその制度とか、障害者に対する差別意識を緩和させる方法が見つからんからああやって檻をつくって、おとなしく言うことを聞くかわいい障害者ちゃんを飼育してるだけに過ぎんのや。
ベッドや車いすという名の十字架にはりつけにされて火あぶりにされるのを待つだけの人生をボクは送りとうなんかない。だからボクはこうしてみんなに迷惑かけながらでも自分で生活する道を選んだんや。大体、他人の力を借りずに一人だけで生きていける人間なんてどこにもおらんのやからかまへんやろ。」
たしかにそういわれれば否定はできない。そのあたりに関して言うならばたしかに崇さんのケアは完璧かもしれない。まるで障害者を障害者として扱わない。むしろ伏見さんに対しては友達だか兄弟だかが接しているような態度だ。さすがにあそこまではできないとも思いながらも見習うべきところはたくさんある。
たしかに伏見さんは障害者のカリスマと言える。本人いわく、
「ボクは障害のレベルも生きようとする意志もMAXレベルやで、まさにカリスマ障害者や!」
だ、そうだ。それに気づいている人もいるだろうけれど、伏見さんは自分のことを〝障害者〟だと言ったり、〝障害者ではない〟と言ったりして、全く矛盾している。矛盾しているというよりはその都度自分の都合の良い方を選択しているだけだ。本当に厚かましい奴!
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