第4話 伏見一輝の誕生


加藤崇の手記 その1


伏見一輝のこれまでの人生



 その手記に書かれていた出来事は言うまでもなく、当時のわたしたちの中心にいた存在。伏見一輝の物語だった。

 この手記が商業的にヒットしなかったのは言うまでもないことだが、それはある程度仕方のない事なのかもしれない。

 この手記に描かれている出来事は多くの人にとって…… わたしが初めて伏見さんに出会った時に崇さんに感じた気持ちと同じく、不愉快で不謹慎に感じる者も少なくないだろうからだ。

 おそらく世間はこの話を全面的には受け入れはしないだろう。

 ここに書かれている話は障害者の性の物語だ。世間はなるべくなら性の話を避けようとする。それが障害者のものであればなおさら。世間はそれをタブー視するかもしれない。

 はっきり言って、一見では美しいものだとは言い難いだろう。ある時は目を背けたくなるような光景でもあるだろう。だからこそ偽善者と言われる人々は見たくないものをタブー視する。

 タブー視して、誰の目にも触れない世界に置き去りにすることで、その処置について考えなくてもいいように逃げようとしていると言ってもいい。

 その考え方に同意する偽善者はこの先を読まない方がいいかもしれないとわたしも思う。


 



 崇さんはわたしよりも一年早くに伏見さんと出会っていて、当然その間のことをわたしはよく知らない。それよりももっと前のこととなれば崇さんもよくは知らない事なのだろう。

 まず、その冒頭部分にはわたしたちが伏見さんに出会うより以前、伏見さんがどのような経緯でこの場所まで至ったかを描かれていた。


 いささかすべてが真実だとは信じがたい。

その手記に書かれている文章は崇さんが描くにはあまりにも真面目な文章で、そのことが一番真実味にかける気もする。だいたい、いつも『俺』と言っていた崇さんが『僕』なんて書いているし、『アイツ』と呼んでいた伏見さんを『彼』と呼んでいるのもなんだかおかしい。それに著者本人がどこまで信じていいのかわからないとまで言っている。


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『この章で語られる出来事に関してはあくまで僕自身聞いただけの話であって、その真偽のほどはわかりかねる。事実の裏付けをするには多少困難が伴い、ほとんどの出来事は彼の語ったことをそのまま書いているが、おそらく彼にとってうそを言うメリットなどほとんどなく、まず事実であると思って構わないと思われる。

 ただし、彼も一人の男であり、プライドというものがある。多少の見栄や誇張があるくらいには考えた方がいいだろう。』



 伏見一輝は《本来、この本の登場人物はすべて偽名で書かれていたが、ここで紹介する際、ややこしくなるので、あえて表記をそろえている》まさに混沌の最中に生まれた。


 1995年。カルト教団が地下鉄の車両の中で化学薬品をばらまくというテロリズムが行われた年。それ以上に恐ろしいことが起きた。


 阪神、淡路に直下型地震が発生。マグニチュードは7.3で、死者、行方不明者合わせて6437人。兵庫県三宮で高速道路の高架が落下し、ビルが次々と崩壊。地下を走る配管が切断され、火災が発生。ライフラインはことごとく寸断された。あたりの景色はまさに地獄絵図だったという。その光景は僕はおろか、伏見さんですら見ていない。本や映像で見るその景色がおよそ現実のものとは思えないような光景。まるで出来の悪いSF映画を見ているような印象を受ける。

 そんな神戸のがれきの中から一人の女性が救出された。おなかを抱え込むようにうずくまる女性をかばうように覆いかぶさっていた男性、伏見輝彦は倒れた柱で頭部を強打し、死亡した。

 その犠牲もあり、女性は奇跡的に軽傷で済んだという。息のある女性を発見したのは近隣に事務所を構える暴力団組員。任侠映画の受け売りではないが、仁と儀とを芯柱とする彼の組織としての結束力と統率力の高さは警察組織のそれをはるかにしのいでいた。彼らの必死の救助活動により無事二人は救出された。女性と、そのおなかの中にいる赤ん坊と。


 三日後、火災もようやく収まり、瓦礫と灰とが残された荒廃した街の片隅、救出された女性、伏見節子は避難していた小学校の体育館で他の避難者とボランティアに囲まれた中、無事出産した。伏見一輝の誕生である。


 その後伏見親子は母親の生まれ故郷、岩手へと移住した。静かな漁村だった。ちょっとっした高台の上にある古い民家が母の実家だ。窓からはおだやかな海がとおくに見える。庭に出ると磯の香りはすぐそこまで香ってくる。夏は優しく、冬には厳しい風がそよいでいる。母子家庭の彼女たちが金銭的に豊かだったとは言い難いが、人情味にあふれるこの港町での生活はこれといって不自由を感じるものではなかった。

 六歳の時に祖母が、七歳の時に祖父がその後を追うように他界した。

 それから母とふたり、無駄に広い田舎の民家で暮らした。一輝に父親はいないが、漁港で働く母親の周りにはたくさんの漁師がいて、彼ら全員が一輝の父親だったと言ってもいい。女手一つの家庭で不自由なこともあるが、いつだって誰がしか手助けに来てくれた。美人で気立てのいい母、節子の周りの漁師の中には一輝の本当の父親になりたいと言ってくるものあったかもしれない。

 伏見一輝は元気な少年だったという。いつも怪我の絶えないわんぱくな子供だったらしい。港を走り回ったり、停泊している漁船から漁船へと、源義経よろしく八艘跳びをしている姿を港の誰もが見ていた。時には海に落ちたり、転んでひざをすりむいては泣き、そんな姿を港の父親たちは「そんなことで泣くんじゃない。男はどんなに辛くても強く生きろ」と説教したものだった。

 しかし、八歳のころ。あまりにも転んで怪我ばかりする彼を周りは不審に思い出した。

 病院で検査をした結果。筋ジストロフィーだと診断された。



 筋ジストロフィーは日々筋肉が衰えていく病気で、やがて歩くこともできなくなり、最終的には自分の力で呼吸をすることもできなくなる。

 筋ジストロフィーは遺伝性のX染色体に原因があり、保因者の女性が男の子を出産した場合、50%の確率で発症する。考え方によっては母親に原因があるとも考えられなくはない。とはいえ、実質三分の一は突然変異であながち母親が原因とは言い切れない。しかしながら、ほとんどの場合、病気の発覚した患者の母親は自分自身を呪うらしい。

 まして、伏見節子はご主人の伏見輝彦を犠牲にし、神戸の震災の中皆の協力のおかげ、ようやく産み落とした子である。その子が難病である筋ジストロフィーだと発覚した心労は想像に耐えるものではない。

 そんな母親を見て育った少年時代の伏見一輝はなるべく母親に迷惑を掛けないようにと気を遣って育ったという。

 筋ジストロフィーには大きく分けると二種類存在する。デュシャンヌ型とベッカー型で、ベッカー型だと寿命は長い。発症時期にもよるが長ければ普通の人と同じように七、八十歳くらいまで生きることができるが、デュシャンヌ型はそう長くは生きられない。少し前までは二十歳前後でなくなってしまう場合が多かったが、最近は医療の進歩のおかげでもう少し長く生きられるようになった。しかしそれはつまり、デュシャンヌ型の患者は以前よりも苦しむ期間が長くなったということであり、また伸びていく人生に合わせてその生き方を考えなければならないということでもある。

 伏見一輝はデュシャンヌ型である。おそらく長く生きても三十歳くらい…… おそらく普通に生きれば母親よりも早く死ぬということになる。

 子が親より早く死ぬという行為はとてつもなく親不孝な行為であり、親としても最もつらいことだと言えるだろう。

 だがしかし、筋ジストロフィーの患者の子を持つ母親にとって、そのことが一概にあてはまると考えるのは早計である。親の死後、ますます悪化していく病状で我が子がどう生きていけばいいのかわからない状態で、我が子を残して死んでいくことがいかにつらい事であるかを考えると、いっそ自分より先に死んでしまうことの方が安心できると言っても誰がそのことをとがめられようか。いっそ我が子が生きている間、自分の手で面倒を見続けて、その最後の時まで好きなように甘えさせてやりたいと考えるのは親としてはごく当たり前のことのように考えられる。

 果たして伏見節子がそのように考えていたかどうかは今となってわからないが、彼女は多分に漏れず、一輝を大いに甘やかす道を選択したようだった。


 伏見一輝は高校に進学することをあきらめた。それは学ぶことをあきらめたということではない。自宅で勉強する道を選んだのだ。

 自宅で勉強をしながら母親の傍にいることを選んだ。しかし、彼は母親に甘えていたのではない。母親に甘えさせてやることを選んだのだ。

 母親、伏見節子は若くして、その愛の絶頂期に夫を失った。そしてあきらかにその淋しさを大人へと育っていく一輝に対し、面影を重ねていたのだという。母、節子は一輝に甘え、一輝を好きなだけ甘えさせた。それを理解していた一輝は母親に甘え続けることを選んであげたのだという。

 本心では母親のもとにいることに苦痛を感じてもいた。しかし多くの障害者の親がそうであるように節子もまた、我が子にはおとなしく言うことを聞いて甘えてくれる従順な障害者であることを望んでいた。

 曲がった形ではあるものの親子は仲睦まじく暮らしていたのだが、いつまでもそううまくはいかなかった。


 読者諸君も皆、とうに気付いているであろう。彼らが住んでいたのは岩手県の静かな町。


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