加藤崇の手記 その1
第3話 筋ジストロフィー
「筋ジストロフィー?」
「そう、体中の筋肉が衰えていって、自分で動くことができないし、放っておけばすぐにでも死んでしまうのよ。だからあたしたちが手をかしてあげなければいけないの。」
筋ジストロフィー患者の伏見一輝(ふしみかずき)という人物は施設に入らず、市営住宅でひとり暮らしをしているらしい。ひとり暮らしとはいえ、本当に一人だと何も出来ない。ひとりで放っておくとすぐにでも死ぬたとえば顔の上にびにーシートを一枚置いておくだけ。それだけで伏見一輝はそのビニールシートを取り除くこともできずに窒息死してしまう。
首から上はかろうじて動くし、指先だっていくらかは動く。だからと言って調子に乗って寝返りでもうとうとしたなら、シーツに顔をうずめて死ぬだろうし、痰が絡んだだけでも死ぬ。
常に誰かが付き添っているらしいので、正確にはひとり暮らしと言っていいのかわからない。
わたしは正直、この話を最初に聞いた時はなんて迷惑なヒトだろうと感じた。ただでさえボランティアの数が足りないこの町で、それほどまでに人手が必要な患者が施設にも入らずひとり暮らしをしている。彼が素直に施設に入ってさえいてくれればボランティアの手が空き、他の人をケアできるようになればより多くの人が救われる。
奈緒はそれをしかたがないと言った。障害者の世界も弱肉強食なのだと言う。町の中小企業の社長は朝も夜も寝ずに仕事をしてもスズメの涙程度の稼ぎしかないが、もうかっている会社の幹部は接待だのなんだと言いながら遊んでばかりで多額の給料をせしめている。そんな世の中が間違っていると言い出せばきりがないのと同じである。そして伏見さんは特別な人だからとも言った。
挙句。崇さんは「あいつは特別おもしろい患者だから飽きることはないよ。」とまでいはなった。
なんて不謹慎な人たちなんだろうとその時は感じた。重度の障害者をつかまえて〝おもしろいやつ〟とは何事だろうか。
でも、事実。伏見一輝は本当におもしろいやつだった。
―――彼との初対面はサイアクだった。
ボランティア初日。奈緒と二人で訪ねることになっていた伏見さん宅に、直前になって奈緒が急用が入ってしまい、先に一人で行っておいてくれということだった。多くの不安はあるが、その時間、崇さんがいるはずだから心配ないと言っていた。不安こそはあったものの、正直そのことで少しだけ胸躍らせるなにかがあったことは否定できない。奈緒と崇さんが恋人同士だと聞かされていたとはいえ、どこか奈緒のいないところで崇さんと会えることに喜びを感じていた。
渡された地図を片手にようやくたどり着き、表札の伏見一輝という文字を確認してドアチャイムを押そうとしたところで思い出した。伏見さん自体、自分で動けるわけでもなく、ドアチャイムが鳴ったところで本人が出ていくことなどありえない。ドアチャイムを鳴らすのは決まって実情を知らない訪問販売や宗教の勧誘ぐらいで、そんなことにいちいちボランティアが手を止めて出ていくとなると、その間患者を一人放置することになるのだからとドアチャイムの音は切ってあるという話だ。関係者は遠慮なく、24時間施錠されていない部屋に堂々と入っていくのだという。
わたしがドアノブを握り、それをひねるとやはり鍵はかかっていなかった。
「おじゃまします。」
緊張もあり、患者のことも気遣ったわたしは小さめな声であいさつをして玄関をくぐった。
誰も返事もない、初めて入る他人の家に無断で踏み入ることに罪悪感を感じて仕方ない。
玄関をくぐってすぐ、六畳ほどのダイニングがある。きれいに整頓されていてあまり生活感はない。寝たきりの筋ジストロフィー患者がこの場所を使うことはあまり考えられない。おそらく食事もベットの上だろうし、この場所を使っているのはボランティアやヘルパーの人ぐらいだろうということは容易に想像がつく。おそらく右手奥の方がトイレと風呂場で、正面にあるもう一つの引き戸の向こうの部屋に伏見さんはいるのだろうと想像し、あまり迷惑を掛けないようにとそっと引き戸を開けた。
その部屋に入るやいなや、目に飛び込んできた情景に全身の鳥肌が立った。
まさかこのような光景を目撃するなんて思ってもみなかった。
七畳ほどの部屋の真ん中に置かれたベットの上には痩せ細った男が横たわっている。
手足はまるで牛蒡のように痩せ細り、目は落ちくぼんでいるが肌艶はいい。若くも見えるが、実年齢がどれくらいなのかはわかりかねる。
―――そして…… 何というかまあ…… その、下半身をさらけ出しているのである。とはいえ、上半身はしっかりとパジャマを着ているにもかかわらず、下半身は何一つ身につけてはいない。
その下腹部に備えられているそれは一般男性とさほど変わりが無いように見える。ともすれば、それは、それ自身を握りしめているその痩せ細った腕と変わらないほどでもある。
牛蒡のようなその細い腕でそれをしっかりと握りしめ、頼りなさ気な程度の速度で上下に動かしていた。
鬼のように見開かれたその目はまっすぐに目の前に開かれているパソコンのディスプレイに釘づけだ。言うまでもない事だろけれど、その画面には裸の男女が絡み合う映像が映し出されている。音声をヘッドホンで聞いているせいか、こちらに気付く様子はない。
もしわたしが純粋うぶな少女なら叫び声の一つでもあげていたかもしれないが、あいにくそうではないわたしはあまりにも衝撃的なところを目撃してしまって、自分自身がどうしたらいいものかもわからず、ただただその光景を見つめていた。
やがて男性のそれの先端からは飛び出すというほどでもなく、だらだらと流れ落ちる程度の白い液体が流れだし、用意されていたティッシュペーパーで拭きはじめた。
男性はさっきまでの鬼の形相とは打って変わり、ダラリとしたうつろな表情で視線を横に流した。
その視線はすぐにわたしの視線とぶつかった……
一瞬戸惑いの表情を見せるもすぐに状況を把握したようだった。
「あーーー、なんでそがいなことになっとるんやーーー。」
あごの筋肉が弱いのか、少し顎がかみ合っていないくぐもった声だった。
それはセリフはこっちが言いたいくらいだ。
男性はそれっきり、その下半身を隠すでもなく、そのまま仰向けの格好で寝転がっている。どうやら自分自身ではパンツをはくこともできないようだと悟った。
これは自分が退室しなければならないのだ。それにようやく気付いたわたしは「失礼しました。」とだけ言い残し、急いで襖を閉めた。
そのタイミングで、脇のトイレの方から水の流れる音、やがてトイレの方から崇さんが出てきた。
「あ。」と、一言。そのあと少しだけ時間をおいて「中、開けちゃった?」
「はい。開けてしまいました……」
「笑っちゃうだろう?」
「笑う? いえ、笑えませんけど……」
「だってさ、筋肉なくて足もたたないのに、あれは起つんだぜ。」
「やっぱり笑えませんよ。それに不謹慎です。」
「そうか?」
「障害があってもおんなじ人間なんですよ。」
「おんなじさ。障害があってもおんなじ男なんだよ。アイツは。」
「おーい、タカシ―。そこ居るのか? おわったぞー。」
襖の奥から彼のくぐもった声が響いてきた。
「自分で処理もできないのにな。」
崇さんはそう言いながら襖を開けて入っていった。
背中が少しだけ疼いた。
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