第2話 ボランティア


「え! 明歩じゃない? 明歩でしょ。やだ、信じられない!」


 まだ入学したばかりの大学で、わたしの及川明歩(おいかわあきほ)という名を知っているものなど殆どいないはず。その名でわたしを呼んだ彼女はいかにも最近の若者らしい格好、まだ肌寒さの残る四月の朝にもかかわらずショートパンツに長い脚をさらしながらも上半身はニットの上にファーのついたジャケットまで羽おり暖かくしている。染め上げたストレートヘアーは束ねず春風にあおられ、ふあふあとなびいていた。

 わたしはその人を知らない――― というよりは覚えていない。


「あ、その顔は、さてはあたしの事覚えていないって顔してるね。」


 言い当てられたわたしはごまかすために、苦さを含めつつはにかんでみる。


「本当に覚えてないんだね。あたし、吉澤奈緒(よしざわなお)だよ。ほら、施設で一緒だったでしょ。」


 ―――施設。そういわれて合点がいった。わたしは小さなころ、一時期ではあるがとある施設で生活していた。

 九年前に起こった地震と大きな津波でわたしは両親を失った。街にはそんな子供たちはいくらでもいた。わたしが入所した施設も子供であふれかえり、元々は四人部屋のはずの小さな部屋を六人で使っていた。泣きたいような日々の連続だったが不思議と涙は出なかった。生きることに精いっぱいだったからだろう。

 しばらく施設で過ごしたわたしは突然現れた見たこともない赤の他人に引き取られ、岡山県で暮らすことになった。近所にも親戚はいくらかいたが、皆、家を失い、職場を失い、わたし引き取るような余裕はなかったのだろう。


 岡山へと向かう車中の中で、わたしを引き取ってくれた親戚は

「岡山はな、地震も台風もないところじゃけえ安心したらええで。」

 と言われ、大泣きしたのを憶えている。それは当然安心したからではなく、地震もあるし、雪も降る生まれ育ったこのいとおしい街を捨てなければならなかったから。まだ、どこかのがれきの下でどうにか生き延びているかもしれない両親や友人たちを捨てていかねばならないという罪悪感。

そして地震と津波という絶対的に敵わない強大な存在に対する圧倒的な敗北感。



「あんまり憶えていないか…… まあ、仕方ないよね。まだ小さかったし、あんまり憶えておきたいような出来事じゃなかったし。」

「うん、ごめん。」

「いいよ、いいよ。別に謝ることじゃないんだから。それよりも、元気そうで何より。みんなあの頃はまだ小さくて、それぞれバラバラにいろんなところに引き取られていったし……

 それにしてもすごいよね。こうしてまた再会できるなんて!」

 

 奈緒はものすごく興奮していたが、むかしのことを憶えていないわたしはどう反応していいか迷っていた。


「……やっぱり、これって運命なんじゃないかな。あたし達!」

「あたしたち?」

「あ、そうそう。崇の事覚えてる? カトウ・タカシ。」

「あっ、たかしくん。」

「なんだ、アンタ男のことはちゃっかり憶えてるのね。ひょっとして昔好きだったとか……」

「ちがうちがう、そんなじゃない。憶えているって言っても名前をなんとなく憶えてるくらいだから……」

「ふーん、そうなんだ。でもね、彼も今、この大学にいるんだよ。離れ離れになっていた彼と去年、この大学に入学した時に再会して、それから今年はあなたでしょ。やっぱり運命なんだよ。」

「……あ、先輩……だったんだ。すいません、なんかタメ口で。」

「ああ、気にしないでそんなこと。だって昔だってずっとため口だったんだし……って憶えてないかもしんないけど……」


 奈緒の言った『昔好きだった』という言葉はあながち間違いではなかった。ただ、好きと呼んでいいのかそれさえもよくわからない…… あの頃は生きることに必死だったし、自分に優しくしてくれる人ならだれでもよかったのだと思う。当時は混乱の只中に生きる七、八歳の少女にとって、自分を守ってくれる同年代の男の子はその存在だけで頼もしかった。だからことあるごとによく後ろをついて回ったものだし、それを恋と言っていいのかわからない。


 数日後、奈緒はわたしに改めて崇さんを紹介してくれた。崇さんは短髪で笑うと顔に皺が寄る、見た目優しそうな人だった。どこかぎこちなくはにかむその笑顔は、どことなく記憶の片隅で見たことのある気はするが、はっきりとは思いだせない。ただ、皺の寄ったその笑顔はやはり一緒にいて安心できる。

「タカシ、憶えてるでしょ。明歩よ、及川明歩。」

「あ。」

 わたし紹介する奈緒の言葉にその一言を言いながら、崇くんはあからさまに気まずそうな顔をした。わたしはその時、その表情の意味が理解できなかった。もしかすると昔、わたしは何か崇さんに対して失礼なことをしたことがあるのではないかと思っていた。

 奈緒は始終、崇さんの隣でべったりとくっついていた。

「あの…… 二人は恋人同士?」

「そうよ。もう、ずっと昔から。

 あの施設にいた時、たかしはあたしに『何があってもお前のことは絶対に守ってやる。』って言ってくれたのよ。そして大学に入って本当にたかしがもう一度目の前に現れた時はああ、やっぱり運命だったんだなって思ったわ。」

「……」

 崇さんは何も言わずに目を反らしていた。

「それより……」崇さんの言葉に奈緒は一瞬たじろいだ。

「そ、そうよね。そのことを言わなくっちゃ…… 明歩、あんたサークルとかってなんか入ってる?」

「えっと…… まだ何も決めてないかな。」

「あのね、それならね。ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど。」

「手伝ってほしい事?」

「そう、ちょっと今、ボラの人手が足りなくて困っているのよ。」

「ぼら?」

「そう、ボランティア。」

―――そういわれると断りようもない。わたしは……いや、わたしたちは過去に多くのボランティアの人たちにお世話になった。いつかそれは同じボランティアで返さなければならないと、施設にいる時毎日のように聞かされていた。


 障害者施設の多いこの町はどこにいてもボランティア募集の広告が目立つ。なにかに手を出そうと思うことはたびたびあるが、多すぎる募集はどこに手を出していいか迷わせる。自由にどれでも選べと言われれば人はどれを選んでいいのかわからなくなって、結局はどれも選べなくなってしまう。やがて麻痺した感覚は募集を見ても見ぬ振りすることを覚えさせた。だからこの誘いはひとつのきっかけとなった。果たして自分がボランティアに参加して、かえって迷惑を掛けないかという心配さえも知人の『人手が足りていない』のほんの一言で解消できた。


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