第5話 2011.3.11

 伏見一輝が十六歳の三月十一日の朝。

 その一言が彼の人生の中で最も悔やまれる言葉となった。


「ああ、チョコミントのアイスが食べたいな。」


 2011年当時、チョコミントのアイスというのは今ほどどこにでもあるものではなかった。ましてや夏でもない。岩手の三月はまだ冬だと言っていいし、ことさら岩手県の漁村では手に入らない。少し離れた繁華街まで行けば手に入らないでもない。そのこと自体、一輝はよく理解していた。そして母はそれをわざわざ買いに行ってくれることも。

 もちろん、一度は断る。

「そんなもの、どこにだって売ってるわけじゃないでしょ。」

 一輝はわかっている。それにどう答えればいいのか。

「まあ、俺がこんな体じゃなきゃ自分で行くんだけどな……」

 ―――一拍の沈黙。そして、

「いかないなんて言ってないでしょ。もう。」


 母は昼過ぎに買い物に出かけた。すぐ近所の組合マーケットではなく少し離れた大型スーパーまで行った。買い物をして往復するとなると一時間くらいはかかる。

 部屋の中で車いすに座ったままの一輝は母の車にエンジンがかかり、道路を走り去っていく音をじっと耳を澄まして聞いていた。

 本当はチョコミントアイスなんて別に食べたいと思ってはいなかった。

うずうずとはやる気持ちを抑えながら永遠とも思える三分間をじっと待ちわびた。そしておもむろに自分の部屋の机の引き出しから数冊の本を取り出し、さらにその下にタオルでぐるぐる巻きにされた塊を取り出す。急いでリビングのテレビの前まで行くと、撒いていたタオルを紐解く。

中から出てきたのは一枚のDVD。数日前にヘルパーにやってきたお兄さんがそっとプレゼントしてくれたものだ。


ビデオの再生を始めるやいなや、車いすに座ったままの一輝は体を左右にくねらせながら器用にズボンとパンツを下ろした。


当時の伏見一輝は16歳、本来ならば毎日だって、いや、一日に一回では足りないくらいにそうしたいと願っていてもおかしくないものだ。しかしながら毎日母親に身の回りの面倒を見てもらいながらその行為に至るには容易ではない。ましてや不自由な体では万が一親が家に帰って来たときでさえ、素早くかたずけて、〝なにごともなかったフリ〟をするのは難しい。

数日まえにヘルパーのお兄さんにもらったたからもの。いつものような携帯電話の小さな画面なんかではなく、大きな画面でゆっくりとみたいと思っていた。


三十分ほどの間に二回済ませた一輝はあとかたづけをした後、車いすの上でぐったりとなりまどろんでいた。もうそろそろ母親があえって来るころだろうと考えていた。

ガタガタという音が聞こえて、母が帰って来たのかとも思い目を覚ました。母はまだ帰ってきておらず、不気味なほどにシンと静まり返ったあたりの時間がまるで凍り付いているかのようだった。

咄嗟に『来る!』という得体のしれない恐怖感が脳裏をよぎった。

次の瞬間。世界が揺れた。

揺れたというより、転がされた。と感じた。もはや揺れているのかどうかさえ分からない状態だった。車いすが倒れ、一輝は床に投げ出された。必死で床にしがみつこうとするが、もうすでにどちらが床なのかもわからない状態だった。

ようやく揺れが収まり、一輝はリビングのカーテンにしがみつきながら起き上り、窓に向かって倒れ込んだ。顔を窓ガラスにくっつけて外を眺める。


ザーッという雨のような音が遠くから聞こえる。遠くの方は激しい霧がかかっているようでよく見えなかった。

視界が慣れたころにはもう、どうしようもないのだと感じた。

昨日まで遠くに見えていた海がもう、目の前まであった。

海の上には家や、車が浮かんでいた。

海はどんどん近くなってきた。

海は一輝の家のある高台の壁にぶつかって、砕け、激しいしぶきを上げた。

家の床に海水が入ってきた。もう、海は自分の家の中にまで入ってきたが、そこで勢いは止まった。

窓から見る景色は一面の海。そこに自分の家がぽつんと建っているようにも見える。

窓のすぐそばを浮いた板にしがみつく犬がきゃんきゃんとわめいていた。

家が、目の前を左から右へと流れて行った。

二階の窓には小さな女の子がいた。

こちらと同じように窓に額をくっつけ、じっとこっちを見ていた。

目があった。

女の子は一輝のことを羨望なまなざしで見つめていた。

そんな目で見られたことは今まで一度もなかった。

人々はみな、一輝のことを見ながら、いつも哀れそうな目でしか見なかった。

初めての体験だった。


次の瞬間。

「かあさん!」と叫んだ。


携帯電話は全くつながらない。慌ててリモコンでテレビをつけたが、すでに電気は死んでいた。車いすに飛び乗った一輝は急いでスロープに作り直されたばかりの玄関を出た。あたり一面は海と化していた。もうそこには誰もいない。そしてどこにも逃げることはできなかった。

最近にようやく作り変えられた一輝の家のほか、高台の上の街は車いすで移動できるところはどこにもない。

再び室内に逃げ帰った一輝は窓からずっと外を眺めていた。

海の潮が引くとき、潮はすべてを連れ去った。

潮の去った後の町並みには一輝の知る景色は何一つなかった。


自分の力ではどうすることもできない一輝はひとり、呆然としながら家の中でいつまでもいつまでも母親の帰りを待ち続けた。


夜になり、潮も引いたが、それでも一輝ははその場を動かなかった。いつ母親が帰ってくるかもしれないと待ち続けたという。

しかし、たとえ動こうとしたところで動くかとなどできなかっただろう。筋ジストロフィーの患者が車いすで動き回れるような道路はもうどこにもなかっただろう。


深夜、福島原発の建屋が吹き飛んだ頃の時間。当然電気の死んだ家の中にいる一輝はそんなことを知る由もない。母親のことが心配で心配でならないにもかかわらず、そんな中で腹が減っている自分に気付いた。照明の消えた深夜の暗闇の中、手探りで電気の通っていない冷蔵庫を開けると生暖かい空気とともになまぐさくぃ匂いが漂った。

手探りで冷蔵庫の中をあさり、牛乳とハム、それに食パンを取り出して、暗闇の中でまさぐるようにして食べた。そして腹を満たした一輝は本能に従い、眠りに落ちた。

当時の伏見は牛乳が嫌いだったという。一輝はいつも牛乳は飲むためではなく、棚の中のコーンシリアルにかけて食べていたが、あえてその日はそうはしなかった。それどころかペットボトルのジュースや缶詰があったにもかかわらず、それらに手をつけもしなかったのは、おそらくそんな状況下の中、一日でも長く生きながらえることができるように、保存がきくものは後にとっておくという冷静な判断を本能的にしたのだろうという。


そんな一輝の家に救助隊がやってきたのは二日後のことだった。救助隊に救い出される中、一輝は必死に隊員に非常食のありかを訴えた。隊員は笑顔でそれにこたえ、棚の中にしまっていた非常食を全て持ち出してくれた。

が、それら非常食は避難所に移った一輝のもとに届けられることはなかったという。本心を言えばそれに思うところもあったのだろうが、さすがのそれは口にしなかった。

命を助けてもらっておいてなお、自分の食糧だなどという主張がどうしてできようか? 一輝はあくまで隊員に対し、『この食料を避難所のみんなで分けてくれ』という想いで隊員に保存食のありかを教えたのだと言い聞かすことによって、自分自身を納得させたのだという。


その後、避難場所へと移った一輝は皆が狭い肩を寄せ合う場所で過ごす中、堂々と車椅子という不可侵的なスペースを確保しつつ、厚かましく避難生活を過ごしたという。


母親の行方はわからずじまいだった。しかし彼は一度として母が亡くなったとは言わなかった。ずっと行方不明のままだと言いつづけた。



彼の住んでいた町はテレビの報道の中で、何度も〝壊滅〟という言葉で表現された。

当時まだ幼かった僕はよもやこの世の中に〝壊滅〟なんて言葉が使われるなんて思いもよらなかった。あまりにも身近ではない言葉で、いざ、耳にしてもどういう意味なのかいまいち理解できない。

ただただその言葉に〝悔しさ〟を感じて涙が零れ落ちたのを覚えている。

連絡手段もない、救助を呼ぶこともできなかった彼のところに救助隊が来たのはほとんど奇跡としか言いようがなかった。



*************************************



あの大学で奈緒と再会した時、彼女は運命だと言った。


その言葉を否定できようがない。

二度の大きな震災の中を奇跡的に生き抜いた伏見さんは遠く離れたこの間等のある街にやってきた。

その周りに集まったのがわたし、及川明歩と、吉澤奈緒、加藤崇という三人で、三人は伏見さんと同じ、あの震災の中を奇跡的の生き抜いた者たちなのだ。

 しばしば崇さんは伏見さんを不死身だと言った。何度の屈強の中からよみがえってくる彼を陰ながら、


―――〝フェニックス・イッキ〟


とたたえるものも少なくはなかった。


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