◇9「闘鶏」

 フィオが僕と京香を駅まで送ってくれている間、童顔の御曹司リオンは、自ら車を運転して商店街に向かっていたんだ。


「なんだったんだアレは?」

 リオンは商店街へと車を走らせながら、ビル街の間を飛んだ得体の知れない生物を思い返していた。

 あの娘が本を使ったのか? 何の為かは分からないが好都合だ。

 娘も本もあの辺りにあるという事だし、大勢の人間がアレを目撃したのなら説明の手間が省ける。

 あの娘の正体をバラしてしまえば、誰もこの土地にアイツを置いておかない。

 今しがた街を脅かした化物と、あの娘は同類なんだ。人間というのは卑しい生き物だ。娘の正体が分かれば皆手の平を返すに違いない。

 あの本も、それがどれだけ危険な物かを教えれば、あっさりと見つかるだろう。

 と思案しながらリオンは車を商店街の中へ入れる。

 深夜になろうという時間なのに賑わっている店がある。さっきの化け物を見て、この世の終わりと自棄になっているのだろうか。ドアを全て開け放ち、通りにまでテーブルを並べて騒いでいる。人が大勢集まっているなら好都合だ。人を動員させて娘を探させよう。

 統率の取れた部下達とは違う。捕らえる時に娘を傷つけてしまわないか、むしろそれだけが心配だ。

 車を降り、報酬額を検討しながら店外の客の間を抜けて中に入ると、賑わっていた店内が静かになる。

 皆突然の来客、庶民的な店に不似合いのリオンに注目している。

「おや、神無月の旦那。血相変えてどうしたんです? 実は今日は商店街の新しい記念日でしてね。皆で祝ってたんですよ。旦那もどうです」

 店内で音頭を取るように立っていた天虫が迎え出た。

「そんな事はいい。娘が逃げた。お前達、手を貸せ」

 忌々しげに吐き捨て、早く来いと言わんばかりに店を出ようとする。

「旦那ぁ、こんな時間に勘弁してくださいよ。御付の黒服はどうしたんです? 何もこんな老いぼれ達を駆り出さなくても……」

 リオンは顔をしかめたが、天虫の言う事も正論には違いない。しかし「部下はほとんどあの娘に叩きのめされた」などと言える筈もなく、予定より早く奥の手を使う事にした。

「おい。みんな聞け! あの娘は、蓮甘フィオーリは化物だ。今空を化け物が飛んでいただろう。あれもあいつの仕業だ!」

 店内は一瞬完全に沈黙したが、すぐに一斉の笑い声に変わった。

「信じないのか? おい、虫! お前からも言え。あいつの正体を皆に教えてやれ!」

 笑い声を制するように天虫が手を上げると、皆それに従って笑いを収めた。

「ええ、知ってますよ。あの子が青い本から出したんですよね。みんな見てましたから。ああそうそう、フィオーリ自身もあの本から出てきたんでしたね」

 天虫の言葉に、商店街の人々はざわめく。

「へぇーっ、そうだったのか。どうりで」

「オレはそうじゃないかと思ってたよ」

「あんなかわいい子が、蓮甘の娘なわけないものな。そりゃそうだ」

「大体蓮甘結婚してねぇじゃねぇかよ」

 驚きの言葉も混ざるものの、皆動揺する事なく歓談に戻る。

「おい!!」

 リオンはこれ以上ないというくらいの大声を上げて、店内を静寂に戻す。

 ぜいぜいと息を切らし、一度深呼吸をして外を指差す。

 何か言おうとするも、すぐには声が出ず、何度か口をパクパクさせながら外を指差し、やっとの思いで声を絞り出す。

「あれ……、見たよな。空……飛んでた」

 だが皆静まり返ったままリオンを注目するだけだ。

「あんなの……見た事あるか? なんとも思わないのか?」

 外を指しながら、誰か自分の言葉を理解する者は居ないのか? と探すように見回す。

 しばらくの静寂の後、天虫が皆に向かって言う。

「見た見た。凄かったよなぁ。なあ、みんな!」

 一斉に「ああ凄かった」「綺麗だったな」と歓談に戻る。

 リオンは顔をしかめて歯を食いしばる。

「なんなんだこれは。……お前ら、オレを馬鹿にしているのか? マンションの話は無しにするぞ」

 店内の喧騒がピタッと止まり、皆リオンに注目する。

 リオンの口元がふっと緩むと天虫が声を上げた。

「みんな! 買い上げの話は無しだ! いやぁ、一度了承した話をどうやって断ろうかと皆で悩んでた所だったんですよ! いや、よかったよかった。みんな問題は全部解決だ! さあ飲んでくれ」

 店内はいつも以上の活気に包まれ、そこかしこで乾杯のジョッキが上がる。

 リオンはしばらくの間、何が起こっているのか分からないように呆けていたが、天虫に歩み寄る。

「おい。お前が皆を説得しろ。お前の秘密を皆にバラすぞ」

 天虫はリオンの言葉に、手を叩いて皆の注目を集める。

「みんな、聞いてくれ。実はまだ話してない事があってなぁ。実はな、ワシだけこの旦那と密約して、皆の三倍の値を約束してもらってたんだ」

「ええーっ、そりゃないぜ天(あま)さん」

「ひでぇジジイだな」

「じゃあ、この酒は奢りって事で。それで許してやるよ」

 皆笑いながらグラスを上げる。

「ええー、そりゃキツイな。やっぱ悪い事はするもんじゃないねぇ」

 笑い合う町民達を前に、リオンはただ立ちすくんでいた。日本に来てから金と権力で思うようにできない事などなかった。人間は所詮利害でしか動かない。

 金と権力を持つ自分にできない事はなかったはずだ。

「なんなんだ……、何がどうなっているんだ」

 誰に言うでもなく、繰り返し呟いていた。


 このエピソードは町内でも有名だ。

 何せ天虫の飲み屋に行けば必ず語られる。酒が入って上機嫌になった天虫は、よほどスカッとしたんだろう、来る客来る客に、その時の様子を身振り手振りで語った。ただ回を増すごとに話が大きくなっていくので、実際の所どういうやりとりだったのかは分からない。

 でもこの話が語られるたびに、商店街の人達の結束はより強くなっていくように思う。

「でも良かったよ。みんな無事で」

「でもいいの? せっかく街のみんなも分かってくれたのに、一緒に楽しまないで」

「だって僕達お酒飲めないし。一緒に楽しめないよ」

 ねー、と隣を歩くフィオと頷き合う。

「でも、よく伝承にある水竜を正確に再現できたね。資料にあった想像図とは随分違ってた。それとも、やっぱりアレも実物とは少し違うのかな?」

「あら、そんなの簡単ですわ」

 とフィオは本の最初の方のページを開き、僕は眼鏡を上げて本を覗き込む。

 そうか。元々伝承にある水竜も、この本から出されたものだったのか。

 岸辺誠一なら、一度見た絵を寸分の狂いもなく再現する事など造作もない。それこそ、筆圧から書いた者の心情をも読み取るような超漫画家だ。

 あれは伝承にある水竜と同じ物なんだ。その頃から本はあって、それがずっと受け継がれて、フィオのお父さんに……、そしてフィオに。

 伝説は受け継がれ、数百年の時を経て、フィオがまた水竜を出現させて街を救った。

 もちろん商店街がなくなる事は、街が壊れる事に繋がらない。どんな形に変わっても街は街だ。

 フィオが救ったのは商店街に住む人々の心。

 人を思いやり、皆で助け合う、温かい心だ。

 僕が感慨深げに満足していると、後方から車が走ってくる。

 こんな時間に? と思うも車を避ける為に端に寄る。

 だが車は結構な速度で真っ直ぐ僕達に突っ込んできた。

「危ない!」

 京香が僕達を突き飛ばし、車がシャッターにぶつかる音が響く。

 僕は何が起こったのか分からず地面に伏していたが、事故らしい事を理解してはっと顔を上げる。

「フィオ! 京香さん!」

 見ると黒い車が店舗に突っ込んで、シャッターをひしゃげさせている。

 その横に京香が倒れているのが見えた。フィオの姿は見えない。

「京香さん!」

 まず目の前の京香を見る。

「う……、大丈夫。刎ねられてない。避けた時に腰を打って動けないだけ。……フィオちゃんを」

 そうだ。フィオは? と辺りを見回すが姿が見えない。

 シャッターが破れて大きな穴が開いている。店の中に飛ばされたのか? と回り込んで店の中に入ろうとすると、それを塞ぐように運転席のドアが開いた。

 運転者に文句を言ってやろう……と思ったが、現れたのは小さなスーツに身を包んだ童顔の男、リオン。

「お、お前……」

 僕は思わずそう呟いた。

「お前だと? お前、目上の者には敬語を使えと教わらなかったのか?」

 お前にだけは言われたくないぞ。

 フィオは? 出て来ない所を見ると気を失ったか怪我をして動けないか。いずれにせよ連れ去られてしまったら全て水の泡だ。

 僕は何としても阻止しようと拳を握り締める。

「なんだ? お前オレと戦うつもりか? いいだろう。いい加減お前には頭にきていた所だ。神王も戻って来ない。オレにはもう何も残っていない。男と男、拳で勝負をつけようじゃないか」

 男と男? 聞こえはいいが大人と中学生じゃないか。しかも僕は文系だ。普通に考えれば話にならない。でも……、

「頭に来ているのは僕も同じだ!」

 雄叫びを上げながらリオンに殴りかかる。

 パチンと軽い音を立てて頬にヒットした。

 リオンはよろよろと後ずさり、車のドアに背をつける。

「いいパンチだ」

 余裕のある笑みで答えるリオンに僕は身を引き締める。実力差があるから余裕を見せて一発くらい殴らせてやろうというわけか?

 リオンとは体格はあまり変わらないが、喧嘩は経験がモノを言う。だがどれだけ殴られたっていい。フィオは絶対に渡さない。

 リオンは一歩踏み出し、僕と同じように拳を突き出す。

 パチン! とこちらも同じような音を立てて僕の体を押した。

 痛い事は痛い。だが想像よりも遥かに軽い。それでも喧嘩をした経験なんてないから、これだけで僕の足は震えている。

「この野郎!」

 リオンは反対の手でもパンチを繰り出す。

「痛っ!」

 かなり痛い。僕が今まで感じた痛みの中でも一二を争うくらいに痛い。だが脳も揺れなければ出血もしない。眼鏡すら飛ばない。痣にもならないだろう。

 まさか、これがリオンの実力なのか? こいつも文系? いや、命令ばかりで自分では手を汚した事のないお坊ちゃんなんだ。喧嘩の経験なんてないんだろう。

 本当に体格のままの強さしかない。なら負けるわけにはいかない!

 お互いパンチを避ける技術も防ぐ技も持っていない。手を出せば当たる。僅かに月明かりが降り注ぐだけの暗い夜の街に、ペチペチと緊張感のない音が響いた。

 だが、くそっ! 手が痛い。

 殴るという行為自体初めてなんだ。顔よりも手の方が赤くなっている。手が痛くてそれに合わせてパンチ力も落ちてくる。顔を叩く音は回を増すごとに小さくなっていった。

 少し動いただけだけど、喧嘩の緊張の中、普段の数倍もの体力が奪われ、お互い立っているのがやっとだ。

 だがリオンの顔は少し赤くなり、鼻血も出ている。僕も似たようなもんだろう。眼鏡がズリ落ち、鼻血も出ているに違いない。

 だが眼鏡を殴らないのは気遣っているのではなく、眼鏡に当たったら手が痛いからだ。

 僕達は近づき、互いの首を絞め合った。だが手が痺れてうまく力が入れられない。

「この……このー」

 まるで園児同士のような喧嘩は、ほんの少し僕が勝(まさ)った。

「ぐぐ……」

 歯を食いしばりながらもリオンの体が少しずつ下がる。後ずさり、車のボンネットの上に押し付ける形になった。

「く、くそー」

 リオンは僕の首から手を放し、崩れ落ちた。

 車のタイヤを枕にするように力なくうな垂れる。

 勝った……。だが僕もヘトヘトだ。

 フィオに対する想いで勝(まさ)ったようで、僕は両手を上げて雄叫びを上げたい気分だったが、もう立っているのがやっとだった。


 これは後になって思った事だけど。正直、最後の戦いくらい壮絶な死闘を演じろよと思う。どうせ他にも色々と脚色してるんだから。

 でも僕自身、喧嘩の経験がないのも事実だから、その辺どのくらい盛ればいいのか分からない。他のバトル物を参考に書いたら現実とかけ離れすぎて、あまりにリアリティがなさすぎて没にしたんだ。

 とにかく、僕とリオンの戦いは僕の勝利で幕を下ろした。


 フィオは店内にいるんだろうか、と店の中の方へ足を引き摺る。

「ふん、これで勝ったと思うなよ。オレが生きている限り……、どこまでも追って、必ずオレの物にしてやるからな」

 僕はその言葉にうんざりするが、今はいい。とにかくフィオを……と店内に注意を向けると何かを引き摺る音が聞こえた。

 僕もリオンも動いていない。京香でもない。音は店の奥から聞こえてくる。

 それも何か重い物を、金属を擦り付けるような音。

 そして奥の暗がりから、ゆっくりと歩いてくる人影が見えた。

 その小さな体が引き摺っているのは……、大きな刃物。鉈のような大きな包丁だ。

 その人影、フィオはギラリと光る歯を見せ、その相貌には赤い炎が揺らめいているように見えた。

 耳障りな音を立てて包丁を引き摺りながら、フィオはブツブツと何かを呟いている。

「話す……なかれ……、聞く……なかれ」

 こ、これは……、まさか。

 フ、フィオ? と声を掛けようとするが声が出ない。体力の限界もあったが、恐怖で身が竦んでしまったようだ。リオンも同じなようで、驚愕したように目を見開いている。

「江戸の……山賊」

 まさか、いつの間にか殺人鬼の本を読んでいたのか? ダメだ! と止めたいのに体が動かない。

 フィオはタイヤを背に倒れているリオンの前に立つ。

 下目使いに見下ろし、ニヤリと歯を見せると、包丁を肩越しに背負うようにして振りかぶる。

「クケケ……」

 鮫のような笑いを浮かべながら、一気に包丁を斬り下ろした。

 敵将を馬ごと切り倒しそうなその斬撃は、リオンが背にした車のボンネットに深く食い込み、見上げるリオンの顔の前で止まった。

 時が止まったような静寂が続いた後、フィオが僕に顔を向け、

「な~んちゃって」

 と笑った。

 僕はしばらく固まっていたが、はは……と少し笑って応える。よくよく店内を見回してみると、ここは中華料理屋さんか。たまたま奥の厨房にあった包丁らしい。

 詐欺師? メアリ? 一体誰だ? と一通り考えてから、思い当たる一人に行き着いた。

 リオンは目を見開いたまま奥歯を鳴らして固まっている。気絶しているらしい。これならもう僕達を追ってくる事はないかもしれない。

 僕達は外へ出て、京香を助け起こす。

 これで、本当に全て終わった。

 僕達は互いに見合って少し笑う。フィオの胸元がもぞっと動いたので、フィオはホシローを取り出した。

「そう言えば、まだ功労者がいたな。ホシローもご苦労様」

 ホシローは笑って頭を振っているが、少し様子がおかしい。

 そう思っているとホシローの体が光り始めた。なんだ? と思っているとその体は周りから少しずつ粒子を立ち上らせる。

 まさか、消えてしまうのか?

「ホシロー?」

 ホシローは呼びかけると僕を見てにっこりとした笑顔を向ける。そして手を振ると、完全に粒子になって消えてしまった。

 フィオは少し寂しそうだったが僕を見てにこっと笑った。

 だが京香は真っ青な顔をしている。多分僕も……、同じ事を考えているんだろう。

 まさか、本から出て来たものは、いつか消えてしまうのか?

 じゃあ……、フィオも? いつかは?

 沈痛な面持ちになる僕らにフィオは明るく言う。

「じゃあ、行きましょうか」

 軽やかに歩き出すフィオに、考えても仕方ないと思ったのか京香も明るい声を出した。

「行こっか。でも、終電逃したかな?」

 京香の言葉に、慌てて携帯を確認する。すっかり遅くなってしまった。

「でも、これじゃあ記事にできないわね。結構大変だったのになぁ……。どちらかと言うと、これはあなたの領分ね」

 涼香は僕の背を叩く。

「どうせまだ完成してないんでしょ?」

 え? と一瞬戸惑うが、すぐその意味を理解する。

 僕の小説か。

 そうだ。フィオに読ませた物語はまだ完結していない。

 肝心のラストシーンがまだ入っていないんだ。主人公フィオーリは、男の子と結ばれてハッピーエンド……の予定なんだけど。

 小っ恥ずかしくてまだ書き入れていない。キスシーンくらい入れておいても良かったかな、と少し後悔しながらフィオの後を追う。あ、キスはほっぺにね。

 僕はフィオに並びながら、さっきの事を思い出す。

 殺人鬼のフリをしたフィオ。

 あれは誰でもない。フィオ自身だ。僕が渡したのは、僕の書いたフィオの話。


 僕が想う、蓮甘 フィオーリなんだ。

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