◇8「恵みの雨」

 水竜は夜空を駆け巡り、近隣に雨を降らせた。豪雨ではない、霧のように柔らかく、包み込むように優しい雨。

 水竜はまだ明かりの点いているビルの方にも飛んでいき、立ち並ぶ高層ビルの間を縫うようにして泳ぐ。

 ビルに残って仕事をしていた人達は、窓に当たる水音に「ん? 雨か? 傘持って来てたかな?」と窓の方に目をやってガタッと後ずさった。

「な、な、な、なんだアレは!?」

 部屋にいる人達が窓に駆け寄る。まだできたばかりの発展途上中の近代的な街。最先端の設備が珍しくて、この時間にも自主的に残っている人も多い。

 皆何事かと窓の外を見に集り、そして言葉を失う。

「わ、こっち来た!」

 眼前に迫り来る巨大な竜。その超常現象を目前にしながらも、誰も窓から離れようとはしなかった。

 竜はビルの壁に添って飛び、窓に水飛沫を浴びせ、中の人達が歓声を上げた。

 夜遅くまで詰めていたので、居眠りして夢を見ていると思っているのか。幻覚を見ていると思っているのか。不思議と誰も恐怖を感じていない。

 夜空を駆ける青い竜の姿は、確かに神秘的で美しかったが、それだけではない。

 ライオンは恐ろしい生き物だが、ライオンの子供が産まれて初めて母であるライオンを見ても恐怖しないように、母なるもの、恵みを与えてくれるものに対する本能的な安心だった。

 怖い神様の絵は、父親への畏怖と同種なんだ。あれは悪いモノではない。それだけは、皆理解できた。

「もう一回こっち来てくんないかな」

「すごく綺麗……」

「写真写真!」

 水族館で珍しい生き物を見る時のように皆がはしゃぐ。

 それに応えるように、水竜は優しく、優雅に夜空を駆け巡った。

 その幻想的な光景は、明日になれば夢でも見たのかと忘れられるのかもしれない。

 でも何も知らない街の人達の心にも確実に何かを残した。そしてその伝説はまた語り継がれる事になる。


 ――とそんな感じでビルの窓に張り付く人達の様子を、商店街の人々と一緒に眺めていた。

 僕は呆然としている天虫に歩み寄って話しかける。

「利根川さん。『にじ』ってご存じですよね? レインボー。雨上がりに空に架かるアレです」

「ああ?」

 唐突に話しかけられた天虫は、我に返ったように曖昧に返事をする。

「『にじ』って漢字でどう書くか、分かりますよね?」

 何をワケの分からない事を……、という顔をするも目を上にやって漢字を思い描く素振りをする。

「そうです。『虹』です。虫偏(むしへん)に工(こう)」

 天虫は一瞬固まったが、やがて「あっ」という顔をする。

「虹って綺麗なのに、『虫』っていう字が入ってるのは不思議だと思いませんか?」

 天虫は不思議に思うも、その理由までは分からないんだろう。僕の言葉を待っている。

「爬虫類っていう言葉も虫って書きますよね。昔は『虫』っていうのは昆虫と爬虫類の事を指してたんです。信号機の緑色を未だに『あお』と言うのと同じですよ。昔は、これらの区別が曖昧だったんです」

 神妙な面持ちになる天虫に僕は続ける。

「そう。虹っていうのは、空を駆ける蛇、つまり竜の形を表してるんですよ」

「あ……」

「あなたは代々この土地に住んでるんですよね。ならご両親もこの土地の伝承は知っているはず。この土地の守り神である、天駆ける水竜の伝説を」

「ああ……」

 天虫の目から涙が溢れた。彼にも理由が、名前の由来が分かったんだろう。

「そうですよ。ご両親は伝承にある、天駆けて恵みの雨をもたらす水竜、この土地の守り神の名前をあなたに付けたんです。この地を、故郷を守ってくれるような人になってくれる事を願って」

 天虫は顔を覆って、嗚咽を押し殺しながら泣き崩れた。

 水竜はビル街だけでなく、街全体を回るように飛んでいる。この商店街の上にも再びやって来た。

 霧のような雨が商店街に降りかかる。

 これは作物だけに恵みを与えるのではない。人々の心にも、乾いた心にも癒しを与えてくれるような、そんな雨だ。

 商店街の人達はその雨を全身で受けるように手を広げた。

 やがて水竜は高度を下げ、商店街の通りに添って飛行すると、薄く透けるように透明になっていく。

 そして地面に染みこむように地に潜った。伝承の通りに、この地を守る為に大地と一体化したかのように……。

 再び夜の静寂が訪れたが、人々はこれまでと違った、安らぎに満ちた顔をしていた。

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