◇7「現実」

「ここまで来れば一安心でしょ」

 京香が息をつくように言うが、僕は早く部屋に帰って休みたい気分だった。そこへ聞き慣れた声がする。

「残念だが、そうはいかないよ」

 現れたのは商店街の組合会長、利根川 天虫。

「あーっ、あんた! よくもぬけぬけと!」

 京香が敵意剥き出しで迎える。

「さあ、フィオーリ。いい子だから神無月の所へ帰ろう」

「ふざけんじゃないわよ! 商店街のみんなに、あんたの正体をバラしてやるんだから」

「正体? それは何の事だね。正体と言えば、フィオーリの方が困るんじゃないか?」

「あんた……」

 フィオの事を知っていたのか……。リオンと通じていたのならそれも不思議ではない。でもそれならまずい事になる。

「そんな事。……みんなが信じるワケないでしょ」

 動揺しながらも立ち向かう姿勢を崩さない京香に、天虫は涼しい顔で言う。

「もしかして、街の人々が自分達の味方をしてくれると思っているのか? おめでたいな。街の連中は、皆ワシに協力してくれていただけだよ。みんなワシの味方だ」

 何を言ってるんだ? この人は……。この人はフィオを、小さな女の子を危険な奴らに売り渡したんだぞ。

「情緒不安定に奇行を繰り返す娘を、みんなが普通に接してくれている。おかしいと思わないのか?」

「それは……」

 フィオは皆に好かれているから……。

「みんなフィオーリの事を受け入れてくれる温かい人達だと? バカな。ワシが吹聴していたんだ。この子は精神に不安を抱えているから、刺激すると何をするか分からない。だから皆腫れ物に触るように扱っていたんだよ」

「そんな……」

 ウソだ……と言うよりも早く周囲に異変を感じた。

 もう夜も遅い。店は完全に閉まって商店街は暗く沈黙していたが、そこかしこからもぞもぞと動く影が現れた。

 暗い中だけど、それが見知った顔ぶれである事だけは分かった。

 maiのマスター、パン屋の夫婦、小物屋のお母さん。僕も知っている顔がほとんどだ。

「さあ、みんな。もう遠慮する事は無いぞ。神無月の旦那がこの子を連れてってくれるんだ。みんなで送り出そう」

「そ、そうだ。早く出て行ってくれ」

「これで安心して暮らせるんだ。もうたくさんだ」

 天虫の言葉に続いて、皆口々に漏らす。

「フィオは……、フィオは商店街の事をいつも一番に考えてたじゃないですか。あなた達の先頭に立って戦ってたんですよ!」

 僕は堪らず口を挟んでしまう。

「あんなの値を吊り上げる為に決まってるだろう。伝統じゃいい暮らしはできないんだよ。だがもう俺らにマンションを充(あて)がってくれる事を約束してくれたんだ。これもみんな利根(とね)さんのおかげさ。なあ? みんな」

 誰かが言うと、皆口々にそうだそうだと続く。

「あ……、あんた達。恥ずかしくないの!」

 涼香は怒りを露わにしているが、僕はただ悲しかった。

 商店街で、広場で、優しく接してくれた人達が……、ウソだったなんて。僕達を騙していたなんて……。

 フィオはこれからどうなるんだろう。商店街の人々に見放されて、居場所を失って……。どうすればいいんだ? 僕は、どうしたらいいんだろう。

 悔しそうに歯噛みする僕の気持ちを読み取ったのか、

「ワシはね。臆病者なんだよ。親に自分の名の由来を聞くのも恐かった。早くに両親を亡くし、その機会も永遠に失われた。だが、もうその必要もない。もう分かったよ。ワシは所詮虫なんだ。獅子身中の虫、それがワシの名の由来だよ」

 獅子の身に棲み、その恩を受けながらも獅子に害をなす虫。自虐的に笑いながら言う天虫は、どこか投げやりで悲しそうだ。

 街の人達もぶつぶつと文句を言うように「早く行ってくれ」というような事を言っているが、罵声を浴びせているにしては力がない。やはり罪悪感があるんだろう。

 むしろ彼らにこれ以上辛い役回りをさせておく事こそ気の毒ではないのか、という気さえしてくる。ここは一刻も早く立ち去るのが最善なのではないか?

 フィオは何を思っているんだろう。そもそも、今は何になっているんだろうか? 小公女でない事を祈ろう。純粋な心に、この場面は痛すぎる。

 目の前で佇む少女に「行こう……」と声を掛けようと近づいた時、ずっと沈黙していたフィオは口を開いた。

「いいえ」

 静かだが力強く、凛と透き通った声はその場の全員の耳に入り、人々のざわめきもピタリと止む。

「わたしは天虫さんの名前好きですよ」

 皆絶句し、当の天虫は呆気にとられた顔をしたが、やがてふっと苦笑いする。

「何を言い出すかと思えば……、君に気に入られる事に何のメリットがあるんだね? 君にワシの気持ちが分かるのか? 名前に『虫』なんて字を入れられた者の気持ちが」

「どんな名前にも、親は必ず意味と願いを込めるものです。天虫さんの名前もきっと両親の想いが込められています」

「ほほう。なんだね? 教えてくれないか?」

 フィオは答えない。

 詐欺師だろうか? 確かにここは口八丁で丸め込めるのが得策だけど、一体どうやって?

 フィオは振り向いて僕の方へと歩いてくる。天虫は「ほれ見ろ」と言わんばかりの表情だ。

「あ、あの……名前の由来を知ってるの?」

 声を落とし、恐る恐る聞いてみる。フィオのお父さん、蓮甘と天虫は旧知の仲だったんだ。もしかしたら本当に知ってるのかも、と期待して聞いてみたが、

「いえ、知りませんわ。その謎解きは多聞さんにお願いします」

「いいーっ!?」

 ここで僕に振るの!?

 フィオはにっこりと微笑んで、僕から本を受け取る。詐欺師じゃないな……、これは本当に僕を信頼しての事だ。

「作家さんですもの。名前考えるの得意でしょう?」

 そりゃあ……、考えたりするけど。考える時は大抵意味を含めるものだけど。でも適当に付ける事だってあるよ? なのに人の名前の由来なんて。それに僕は卵も卵、新人賞に応募した事もない。

 その時、突然背後で激しい破壊音が響き渡る。それは建物の屋根から落下してきた巨大なモノが、僕達の乗ってきたジープを押し潰した音。ガラスの割れる音に金属がひしゃげる鈍い音が響き、タイヤが破裂音と共に飛んで行く。

 その落下物は、体を起こすと夜天を貫くような咆哮を上げる。

 神王!? ここを嗅ぎつけてきたのか。

 街の人達は驚き、何人かは尻餅をついたが、天虫が人々を安心させるように「大丈夫だ。あれは旦那の使いだ」と制する。

 後ろには獣、前には街の人達、万事休すか……と半ば観念したが、フィオは神王には目もくれず町人達の方へ進み出る。天虫はそれに応えるように手を差し伸べた。

「さあ、フィオーリ。皆を怪我させたくないだろう。なに、心配はいらない。旦那の下(もと)なら贅沢な暮らしができる。逃げた事はワシも一緒に謝ってやる」

「ありがとうございます。それは過分なお申し出ですね」

 フィオは静かに目を閉じる。

 僕は「何か言わなきゃ」と焦るが何も思いつかない。フィオはそんな僕の心情などお構いなしに表情を変えると鋭く言い放つ。

「だが断る!」

 フィオは本を開き、右手を横に払うように突き出す。その手にはペンが握られていた。

 Gペンだ。漫画家?

 フィオは右手を目にも止まらぬ速さで動かすと、背中越しに僕に言葉を投げかけた。

「おいおいおいおい、作家志望くん。このくらいの試練を乗り越えられないようじゃ、ダメなんじゃあないのか!?」

 本が光を放つ。

 眩しい……。まさに真昼のような光。

 その光の中を、蘇る不死鳥のように超常的な生物が誕生した。

 その神王を遥かに凌駕する大きさの生物は、本からその体を現わし続ける。出てくる……、出てくる……、出る……出るって長いぞ!?

 出現したものは巨大な竜。クリスタルのように半ば透き通った青い色をしたその姿は、それ自体が神秘的な光を放って、泳ぐように身をうねらせながら空へと上って行く。

 竜は天に昇ると身を翻して来た道を戻る。つまり、こっちに向かって落下してきた。

「わ、わっ!」

 僕を含めて呆然としてした人達も、さすがに頭を抱えて地面に伏せる……が竜は地面すれすれの所で方向転換。再び空へと昇っていくが、その過程で背後にいた獣、神王を飲み込んだ。

 ばしゃっとにわか雨のように水飛沫が地面を打つ。

 そう言えば、この土地の伝承にある守り神は、恵みの雨をもたらす水竜なんだっけ。

 さあっと霧状に舞う飛沫は、まだ輝きを放っている本の光を受けて、綺麗な光学現象を残す。


 ああ、そういう事か。……僕にも分かったよ。

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