◇2「自虐の少女」
やや寝ぼけ眼で商店街に赴く。
昨日帰ったのは遅かったけど、学校で居眠りする事はなんとか堪えられた。
アーチを潜って通りに入ると、ホウキで道を掃いている男の子の姿が目に留まった。髪を下ろしているが、あれは昨日、商店街の危機を知らせてくれたタカシだ。
彼はあれからチームには戻らず、おばあさんのタバコ屋を手伝っているらしい。
彼は少し前に実のおばあさんを亡くしたが、突っ張っていた為に何もしてやらなかった。その事をずっと後悔していたので、なんかほっとけないみたいだ。
もっともタカシはそうとは言わず、住み着いている猫が可愛いからだと主張してるけどね。
僕は旧友の更生に喜んだが、本人は昔の仲間に未練でもあるのか、それとも結局自分が裏切ったからなのか心無し表情が冴えない。
あの連中は夕べの失態で神無月に睨まれ、事実上の解散だと言う事だ。もう大手を振ってバイクを駆る事はない。
僕はそのまま書店に赴くが、いつもの出迎えの声がない。と言ってもいつも違う出迎え方なんだけど……。
今日は静かだ。誰もいないのかな……と中に入ると奥のカウンターにフィオはいた。
本を台の上に置き、うな垂れるようにして……読んでるのかな?
薄暗い店内で、ピクリとも動かない。寝ているんだろうか……と見ているとのろのろと手が動き、次のページをめくった。そしてまた動かなくなる。
「あ、あの……。大丈夫?」
恐る恐る声を掛けるとフィオはゆっくりと顔を上げる。だがその顔は頬がこけ、目の下に隈ができている。美しかった金髪も少しガサついていつもの艶がない。
寝てないの!? もしかして徹夜で本を読んでいたんだろうか。いくら本が好きでもあまり根を詰め過ぎない方がいいんじゃ……。
フィオは遠くを見るような、何も映っていない空ろな瞳を僕の方に向ける。
「多聞……」
呟くような言葉に、僕の体はギクリとしたように動きを止める。
親しみを込めて、呼び捨ての段階にレベルアップしたのなら嬉しいが、あまりそういう雰囲気でもない。
「ボクの事……、好き?」
ボク? と思うが、その次の質問の内容が内容なので、そんな疑問はすぐに吹っ飛んだ。
「そ、そ、そりゃ。まあ……」
真っ赤になりながら、曖昧に答える。もちろんフィオの事は好きだ。変な意味ではなく純粋に友達として。
でも面と向かってそう聞かれるとしどろもどろになってしまう。
「ウソだ!」
え!? 一瞬何を言われたのか分らずフリーズしてしまう。
「多聞はボクの事が嫌いなんだぁ~!」
本の上に伏せて大泣きを始める。
「そ、そんな事ないよ。大好きだよ! ホントに!」
ややパニックを起こしながらも、後で思い返すと気絶しそうになるような事を口走ってしまう。
フィオは、ピタッと泣き止んで顔を上げる。涙でくしゃくしゃになった顔は年相応だ。
「ウソだぁ~。多聞はボクの事が大嫌いなんだぁ~!!」
また伏して、前にも増して大泣きする。
なんだなんだ!? 一体どうしたんだ? とおろおろしていると、またピタッと泣き止んで顔を上げる。
「もう死のう……」
「ええ?」
驚く僕に構わずロープを取り出すと台に上り、ハリにロープをかけて輪を作る。首を吊るつもりらしい……。
「あ、あの……。フィオ?」
フィオは顔の前に垂れ下がる輪を両手で持つ。
「パパ、ママ。ボクも今そっちに行くからね……」
輪に頭を通し、祈るように手を組んで台から飛び降りる。
ロープがピンと張ったが、すぐに首から抜けてフィオの体は落下。僕はそれを抱えるように受け止めた。
目を閉じたまま動かないフィオに諭すように言う。
「フィオ。首を吊る時は輪が締まるように結ばないと。固結びじゃ、首は絞まらないよ」
口をへの字に曲げたまま目を閉じていたフィオは、ゆっくりと目を開ける。
「ん……。随分と可愛い閻魔様だね」
たはは、と僕は苦笑いしてフィオを降ろす。一体何の本を読んでたんだ? とカウンターに広げてあった本を閉じてタイトルを見る。
『死に勝る病』
海外の哲学者キェルケゴールの「死に至る病」をもじった小説。
主人公は重度の脳腫瘍と診断され、余命半年と宣告される。だが彼は同時に重度のうつ病も発症していて、医者の言う事を全く信じなかった。
うつ病のせいで、「こいつらは僕を外へ出さない為の嘘をついている。僕に腫瘍なんかない!」とそれこそ病的なまでに強く思い込んだ為に、本当に腫瘍が消えてしまうんだ。
モデルとなった実在の人は助からなかったけど、それでも医者の予想を遥かに超えて長生きしたし、うつ病ではなく前向きに思い込んで治った例も実在する。
この小説はそういった事例から「病は気から」「人間の自然治癒力に勝るものはない」というテーマを元にコミカルに描かれている。
これを読んでその気になったのか。何もかも信じられなくなったんだな。
確かに穏やかな本を読んでくれと言ったけれど……。
「ボクの体に触った……」
その言葉にはっと我に返る。いや、確かに咄嗟に抱き止めたけど……、仕方ないじゃないか。しかしフィオの体の感触が手に蘇ってきて顔が赤くなる。
「多聞も、やっぱり僕の体が目当てなんだね……」
「い、い、いや! そんな事ないよ!!」
大袈裟に手を振って弁解した直後に「しまった!」と思ったが遅かった。
フィオは顔を歪ませ、大声で泣き始める。
「うわぁ~ん! やっぱりだ~。多聞も親切なフリしてボクの事をイヤらしい目で見てたんだぁ~。毎夜毎夜妄想の中でボクの事を、あんな事やこんな事して弄んでたんだぁ~」
いや、そんな事してないよ! という言葉はかろうじて飲み込んだ。
死に勝る病の主人公はとにかく人のいう事を信じない。むしろ極端なまでに反対に受け取るんだ。もっともそれが面白い話ではあるんだけど。
大声で泣くフィオに、「そうだ、反対の事を言えばいいんじゃないか」と思いつく。
僕がフィオの事をどれだけ嫌いで、妄想の中でいかに辱めているかを語れば……ってそんな事言えるわけないだろ!!
結局フィオが落ち着くまでひたすら宥めているしかなかった。
「あら~、もう泣かしてんの? やるわね色男」
「京香さん……」
やってきた巨乳の美人に「そんなんじゃないです」と顔を赤くする。
虫取り網を持っている所を見ると、あれからずっと周囲を探していたのだろうか。
「うあ~ん。お姉さんもボクを攫いにきたんだ~」
フィオちゃんどうしたの? と僕に耳打ちする京香に、フィオの読んでいた本を見せる。
「実は……この本読んで、すっかりその気になっちゃって」
「ああ~。ウチの弟もそうだったからね~。なんか分かる」
「京香さん。弟いるんですか?」
「まあね。中学生なんだけど、今ちょっとそこの病院で入院してるんだ。あ、別にそんな重い怪我とか病気じゃないよ」
商店街から少し離れた市民病院に入院しているんだそうだ。蓮甘商店街での取材は、見舞いや世話にも便利だと言う。
京香の家は、ずっと前に両親が離婚して母親に引き取られている。母親の働きだけでは弟の入院費がカツカツなので京香も仕事を探している。
しかし京香には何もできない。何の才能もない。自信がある事と言えば写真だけ。
フリーの雑誌記者を名乗っているが、どことも契約していないので要は『自称記者』だ。記事を持って売り込み、雑誌社と契約しなくては先がない。
だからこそ、今回の取材には力を入れている。
そして、商店街の立ち退き抗争よりも美味しそうなネタの匂いを嗅ぎ付けたんだけれど……。
「不思議生物なんて、全然いないじゃない」
そこら中にいたら不思議生物にならないでしょ。
「この前の生き物。どこにいるの? もう一回見せてくれない?」
虫取り網を構えて言われると出しにくい。
「うわ~ん。お姉さん。ボクの友達を連れて行く気なんだぁ~」
泣き伏すフィオに京香は「やっぱりダメか」と苦笑する。
「ねえ、見つけた時の事、詳しく教えてくんないかな」
いや……それは、と渋る僕に京香は意味ありげに腕を組む。
「ねぇ、坊や達。お腹すかない?」
僕達は商店街の、比較的入り口に近い所に構えている洋食屋さんの前に立つ。外から見る限りでは小さなお店だ。
店の前には、本日のおススメが書かれた立て看板とサンプルが置いてある。見た所フランス料理店のようだけど、僕はそんな高級料理食べた事はないので何の料理なのかは分からない。アーケードのデザインがフランスの国旗っぽいというだけだ。
でもこんな商店街にあるくらいだから、高級な店というよりは庶民的な、手軽にフランス料理を味わえるお店なんじゃないかな。
店の名はmai。フランス語じゃないよね? どこの言葉だろう。
京香は店のドアを開ける。
ご馳走してあげるから話せと言うのだろうか、と躊躇しているのを察したようで、
「それもあるけど、ホントは取材に協力してほしいのよ」
と店に入って行く。商店街を取材と言っても、ただの食レポを売り込んでも使ってもらえない。
でも失われる伝統という売り文句なら少しは注目度が上がる。しかもそのまま失われたなら、それこそ自分だけの記事になるわけだ。
と言ってもそれほど歴史的価値のある文化というほどでもないから、どちらかと言うと自分の記事で商店街に興味を持った人が訪れて復興を果たす、というシナリオの方が箔が付く。
だから積極的に商店街の店を取材しているが、やはり古い事もあって中々パッとしない。そんな中でこのmaiはお洒落な事もあって記事としては有力株なんだそうだ。
「ほら、一人だと食べてるとこ写せないでしょ? 紹介記事なんだから、美味しそうに食べる人もいた方がいいじゃない。坊やに被写体になってもらいたいのよ」
「でも、僕なんかでいいんですか? フィオの方が……」
「いい。いい。垢抜けてなくて、フツーで庶民的で、どこにでもいるような感じがいいのよ」
なんか傷つくな。確かにフィオじゃ、彼女の方が目立ってしまう。料理の紹介記事には適さないのかもしれない。
自分を料理して食べるつもりなんだ~とゴネるフィオを宥めながら店に入る。
内装は綺麗だ。席は三つくらいは置けそうだけど、今は二つしかない。がらんとした印象だが逆に広々として落ち着いた食事ができそうだ。
フィオがマガジンラックから本を取り出す。こんな所でも本に興味を示すんだな。
席に着くと、コック帽を被り立派な口ひげをたくわえた初老の男性が注文を取りに来た。
いかにもフランス料理人という感じだ。おそらくこの店のマスターで、料理も自分でやっているんだろう。こんな人が注文を取りにくるなんて……とも思うが小さな店だし、立ち退き間近なんだからウェイターがいないのかもしれない。
京香はメニューを開く。彼女の取材なんだから、僕達に選ぶ権利はない。
「じゃ、さっそくなんだけど『ブルゴーニュ風エスカルゴ』を」
マスターは一瞬硬直したように動きを止める。
「……申し訳ありません。そのメニューは終了致しまして」
「ないの!? だってここの目玉料理でしょ!?」
マスターは申し訳なさそうに頭を下げる。
「じゃあ、何を食べに来たのよあたし達」
達って、僕は他のでもいいんだけど……。なんか迷惑な客みたいになっているので、僕もマスターと同じくらいに恐縮する。
「閉店間近だとは言っても、最後までしっかりやるもんなんじゃないの? お得意さんとか残念がるでしょう」
この店のエスカルゴは口コミでは有名で、付近では常連も多い。ちっぽけながらも上質のエスカルゴを出す店としてレアな人気があったんだ。日に出せる数が限られているので、あまりメディアにも露出していない。
こういう状況なら自分がその取材権を得られるかと息巻いて来たのに、と京香はガックリと肩を落とす。
日を改めてもいいから再開できないのかと交渉する京香に、マスターは顔を曇らせる。
「そうしたいのは山々なのですが、食材が手に入らない状況でして。業者も多くは語ってくれないのですが、流通に圧力が掛かっているようなのです」
神無月?
僕達は沈黙する。確かにあいつのやりそうな事だ。営業ができなければ抵抗運動も意味を成さない。
店としても、これまで贔屓(ひいき)にしてくれたお客さんに最後の持て成しをしたい所だけど、それを果たせないでいた。輸入品で代用する事も考えたが、それでは同じ物は作れない。
むう、と膨れっ面になる京香に僕は苦笑いする。
「これ。娘さんよね?」
ずっと黙って本を読んでいたフィオが口を開いた。
「え? ああ……、そうだよ」
意表を突かれたマスターが驚いたように答え、僕もフィオの持っている本を見る。料理本だと思っていたがエッセイ本みたいだ。
『帝王ホテルシェフ、柿崎 真衣の生き方』
表紙や帯に書いてある売り文句から察すると、レシピよりは料理人の感性を綴った物みたいだ。裏表紙には何か可愛いキャラクターのイラストが描かれている。
帝王ホテルって、都心の方の超有名豪華ホテルじゃないか。そこのシェフが娘さん? このマスターの?
確かにマスターの名札は柿崎だ。それに真衣。確かこの店の名前もmaiだったよな。
京香も同じ事を思っている顔で本の表紙の女性を凝視する。
「シェフってフランス料理の? これ、エスカルゴの料理も出してるじゃないですか」
京香がフィオの持つ本を引っ張って言うが、フィオは本を放さない。
娘さんはこの店の出身という事か? それとも修行に出ているんだろうか。
「じゃあ、娘さんにお願いしてみたら? 食材を分けてもらうように」
マスターは寂しそうに苦笑いする。
「はは……。帝王ホテルが、こんな店に分けてくれるはずはないよ。それに、娘はここを飛び出していったクチでね。私とは絶縁状態だ」
「でも……、親の店の危機なんですよ!? お願いしてみるくらい」
乗り気でないマスターの様子に「言ってみないと分からないじゃないですか」と食い下がる。僕はどうしたらいいのかとおろおろするばかりだ。
「あたしがお願いしてくる。帝王ホテルよね」
埒が明かない、と言わんばかりに席を立って外へ出る。僕達も仕方なく店を出た。
「ここまで来て、手ぶらで帰れるもんですか。事情を話せばきっと力になってくれるわよ」
と通りに出てタクシーを拾う。
なんか事態が大きくなってきた。おせっかいというものを通り越しているような気がするが、京香としても自分が取り持って商店街のお店が持ち直し、その様子を取材できれば有益なんだろう。
でも僕は関係ないんじゃ……、と思ったけどフィオは何も言わずついて行く。ここまで来たのに仲間外れにされるような気がして、結局一緒にタクシーに乗り込んだ。タクシーなら何人乗ったって料金は一緒なんだ。
フィオはその間もずっと本から目を離さない。……ってあの店の本じゃないか。後で返しに行かないと。
簡単に行こうなどと言うから近いのかと思ったら結構な距離だ。軽く一時間くらいタクシーに揺られ、降りた先で愕然とする。
建造物というよりは、地獄で検閲する閻魔様のように僕達を見下ろす重厚なビルは、疚(やま)しい心でやってきた者を容赦なく断罪するような威圧感があった。
これが帝王ホテル。
僕なんかが来ていいような場所じゃない。京香もやや気圧されている様子だ。……フィオはあまり違和感がない。
京香は意を決したように中へ入って行き、僕達も後に続く。
入った途端警備員に摘み出されそうだと思ったけれど、そんな事はない。以外と普通の格好をした人も行き来している。
だが今まで踏んだ事のないカーペットの感触に戸惑いながらよたよたと歩く姿に、すれ違う人がくすくすと笑う。
やや遅れて受付で話している京香に追いついた。
「だーかーら。ここのレストランのシェフに話があんのよ」
因縁をつけるように詰め寄る京香を、受付スタッフはサイボーグのように無機質な対応であしらう。
「柿崎真衣のお父さんからの言付けなんだって。取り次いでもらえば分かるってば」
スタッフはテープレコーダーのように同じ返答を抑揚なく繰り返すだけだ。京香は少し感情的に詰め寄るが、それでも変わらない相手の様子に歯噛みする。
そりゃ身分の証明もできないのに、誰彼構わず厨房に入れるはずはないんだから当然か。ちょっと短絡的すぎたんじゃないかな……。
「ねえ。レストランは一般の人でも入れるのよね?」
フィオの声に京香が振り向き、レストランの方を見る。一般客も入れるので入り口に近い所にある。
「せっかくなんだから、ここでお目当てのエスカルゴ食べて行ったら?」
京香は目を凝らすようにレストランを見る。値段を気にしているのは明らかだ。
「ここまで来て、手ぶらで帰れないわよね?」
フィオの言葉に「うう……」と顔を引きつらせた京香だったが、やや乱暴に地面を踏み鳴らしながら歩き出した。
レストランの入り口を潜ると、執事のように礼儀正しいウェイターが現れて席まで案内される。あ、これは後で知った事だけど、フランス料理店ではウェイターの事をギャルソンって言うらしいよ。
席に着き、例のエスカルゴ料理を一皿だけ注文するが、その間フィオは黙って本を読んでいる。
僕は店の雰囲気に呑まれたまま居た堪れない気持ちだったが、思いの外待つ事もなくウェイターがワゴンを押してやって来た。
「『ブルゴーニュ風エスカルゴ』でございます」
白い陶器製の小さな入れ物が六つ乗せられた大皿がテーブルに乗る。
その途端ふわっと芳ばしい香りが漂ってくる。高級料理とは縁遠いので、何て表現したらいいか分からない。敢えて言うならニンニクとハーブをバターで焦がしたような匂いだ。
今更だけどエスカルゴというのはフランス語でカタツムリの事だ。そのくらいは僕でも知っている。でも実物を見るのは初めてで、どうやって食べたらいいのかも分からない。
「殻に入ってるんじゃないのね。これ、蓮甘商店街のmaiってお店のエスカルゴと同じ物なんですか?」
「失礼ながら、そのようなお店は存じ上げませんので」
ここのシェフの実家でしょ……、と京香は噛み殺すように呟く。
カタツムリを食べると言うから少し覚悟を決めていたんだけど、目の前にあるのは普通の料理だ。見た目は一口サイズのミニグラタンを思わせる。
「一応取材なもんで、写真撮らせてもらってもいいかしら?」
「申し訳ありませんがご遠慮願います」
ぐぐ……、と歯軋りする京香に、ウェイターはグラスを差し出す。
「こちらは当店からのサービスとなっております」
グラスに入っているのは赤い液体。赤ワインのようだ。
「あら。そ、そう?」
と京香は表情を和らげる。僕達にもソーダ水を入れてくれた。
ではさっそく……と細いフォークを取り、まずは香りを楽しんでみる。でもこの匂いはあまり初めてじゃないな。どこかで……。そう、ガーリックトーストだ。強いて言えばあれに似ている。
僕はオイルの中に浸されたその『実』をフォークで突き刺して取り出す。……見た目は、確かになんか『それっぽい』。ごくりと唾を飲み込んでから『それ』を口に入れた。
カタツムリにしては大きなその実はぷりゅっとした歯応えでまろやか。染み出したオイルとの感触が舌にも心地いい。オイルの中には刻んだ野菜も入っているのでほどよい歯応えもある。
「なにこれ。おいしい!」
京香が飾り気も何もない感想を漏らす。
「前に食べたやつと全然違う。カタツムリの種類が違うのかしら?」
「こちらは国内にある養殖場で育てた大粒のカタツムリ・リンゴマイマイを産地直送したものでございます。リンゴマイマイは別名『エスカルゴ・ド・ブルゴーニュ』とも呼ばれていて、文字通りブルゴーニュ風に適した種類と言えます。本来養殖が難しく希少な種類なのですが、近年国内で養殖に成功し、このように広くお出しする事ができるようになりました」
ウェイターはマニュアルを読み上げるように流暢に解説する。
「でもそれって、元々真衣さんのツテなんじゃないの? maiで出してたんなら。その食材、少し分けてほしいんだけど」
「申し訳ありません。私の一存では」
「だから真衣さんに会わせてよ」
尚も切り出す京香に丁寧な断りの言葉を述べる。むきぃ~と声に出して言う京香に代わってフィオが口を開く。
「ブルゴーニュ風エスカルゴって、イタリア料理にもあるわよね」
「エスカルゴはヨーロッパ全土で食べられていますからね。しかしブルゴーニュ風というのはフランスの郷土料理の事を指すので、フランス料理こそが本場だと、私は思いますよ」
小さな子の質問にも変わらず丁寧に答えるウェイターに、フィオはエスカルゴを一つ取って香りを嗅ぐ仕草をする。
「このニンニクやパセリを混ぜ込んだガーリックバターが、ブルゴーニュバターとも呼ばれていて独特の風味を出してるのよね」
お穣ちゃんお詳しいですね、とウェイターは感心したフリをする。フィオが持っているのは柿崎真衣の本だから、小さい子が仕入れたばかりの知識を披露するのに付き合っているんだろう。
「濃厚な、深みのあるコクとまろやかさを併せ持ち、食欲をそそるガーリックの香り。それがエスカルゴの食感と相まって食べた後もしばらく口の中に感触と風味が残る」
フィオは京香のワインを手にとって、軽く回すようにして匂いを嗅ぐ。まさか飲まないよね、と少し心配したがフィオはそのまま京香の前に戻した。
「そして風味が強いから間にワインを挟んだりすると、いったん匂いがリセットされてより味わい深く楽しめる」
京香が「ホント?」とワインを飲んでから、またエスカルゴを口にして「ホントだ~」と感嘆する。
ウェイターは感心したように声を上げて笑うが、やはり子供を相手にしているという姿勢が見える。
「でもこのガーリックバターの濃厚な風味を消す為には、こういう甘口のワインじゃなくて、もっと渋みのあるワインの方がいいと思うのよね」
ウェイターの表情が引きつった。
「サービスだから贅沢は言えないけど、安価でも渋みのあるワインはあるんだから、それをチョイスすべきじゃないかしら。料理店なら少しでもお客さんに美味しく食べてもらいたいと思うものだし。まあ、このお姉さんの舌にはちょうどいいかもしれないけど」
京香が固まった顔のまま目だけを下に落としてワインを見る。
「ギャルソンさん。フランスが本場って言ってたわよね? この『ブルゴーニュ風エスカルゴ』に他の店にはない、フランスならではっていう要素はないのかしら?」
「いや……、私はただのソムリエですので」
京香が目の前にグラスを持ち上げると、ウェイターは露骨に「しまった」という顔をする。
冷や汗を流すウェイターに、フィオは小悪魔のような笑みを向ける。
「シェフを呼んでもらってもいいかしら?」
やがて僕達の席に、若い女性がやってくる。
彼女が柿崎真衣。
写真では化粧の為か大人びて写っているが、本物は若い。二十代半ばだろうか。髪を短く切り揃え、鼻が低くてつり目だけど、十分愛らしい顔立ちと言える。
シェフだと言われても信じられないくらいだけれど、酷使された服が本物である事を物語っていた。
エプロンと帽子は取ってきたのか、今は着けていない。
だがその可愛らしい顔には、明らかに「なんでこんな連中の席に自分が呼ばれたのだ?」という心の内が浮かび上がっている。
「料理はとても美味しかったもの。きちんとお礼を言いたかったの」
「……ありがとうございます」
フィオの言葉に、真衣は訝しげな表情のままお決まりの返答をする。フィオだけなら、どこぞのお金持ちのお嬢さんに見えたかもしれないが、両隣にいる僕達がそれを台無しにしているんだ。真衣の反応は無礼とも言えるが、この場合怪しんで当然だろう。
「ねぇ。あなた、柿崎さんの娘さんでしょ? お父さんからの言付けを預かってきたのよ」
「……父から?」
真衣の顔が一層不信感を強める。それにマスターは断っていたんだから何も言付けていない。全部京香が勝手に言っている事だ。
「私は父の店とは関係ありませんので……。ごゆっくりどうぞ。では失礼致します」
事務的な挨拶を残して踵を返す真衣に、フィオが呟くように言う。
「このブルゴーニュ風エスカルゴ。イタリアレストランで出している物とは違うの?」
真衣はピタッと足を止め、ややふり向いた状態でフィオを見る。
「ギャルソンさんが言ってたんだけど、ブルゴーニュ風はフランスが本場だって。本場のブルゴーニュ風は何か違うのかしら?」
真衣は振り向きかけた姿勢のまま、フィオとピッタリ目線を合わせる。
小さい子の戯言に付き合う必要はあるのか、しかし客には違いないんだから適当に取り繕って立ち去るのがいいのか、と様々な考えが頭の中を巡っているようだ。
二人は何者も立ち入らせない雰囲気のまましばらく目線を交わしていたが、真衣が無表情のまま呟くように口を開く。
「同じですよ」
真衣の答えは僕にとっては意外なものだった。こういう時は他との差別化を強調するものではないのだろうか。
「イタリア料理でもブルゴーニュ風はブルゴーニュ風。そこに違いはない。フレンチとかイタリアンとかではなく、個々の店によって違いが……いえ、シェフによって違いがある」
真衣はフィオを何者かと考えを巡らせている為に、言葉を選べないのか口調を崩す。
「じゃあ、『あなた』のエスカルゴには何か違いがあるのかしら?」
「私のエスカルゴは養殖の難しいリンゴマイマイ。昔から養殖を研究していた牧場から送ってもらってる物で、私個人のツテで、その中でも良質の物を送ってもらってるのよ」
「そう。それを出す店はあなたがシェフを勤めるこのレストランと、もう一店だけ」
蓮甘商店街のmai?
フィオはしれっと言葉を続ける。
「あなた幾つなのかしら?」
こんな小さな子にそんな事を言われては、真衣でなくともムッとするだろう。
「養殖の研究なんて数年で完成するわけない。何年も……、十年以上はかかる」
ああ、そんな事? というように真衣は目を閉じる。こんなホテルのシェフをするには若すぎると言うんだろう。
「元々は父のツテよ。それが何なの? 私が使っちゃ悪いワケ?」
「別に。私も一流の腕を持ちながら、あんな寂れた商店街で細々とやっている柿崎さんには呆れるのよね。安く庶民的なフランス料理? バカバカしい。料理は雰囲気だって調味料なのよ。お客は高級な雰囲気を楽しみに来ているの」
この空間にいる事に、とても居心地が悪い僕は同意できないけれど……。
「一流のシェフは一流の場で腕を振るってこそだもの。あんな商店街で骨を埋めるなんて馬鹿げてる。いっそ潰れてくれた方が、世の為料理の為よ。可愛い娘が親の為だと言ってお願いすれば、牧場もきっと協力してくれる。うん、私だってそうする」
真衣はまるでドラマで証拠を突きつけられた犯人のように、真っ青になって口を震わせた。
……神無月ではなかった。流通に圧力をかけていたのは。
もしかしたらマスターも薄々感づいていたのかもしれない。それなら娘に頼みに行くのを渋るわけだ。
フィオの言葉が正しいのなら、真衣は父を想っての事なんだ。それにマスターも気付いているから、素直に受け入れているのかも……。
でも……、このフィオの様子は。まさか、今フィオは!?
真衣は両手でテーブルを叩く。
「ちょっと! いったい何なのよアナタ!」
真衣が叫んだのかと錯覚するような口調でフィオが叫んだ。真衣は台詞を取られて、愕然としたまま口をパクパクと開閉させる。
やはり……、フィオは今。目の前にいる……柿崎真衣になりきっているのか!?
周りの客も驚いたようだったが、すぐに自分達の食事に戻る。
真衣の気勢を削いだフィオは、しれっとエスカルゴを取って続ける。
「でもブルゴーニュ風エスカルゴじゃ、柿崎さんのと同じよね。違うのはココットに入ってる事だけ。それは新しいワケじゃない」
「いつまでも同じなワケないでしょ? 料理人は常に新しい料理を考えてるわよ」
ココットって何ですか? と聞きたかったけど、この二人の会話に入るのは機関車のような京香でも無理みたいだ。後で調べたら陶器製の小さな器の事なんだって。
「大体エスカルゴを殻のまま出すなんて……。お客の大半はカタツムリの形見て敬遠するのに」
「でんでん虫可愛いじゃない。美味しいし」
「私はでんでん虫も好きだからこそ抵抗あるのよ。あのまま食べるのは可哀相じゃない。美味しいケド」
僕には段々どっちがどっちか分からなくなってきた。
「それで」
真衣はシェフと客、という立場も忘れたように腕を組んでフィオを見下ろす。
「あなたなら、どんな料理を考えるのかしら?」
フィオは首を傾げるように下から上に睨み返す。上と下からだけどまったく同じ目力で視線を合わす。
「タコわさび」
ピク、と真衣の頬が僅かに引きつる。
「濃厚な風味とはまったく逆の、あっさりした風味を出す。単にわさびを使ったんじゃ和風になってしまうから、レフォールを使う」
僕は何気に携帯をいじっているフリをしながらレフォールの意味を調べる。
日本ではホースラディッシュと呼ばれている、要は西洋わさびの事だ。肉や海鮮類の薬味に使われていて、それほど珍しい物でもなく、日本のスーパーでもチューブ入りのホースラディッシュが売られている。
辛さの成分はどちらも同じだけど、香りと色が違うので料理に合わせて使い分ける物だ。
「ブルゴーニュバターも風味が強い物。ツンと鼻に来るレフォールの風味は対照的な物として合う。私の料理は味よりも風味に重きを置く」
「人間は毒を食べる心配が少なくなって久しい。だから味覚が鈍い生き物。だから味よりも風味に拘る方が美味しいと思わせ易い。でもそれは味を蔑ろにしていい事にはならない。まずは風味、それを極めてこそ、必要な味が見えてくる……とあなたは思っているのよね」
野菜にはズッキーニを使おうか、とフィオと真衣は意気投合したように料理についての協議を始めた。
漫画家がフィオの事を知ったらアシスタントに欲しがりそうだ。
「逆にブルゴーニュ風にタコを使いたいのよね。これはもうやってるトコもあるから、同じように食材に拘りたい」
「タコは良い物は本当に美味しいものね。ここは他では手に入らないような物を使いたい所ね」
僕と京香は同じテーブルに座りながら、よその客のように飲み物をちびちびと飲んでいた。
一頻り、話に華を咲かせると、フィオは話題を変えるように呟く。
「柿崎さんはあなたに戻って来てほしがっている。でも娘の幸せを願うならそれも言えない」
「そんなの私の勝手でしょ。もう私は子供じゃないのよ」
「柿崎さんがあの店を大事にしてるのは、庶民的なお店に拘っているからじゃない。あの店は、あなたのお母さんとの想い出の店だから」
そう呟くフィオの顔は少し寂しそうだ。
「そんな事くらい知ってる。でも母さんはもういないのよ!」
「でもあなたはいる。子供はいつまで経っても親の子供。それだけは何があっても変わらない」
「そんな事ない。人は成長する。いつかは親離れ、子離れするもんよ!」
真衣は焦りを含んだように言う。僕から見ても虚勢を張った、本心を隠した言葉である事は明らかだ。
「じゃ。これは何?」
フィオは本の裏表紙を見せる。
そこにはかわいいでんでん虫のイラストが描かれている。それを見て真衣は照れたような、バツが悪そうな顔をしてそっぽを向く。
フィオが真衣を代弁するように語り始める。
「これはママが好きだった、ママが描いたイラスト。私もよく真似をして描いた。マイちゃんっていう名前で、お店の名前にもなった」
あんたのママじゃないでしょ、と噛み潰したように小さく呟くのが真衣の精一杯の抵抗のようだ。
というよりmaiって真衣から付けたんじゃなかったんだ。むしろ真衣の名前がでんでん虫のマイからきた?
一瞬、商店街の会長の顔が浮かんだけど、すぐに振り払う。
「多聞くん。ペンをお願い」
「え? ……ああ」
突然振られて、慌てながらもいつも持ち歩いているペンを取り出す。
フィオはペンを受け取ると青い本を取り出し、新しいページを開いてペンを走らせ始めた。こんな所で!? とあたふたしてしまうが、フィオは構わず絵を描き終える。
本が薄く光を放ち、むくむくと何かが浮き上がる。
それはホシローと同じような、縫い包みのように柔らかい質感を持ったマスコットキャラ。橙色の殻を背負ったでんでん虫を象(かたど)ったキャラクターだ。にっこりとした口に、角の先についた、まつげの長い大きな目はウィンクしている。
でんでん虫の「マイちゃん」は真衣の下までのそりのそりと這うように歩く。周りの客も驚いているが、テーブルマジックか何かと思っているようだ。
口を覆うように見ていた真衣は、涙を浮かべてマイちゃんを抱き上げるとぎゅっと抱きしめた。
「その子は今のあなたの想いそのもの。自分がどうしたいと思っているのかは、その子に聞けばいい」
これも後から知った事だけど、マスターも元は帝王のシェフだったんだそうだ。そこを辞めてちっぽけな店を始めた事に真衣は不満を感じていたんだ。そこで真衣は父の技を盗んで料理人になり、帝王へ移った。
帝王としてもマスターを呼び戻したかったので、まだ若いとは言え娘である真衣を受け入れたんだ。
真衣は、マイちゃんを正面に見つめる。
マイちゃんはウィンクしたまま、ふよふよと頭を揺らしている。
京香はマイちゃんを指してあわあわと震えているが、この場面に水を差すほど無粋ではないようだ。
真衣は泣いているような、笑っているような、微妙な表情だったが、やがて心は決まった、というようにしっかりと頷いた。
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