◇8「大黒柱」
「おや、多聞くん。どうしたんだね?」
飲み屋の戸を開けると、夫婦を宥めていた天虫が僕の姿を見止めて言う。
「僕に、何かできる事はないかと思って」
「はは。ありがとう。気持ちだけで十分だよ」
天虫は心よさそうに言うが本気に取っていないんだろう。確かに僕みたいな子供にできる事など高が知れている。
僕は遠慮もなく店内に入る。
「フィオーリは? 君はフィオーリに付いててあげた方がよくないかね?」
「少し、一人にしてあげようと思って。結構、しょげていましたから」
と言うと天虫は「そうか」と納得したように椅子を勧めてお茶を煎れてくれた。
「まったく。子供はいいよな。しょげればいいんだ。俺達はこれから路頭に迷うっていうのに!」
パン屋の主人が怒りを露わにする。彼は昨日の連中の、延(ひ)いてはフィオのせいだと思っているんだ。
「あの……、火災保険とかは……」
「出るもんか!! 放っておいても取り壊される所だったんだ。なんだかんだ理由をつけられるに決まってる! 立ち退き料も期待できなくなったんだ!」
テーブルを叩く主人に僕は思わずビクッとしてしまう。
天虫がまあまあと店主を宥める。
「別に悪気があって言ったわけじゃない。気が立つのは仕方ないが、子供の言う事に本気になるんじゃない」
店主も少し言い過ぎたとバツが悪そうにする。
「これと言うのも、お前が戸締りを怠ったからだ」
と主人は奥さんを睨み付ける。反論したそうだけど言い出せない素振りの奥さんに、
「なんだその目は。ちゃんと戸締りしていたんならなぜ警察は中から火が出たと言ったんだ? 中に入られて、火を点けられたに決まってるだろ」
その後も「あの時も……、更にあの時も……」と過去に遡って奥さんの失態暦を語り始める。
天虫もいつもの光景の為か何も言わない。僕も、この二人はいつもそんな感じだというのはフィオから聞いている。
奥さんは申し訳なさそうに愛想笑いを浮かべているが、何だか辛そうだ。
管を巻くように言葉を吐く店主も疲れたのかその勢いが衰え始める。僕は一瞬主人の言葉が途切れるタイミングを図って呟くように、でも少し強めに言葉を挟んだ。
「なんか! 羨ましいなぁ。おじさん、こんないい奥さんを持って」
ん? と主人も、奥さんも訝しげに僕に注目する。
「奥さんも、羨ましいです。こんな立派な旦那さんがいて」
少し引きつった笑いを浮かべて言う僕に、あからさまに「なんだこの子は」と視線が突き刺さる。
「いやあ、僕の母は何でも完璧にこなす人で、小さなミスもしないんですよね。だから父は母の事が少し重いというか、苦手なんですよね」
主人が何かを言おうと口を開こうとするが、僕は構わず大きな声で誰に言うでもなく宙に向かって言う。
「この前テレビでやってたんですけどー。『ミスをする』っていうのは、必ずしも欠点とは言えないんですってぇ」
ミスは失態。それも間違いではないが、人は完璧ではいられない。
完全無欠な指揮官の下で戦う兵士ならば心強いが、それが会社の後輩だったらどうだろうか。
そしてそれが彼女だったり、奥さんだったら?
もちろん男尊女卑を推進するものではないけれど、世の男が自分が主導でありたい、家族を守って行く先頭に立ちたいと思っている事も事実なんだ。
そこでうまい人は、より良い関係を築く為に適度にミスを混ぜる。
相手にミスを指摘させる事で優越感を与え、無用な警戒心を抱かせないようにするというんだ。
もちろんフィオに言われた事で、そんなテレビ番組はやっていない。
「バカな。こいつがそんなあざといわけないだろ」
呆れたように言う主人に、僕は用意しておいた言葉で応える。
「いえ、実はミスが故意であるかどうかは関係無いんです。要は相性がいいんだなぁって」
「馬鹿馬鹿しい。何度注意しても同じ事をされる俺の身にもなってみろ! もしワザとやってるんなら是非止めてくれ!」
「いや、そこですよ。人間と言うのはそんなにバカにはできていないんです。何度もミスをするのには必ず理由があるもんです。そして人間は自分の居場所を無意識に作ろうとするんです。だからワザとじゃないんですよ」
明らかに怒りの言葉を吐こうとする主人の言葉に、大き目の独白を重ねる。
「旦那さんもカッコイイなぁ。僕の父は誰にでもヘコヘコして、頼りないんですよねぇ」
相手の言葉を遮ると怒らせてしまうが、誰に言うでもない呟きはあまり遮った感じがない為に、相手の怒りも行き場を失って失速する。
当然だけど僕の両親はそんなではない。どちらかと言うと父は厳しい。これらも全てフィオに吹き込まれた事だ。
「ほら、家の主人って大黒柱じゃないですか。いわば家庭っていう国の指揮官です。指揮官が頼りないと国民も心配ですよね。だから指揮官っていうのは常に偉そうじゃないとダメなんですよ。たとえ間違った事でも自信持って貫き通す。そうやって諸外国に威厳を示す事で、家庭っていう国を守ってるんですよね」
カッコイイなぁ、と褒められているには違いないので主人も怒るに怒れないようだ。
「昼ドラとかでもあるじゃないですか。奥さん同士が集まってもいじめみたいなのがあるって。でも旦那さんが強いとそういう事もないんですよね」
奥さんは、はっとして「そう言えば……」という顔になる。
もちろん、そんな図式が必ずしも当てはまるものでもない。単にフィオが奥さん同士のやりとりを見聞きして知っているというだけだ。
「そんなご夫婦のお店のパン、僕も食べたかったなぁ。僕はまだ知ったばかりだから食べた事なかったんですよねぇ」
僕はご主人の方に「どんなパンが人気だったんですか」「フィオはコロッケパンがおいしいと言ってましたけど……」など質問を浴びせる。もちろん褒めちぎる事を忘れない。
ご主人の方は露骨にたじたじになっていく。パンのレシピは皆奥さんが考えている。作っているのも奥さんだ。ご主人は基本店先で売っているだけだ。
何もしていないわけではない。営業は立派な仕事で、その点ご主人はちゃんとやっていたそうだ。
僕は……というよりフィオはこの夫婦関係のバランスを考慮して、奥さんの方に軍配が上がるようシナリオを書いただけだ。
「い、いや。そんな事はないぞ。こいつもよくやってくれている。パンを作っているのもこいつだしな」
男のプライドとして、人の手柄を横取りしているばかりでは居た堪れないのか、ご主人は奥さんを弁護し始めた。それに自分の奥さんなんだ。褒められて悪い気はしないし、立てる事自体にも抵抗はないだろう。
「まあ、俺も一家の主だからな。家族の為に厳しくもなるさ。俺だって家の為に厳しくしているんだ」
ご主人は酒でも入ったかのように饒舌に語り始める。
「普段は照れくさいからな。だから労いも兼ねての今回の旅行だったんだが……、こんな事になっちまったな。……まあ、運が悪かったんだな。だが俺が家長である以上、何が起こっても俺の責任なんだ。これからどうなるか分らないが……お前、それでもついて来てくれるか?」
落ち着きを取り戻して、奥さんの手を取るご主人を前に、奥さんはわっと泣き伏せた。
どうしたどうしたと呆れたように宥めるご主人に、奥さんはただ「違うんです」と繰り返す。
ようやく顔を上げた奥さんは、しばらく旦那を見つめ、やがて意を決したように言う。
「わたしの、わたしのせいなんです」
泣きながら、奥さんは懺悔する。それは大よそフィオが推理した通りだった。
火災の可能性があると分っていた事。故意ではないが、内心ではそうなれば……、そうなってしまえという気持ちがあった事。
自分が火を点けたも同然だと泣き伏せる奥さんに、少し呆然としていたご主人だったが、
「いや、違う。俺のせいだ。家を出る時にいつも遅い遅いと急かしていたからだ。だから、そんな事になったんだ」
ご主人も涙を流しながら奥さんを宥める。
フィオは言っていた。この主人は、奥さんが完璧に事をこなしても、失敗しても怒る人なんだ。だから奥さんは被害の少ない方を自然と選ぶようになった。それだけの事なんだ。
ご主人も、厳格で強い旦那を演じようと必死だっただけなんだ。
天虫も二人を宥め、これからの事は自分も協力すると言ってくれた。
落ち着いた所で現場を片付けるかという事になり、僕も手伝いますと皆で外へ出た。
何か使える物や、思い出の品くらいは残っているかもしれない。
そして、通りに出た僕達は、辺りをキョロキョロと見回してしまう。
焼けた家が無い。
商店街の通りに、ぽっかりと穴が開いたように家が無くなっていた筈なのに……。
「どういう事だ?」
風景の見慣れない僕にはすぐに分らなかったが、今まで住んでいた夫婦には焼けたはずの家が元に戻っているのが分ったようだ。
夢でも見ているのか、とふらふらとパン屋に近づき、ドアを開ける。
幻ではない事を確認して、本当は家が焼けたのが夢だったのか? というように皆で顔を見合わせる。
僕は一人本屋の方を目を向けると、フィオが本を後ろ手にそ知らぬようにそっぽを向いた。
さては……、やったな。
青い本に、パン屋を描いたのか。ウィリーは建築技師の資格も持っていたっけ。
でもこんな事をして。大混乱になるんじゃ……。
フィオは鼻眼鏡をしたまま歯を見せて笑った。
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