第32話 パラレル
並行(パラレル) 有馬真言 21歳
崖の突端から足を滑らせた俺は、絶壁に数回、体をぶつけながら空中で二度か、三度かくらい回転して、天地の区別もつかなくなった。これまで生きてきた人生の様々な記憶が脳裏をよぎった。
芹菜と初めて出会ったあの坂道、二人相合い傘で歩いた道、そして留学前にあのサボテンとタイムカプセルとを埋めたあの日。最上芹菜と一緒に過ごした日々の数々を思い出した。
そしてさらには、最上芹菜がこの世を去り、その傍らで俺のことを支えてくれた笹木紗輝のこと。アパートに引きこもり、鬱屈とした毎日にいつも訪ねて来ては身の回りの世話をしてくれたことや初めて笹木さんと出会ったあの図書館のこと、それに町の本屋で出会い、財布を拾った日のこと…… いや、そんな出来事なんてなかったか…… 頭の中は混乱していて、いささかあるはずのない記憶までもが走馬灯のように駆け巡った。
……そして後頭部に強い衝撃が走った。そこで俺の走馬灯は終わりを告げ、完全な無が待ち構えていた。
次の瞬間。それはあくまで意識のある次の瞬間という意味だが、俺は足を滑らせたはずの崖の上の、しかも崖からは少し離れた安全な場所であおむけになって寝転んでいた。
たしか俺は崖から落ちて死んでしまったのではないだろうか……
なら、これは死後の世界だろうか。
それとも足を滑らせたが崖には落ちず、地面に頭でもぶつけて気を失っている間に夢でも見ていたのだろうか……
「目、覚めた? いつまでもそんなとこで寝ていて、風邪ひいても知らないんだから。」
見上げるとそこにはなぜか笹木紗輝がいた。黒髪で眼鏡をかけている……
茶髪ではない。半分意識がはっきりしない頭の中をゆっくりと探りながら考えた。
おそらくここは自分が初めからいた世界。つまりは芹菜が死んで、笹木さんが俺のことを救ってくれた世界で、あの、芹菜が生き返った世界や、笹木さんが死んでしまった世界などではない。
いったいどこからどこまでがここで眠っている間に見た夢なのかもわからない。
いや、そもそも、笹木さんがこの崖から落ちたことが夢だったとしたら、なぜ俺はこんなところにいるんだろう。ここは笹木さんが落ちたという場所以外には……
いや、そうじゃない。たしかここは…… そう、サボテンとタイムカプセルとを埋めた場所だ。もう、何が何だかわからない。
「ねえ、だいじょうぶ? まだ、大分寝ぼけているみたいだけど……」
仰向けに寝そべっている俺の顔を笹木さんが覗き込む。ノンフレーム眼鏡のレンズの向こうで大きな黒目がちな目でじっと心配そうに俺の様子をうかがっている。
「……なあ、笹木さん。」
「なに? 有馬君……」
「なんで笹木さんがここにいるんだ?」
「……ねえ、アンタなかなかひどいこと言うのね。そもそも有馬君が『ここに来い』って言ってきたのでしょ。」
「そうか……俺が呼んだのか…… じゃあ、なんで俺はここにいるんだ?」
「いつまで寝ぼけているつもりかしら、有馬君がいきなり電話で『スコップを持ってここまで来てくれ』って言ったのよ。うら若き乙女をこんな夜中にひとりで、しかもこんな山奥に来させるようなひどい男はこの世にアンタ以外にはありえないと断言でそうなのだけれど……。
しかもよりによってそれを忘れて、一人でこんなところで居眠りしているなんて…… 持ってきたスコップであんたの墓でも掘って、埋めてやろうかしら。」
「すまない…… 頭が混乱してしまって…… そうか、俺がスコップを持って来てくれって言ったのか…… つまりそれって……」
「あのタイムカプセルを掘り返しに来たんでしょ?」
「ああ、そうだった。」
「立てる?」
「ああ。」
俺はようやく意識がはっきりしてきて、立ち上がって背中の埃を払った。
「でも、驚いたわ、あのサボテン……」
「ん? サボテンがどうかしたのか?」
「あきれた…… まだ見てないの?」
さっき崖から落ちる直前(もっともあれは夢だったのかもしれないが)までそんなことはすっかり忘れていたし、あの時はとてもまともに見られる状態ではなかった……
「まあ、いいわ。見ればわかるから……」
俺と笹木さんはあの、崖の突端に埋めたサボテンの前に歩み寄った。
「こ、これは……」
大きなハート形のサボテンの上には小さな白い花が咲いていた……
「サボテンに花が咲くのって、なかなか難しいのよ……
ねえ、知ってる? サボテンの花ことば。」
「ああ、知ってるよ。確か芹菜があのアパートでサボテンを育てている時に言ってたっけな…・・」
「そう、セリナは有馬君のアパートでもサボテンを育てていたのね。」
「え? ほら、あの……」あの部屋にあったサボテンは君が持って行ったんじゃないか。そう言おうとして言葉を飲み込んだ。もしかするとあれは夢の出来事なのかもしれない……
いや、もしかすると初めから俺のアパートにサボテンなんかなかったかもしれないし、今いるこの世界が俺の知っているどの世界でさえないのかもしれない…… だから余計なことは言わないことにした。どの道俺はこの世界で生きていかなくてはならないのだろうから。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。で、サボテンの花ことばだろ。それなら知ってる。〝永遠の愛〟だ。」
「ええ、そうね。〝枯れない愛〟という言い方が一般かしら、でもね、それ以外にも花言葉があるのよ。ウチはその別の花言葉の方が好きなんだけれどね。」
「花言葉はひとつじゃないのか? 別の花言葉が並行して存在するなんて、なんか矛盾してる気がするな。で、その別の花言葉ってなんなんだ?」
「うん、それはね……」
「それは?」
「内気な乙女、秘めたる想い…… ウチとしてはこちらの方が好きかな。」
「確かにそうかもしれない。少なくとも芹菜は内気な乙女というわけではなさそうだったから、やはり枯れない愛 永遠の愛の方がふさわしかったんだろうな。
永遠の愛。か 死んでしまった人間はやはり永遠だよな。結婚して何十年という月日を過ごしていくうちに愛なんてものが少しずつ薄らいでいくなんてこともあるのかもしれないけれど、俺の芹菜に対する愛は最高の状態のまま凍結状態に入ってしまった。」
「でも…… それでもいつかはそれを乗り越えなくてはいけないのよ。いつか…… またいつか有馬君がちゃんと立ち直って誰かほかの人と愛し合って結婚をする…… セリナだってきっとそれを望んでいると思う……」
「わかってるよ。わかってるんだけどね…… たとえこれから先、俺にとって大切な人が現れたとして、その時でもやはり俺は芹菜のことを忘れられないと思う、いや、忘れたくないんだろうな。でも、そんな思いを抱えたままでは、新たに出会った大切な人に対してとても不誠実な気がするんだ。それがあるから俺は新しい恋に踏み出せそうにない、というのがあるかもしれない……」
「なあに? その奥歯にものの詰まったような言い方は…… 誰か恋に踏み出しそうな人でもいるわけ?」
「……いや…… そういうことじゃないんだ。ただ、そう、なんとなく……」
「ふーん、そうか。でもね、なにも無理に忘れようとしなくてもさ、そんな有馬君の気持ちをわかった上で受け止めてくれる子っていると思うわ。なんていうのかしら、セリナのことをいつまでも大事に思う有馬君だからこそ好きになれるって気持ち…… そういうことってあると思う。」
「あるのかな…… そんな虫のいい話……」
「あるよ。」
あるよ。笹木さんにしては珍しくはっきりとした、自信のありそうな返事だった。そして笹木さんは鞄から二つのスコップをとりだして、一つを俺の方によこすと、もうひとつを持ってサボテンの下を掘り始めた。俺もそれを追いかけるように掘り始めた。
このサボテンをここに埋めてどれくらいの時間がたったのだろう…… 考えてみればあれからもう四年だ。土は固く締まっていて掘り起こすのに少しだけ苦労した。無言で掘り起こすおれたち二人の前にやがてビニールに包まれたブリキの缶が出てきた。
この四年間、この缶はどんな思いで土の中に眠っていたのかを想像してみる。……もしかすするとこのままずっと掘り起こされることがないのではないかと不安になったことはないだろうか…… いや、きっとそんことはないだろう。このタイムカプセルは初めから掘り起こされることが前提で埋められたものだ。さらに言えば、掘り起こされることが決まった時点で埋められたに違いない…… まるで自分の言っていること自体が支離滅裂な気もするが、なんだかそれは間違っていない気がする。
缶の中にはさらに二つの箱が入っていた。小さな真四角の箱とそれよりもう一回り大きめな長方形の箱だ。笹木さんは中を開けるなり長方形の箱をとりだした。それが自分の埋めた、当時の〝たからもの〟であることを覚えていたのだろう。
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