第26話 その一歩

 

一歩。


 その足を強く前へ踏み出した。

 その瞬間に世界が一瞬にししてぐにゃりと渦を巻いた。渦の中心がぐるぐるとまわり、そこからうずが消えるように放射線状に広がっていくと、そこはさっきまでウチが立っていた場所ではないと気が付いた。

 並行世界への回転扉をまた、一つくぐったに違いない。

そこがどういった世界なのかはわからない。日付と時間とを確認したかったが、あいにくポケットにスマホは入っていないし、鞄も持ってはいなかった。葬儀会場に鞄ごと忘れて、それをセリナが取りに行ってくれていたことを思いだす。


ただ、一つだけ言えることがある。おそらくこれから先、ここで起きる出来事がこの世界の未来を決定する重要な出来事になるのだろう。

それはあらかじめ運命として決められた出来事で、自分自身の意思で変更不可能な〝予定調和〟なのかもしれない。

あるいは、未来の自分にとって都合の良い過去を作り出すための〝未定調和〟なのかもしれない。


あたりは真っ暗な山道だった。空の上にぼんやり浮かんだ下弦の三日月の月明かりが林の隙間を縫って山道をまっすぐ照らしていた。ウチにはその山道を登る以外に選択肢はないように思えた。   その先で何かをしなければならない。それだけは絶対に変更不可能なことに違いない。でなければ自分がここに来る意味など無いはずなのだから。


夜の山道は昨日降った雨がまだ、あちらこちらの木々に重く湿った枝先の深い緑の葉を垂らしている。山道の土からむき出しになった岩は濡れていて、気を付けないと足を滑らせてしまいそうだ。

突然の山道は、どちらが登りで、どちらが下りなのか、判断ができない。特に深くは考えずに、ウチはまっすぐ月の見える方向に歩き出すことにした。なんとなくそちらの方が上り坂に感じたからだけれども、理由はそれだけではない。

今の自分がとる行動には絶対に間違いなどありえない。選んだ方向こそが必ず正しい方向なのだという確信があった。今の自分の行動はすべて運命で決められた行動であって、初めから間違えることなどありえないようになっているはずなのだ。そう考えることで迷いは消えた。振り返ることもなくまっすぐに歩き始めた。

空の上には三日月が見える。その方向へ向かっていけば間違いはない。その確信だけはしっかりとある。

「こんな山道を歩くと知っていたなら、葬儀とはわかっていてももう少し歩きやすい靴を履いてきたのに……」

 誰も聞いてなどいないとわかりきった上で呟いた。あるいはウチのこんな非現実の体験をどこかで眺めているであろう神様に対する嫌味だったのかもしれない。

 葬儀用に履いてきた黒いパンプスはぬかるんだ土の上にも、ましてや濡れた岩の上を歩くなんてもってのほかだ。「くそ!」普段は使わないような汚い言葉を投げつけて足を強く踏み出すと、パンプスのヒールは見事に岩の上を滑走した。

 体が空中に弧の字を描いて地面に落ちる。お尻を岩で強く打ち、パンプスのヒールも折れた。黒のタイツも破れて、おそらく血だって出ているだろうが、わずかな月明かりでは確認できない。それどころか最悪なことに、転んだ拍子に右目のコンタクトレンズを落としてしまったらしい。

 こんなことまで運命で決められているのだなんて思いたくもなかった。半べそを掻きたくもなったが、今日だけは、まことさんの葬儀のある今日だけは絶対に泣かないと決めていた。(とはいっても、今現在がまことさんの葬儀が行われた今日、と言っていいのかどうかもわからなかったが)

 ウチはそれでも立ち上がって歩き始めた。当たりがよく見えないが、月の明かりだけが頼りだ。ヒールの折れたパンプスなんてその場に捨てておいた。黒いタイツだけで濡れた地面を歩き始めた。しばらく歩くと地面の水分を吸って膝のあたりまでがびしょ濡れになってきた。

 夜道に濡れた膝下が体温を奪って寒くなってきた。このまま地面の水分を吸い続けるというのならタイツごと脱いで捨ててしまった方がいいのかもしれないと思ったが、そうはならなかった。

 どうやら山頂らしい開けた場所にやってきた。山道の頂上のその部分の一角だけがまるで何かに切り取られたかのように樹の一本も生えていない草地で、何か宗教儀式に使うのであろうか、檜で組まれた祭壇がある。

 祭壇の上に立って右目を瞑り、コンタクトレンズの入った左目だけで周りを見渡すと、あたり一面、街の夜景が見渡せた。上を向けば邪魔をする樹もなく、下弦の三日月と満天の星とが一望できた。

 息も詰まるような絶景だった。この景色をまことさんと観たい。そう思った時、   いや、過去にこの景色を一緒に見たことがあるかもしれない。といったデ・ジャ・ヴに見舞われた。

 本当に見たことがあったのかもしれないと考えたが、どうしてもそんな記憶は思いだせない。

 視線を下げてもう一度あたりを見渡すと、祭壇から少し離れたところに切り立った崖があることに気が付いた。

 吸い寄せられるように切り立った崖の方へと歩み寄った。

 さっきと同じように右目を瞑り、よく見える左目だけにした。切り立った崖の突端からは遠くの方に見える街明かりが見渡せた。片目だけだと距離感がうまくつかめなくて、はるか遠くまで見える街明かりはやがて遠くの方で夜空に広がる星々と一体になった。突端に立がち、両手を広げるとそれはまるで天の川を駆ける白鳥座の白鳥になったような気持ちがした。


「このまま空を飛べたらいいのに……」


 呟いた時に気が付いた。ここがどこなのか? なぜ自分がここに来てしまったのか?


 ここはまことさんが足を滑らせて落ちたという崖に違いない。

 では、なぜ、自分はここに導かれたのだろうか?


 そのヒントは葬儀場に現れた、謎の白衣の男が言っていた。


『世界は君の創造にゆだねられている。君が望めば世界への扉は開かれる。だがそれは誰かの犠牲が必要だ。未来は残酷に運命が決定されている。どの世界を選んでもいい。だがそれは誰かが死ななければならない未来だ。

 有馬真言か……

 最上芹菜か……

 それとも……。』


    それとも、笹木紗輝か。


 そういうことなのだろう。

 ウチはここで選択を迫られているのだ。

 三人のうち、誰かが死ななければならない運命。


 これまでに経験したいくつかの世界を思い返してみた。最上芹菜のいなくなった世界。それに有馬真言がいなくなった世界。

 そのどちらも居心地の悪い世界だった。そのどちらの世界で生き続けることも望みたくはなかった。

 それならば…… 

 それならば自分のいなくなった世界はどうなのだろう。

 その世界ではきっとまことさんとセリナが二人、仲良く暮らしていけるのだろう。

 それは想像するに悪い世界ではなかった。


 その世界を選ぶことはとても簡単なことに思えた。

 右目を開けて、左目を瞑った。

 コンタクトレンズのない世界はぼやけて恐怖を感じなくなった。

 あとはこのまま一歩踏み出せばいいのだ。

 そう決心したら涙がこぼれた。

 せっかく今日一日は絶対に泣かないと決めていたのに……

 ゆっくりと一歩、足を踏み出した。

 踏み出した足は空中を漂い、体はバランスを崩し、左前へ向かって傾いた。

 とっさに開いてしまった左目で、左手の先の方にある茂みがはっきりと見えた。

 茂みの中に一本、あからさまな違和感を感じる大きなサボテンがあった。それは一メートルくらいにまで大きく育った、立派なハート形のサボテンだった。

 サボテンの姿はウチの脳の中で走馬灯を引き起こした。

 つい、さっきまですっかり忘れていた過去の出来事。

 なぜ、今の今までこんな大事なことを忘れていたのだろう。

 それはまるで、この瞬間に初めてその過去の出来事が発生したかのように、今まですっかり忘れていた出来事がはっきりと思いだすことができた。

 

   自分はあのサボテンのところに行きたい。


そう思ったが、すでにウチの体に自由はなく、重力の委ねるままに体を傾けていった……



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